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上ー饒平名智太郎の本。 下ー饒平名(永丘)智太郎と甥の知念良秀。右ー知念良秀氏(佐倉市の知念宅前で/撮影・新城栄徳)

□2005年5月『琉球弧の雑誌展』新城栄徳「饒平名智太郎と親泊康永」沖縄タイムス社

東京本郷にあった知念良秀氏経営の「沖縄民芸社」守礼門が印象的だ。
□1970年3月『オキナワグラフ』ー知念良秀さん(千葉県佐倉市新町96番地)/わたしが扱っている品数は多いですよ。沖縄産のもの、沖縄に関するものなら何でも、と言ってもいいでしょう。レコード、切手、書籍、漆器、貝彫刻、bべっ甲、カツオ節、パインジュース、絵ハガキ、スライドなどなど。商社なみの取り揃えぶりです。東京郵便切手商協同組合に入っており、琉球郵便切手は沖縄でより安く売る店を自慢にしていますが、切手収集ブームは根強いものがあり、今後も収集家が減ることはないでしょう。復帰のあかつきには琉球郵便も当然廃止されることになるわけで、今のうちに集めておかれるよう宣伝している次第です。最近は発行部数が需要にくらべて少ないようです。またデザイン、色彩ももっと良くしてくれるよう琉球政府に働きかけています。世界には珍しい切手を発行することで国家財政を潤している国もあるほどで、積極的な売り込みに出てほしい。
レコードは20年も30年も昔に上京した人が懐かしがって買いに来たり、集団就職の青少年や学生などが故郷を思い出すよすがに買い求めていきます。沖縄にはいい民謡が数知れずあります。それらをどしどし吹き込んでレコード化させ、シリーズで出せば注目されるでしょう。沖縄物産を売ること、それは私の生きがいです。

知念良秀
 2004年2月28日『沖縄タイムス』新城栄徳(うちなー書の森 人の網)ー那覇に住んでいると東京は遠くなる。2002年夏、琉球書院の大城精徳氏から電話があり、「千葉の佐倉におられる知念良秀氏から早めに来てほしいと君への連絡があった」という。台風が接近中だったので東大阪市の自宅に行き新幹線で上京。上野の西郷隆盛銅像に近い駅から佐倉市へ向かう。翌日、台風の風雨の中、みつい夫人運転の車で知念氏と子息宅に行き成田空港地域共生委員会伝承部会調査員の取材に応じた。伝承部会『2002年度調査報告書』に「永丘智太郎氏のご親類であることから、知念氏に昨年7月に聞き取り調査を行った。その際、永丘氏について研究されている新城栄徳氏(那覇市在住)も同席した」とある。知念氏と永丘については1998年5月の琉球新報「東京で活躍した出版人2人/饒平名(永丘)智太郎と親泊康永」で書いた。永丘は1914年、上海の東亜同文書院で学び北京の共同通信英文記者を経て改造記者となり孫文、片山潜らに知遇を得た。

知念良秀氏は沖縄戦で、球部隊の通信兵として激戦地をさまよった。港川で捕虜となりハワイの収容所へ。そして送還され胸を患い金武の保養院から国立佐倉療養所に入所。社会復帰を果たし、1965年、趣味の切手商を経て沖縄物産を手がけ東京本郷で沖縄民芸社を経営する。知念氏は歌誌『九年母』の古い同人。『松田守夫歌集』(1964年)に知念良秀兄と題し「朝明けてつばめ飛び交う街の空日本に君を今日発たしめむ」とある。帰る際に、知念氏は真新しい墓の写真を見せてくれた。それが2003年3月6日享年77歳で亡くなられた氏との別れとなった。氏からおくられた歌「下総に移りきてすでに30余年鉢の蘇鉄は枯れ果てにけり」「故里の梯梧の花の咲く頃に我は行きたし久茂地川辺に」。知念氏は「沖縄物産を売ることが生きがい」と常に語っていた。氏に言われた「東京の沖縄物産史を調べてほしい」が宿題に。最近、関東沖縄物産協会で知念氏と共に活躍した宮城三吉氏(沖東物産)に浦添のご自宅で話を伺った。


 大濱聡2019-2■文学者たちの面影をたどっていたら、なぜか54年前の高校の修学旅行を思い出した。本郷の旅館に泊まったのだが、到着した日の夕刊で谷崎潤一郎の訃報を知ったことを今でも鮮明に記憶している。


饒平名智太郎②











饒平名智太郎②
1、昭和7年5月以降  東亜問題の研究に専念し、若干の執筆がある。中国学生相手の飯店「東方閣」を経営し「東方倶楽部」に改組して文化的施設を併置すべく郭沫若(現中共政府副総理)に計ったことがあった。しかし戦争のため留学生が帰国する者続出し、此計画は実現しなかった。

1932年3月 『改造』饒平名智太郎「モスクワの計画」
1932年10月 『改造』饒平名智太郎「日露国交の危機」
1933年1月  『改造』饒平名智太郎「ソヴエート第二次五ヶ年計画」

1、昭和11年11月以降  4カ月間にわたり南洋群島、比律賓、南支及び台湾を視察し、ダバオでは日本人会の紛争を調停した。私がその後移植民問題に関わりを持つに至った最初の機会であった。



    饒平名智太郎「沖縄県人会の存在意義」

1、昭和12年7月  拓務省嘱託大臣官房勤務を命ぜられ、嘱託としての最高俸をもらった。近衛内閣の書記官長風見章の推薦に據る。


1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「饒平名智太郎」

1、昭和12年9月  朝鮮、満州国、関東州へ出張を命ぜられ、主として北満の武装移民の入植状況を視察した。(在満朝鮮人事情を執筆す)

1、昭和13年4月  現職のまま拓務省直営の奨励館主事(後に参事)を命ぜられ、機関誌「海を越えて」
を主宰した。官庁の息のかかった雑誌として恐らく秀逸であったろう。藤田嗣治、東郷青児等の画伯も表紙絵にしばしば動員され、又移民文学の育成にも大いに貢献するところがあった。

1938年4月19日 『琉球新報』永丘智太郎「海の生命線と沖縄漁夫の活躍(1)」


1、昭和13年7月  樺太へ出張を命ぜられた。その途次アイヌの父ジョン・バチエラー翁を訪ねたり、「樺太に於ける土人政策」の資料を蒐集したり、北大図書館で北海道屯田兵実施の指導者氷山武四郎のシベリヤ「周遊日記」という珍本を読んだり、私にとって有益な出張であった。
1938年7月 永丘智太郎『極東の計画と民族』第一出版社
1939年1月 『拓殖奨励館季報』創刊号 永丘智太郎「樺太に於ける土人政策」
1、昭和14年7月  朝鮮へ出張を命ぜられた。この旅行で私が特に興味を持って視察した所は、ソ連との国境地帯の住民と北鮮白頭山麓の思想地帯であった。日本の総督治下で金日成が侵入して「ソヴエート地区」と呼んでいた北鮮南三郡の農民運動の足跡を辿り日本官憲弾圧の資料は私の手許にある。
1939年8月 『地理教育』永丘智太郎「比島に於ける西班芽の植民的遺産」
1939年9月 永丘智太郎『極東ロシア植民物語』(財)拓殖奨励館

1、昭和14年11月  国策研究会に民族間題委員会が構成され、委員長大蔵公望から話があって私も委員となり約1年半東亜諸民族対策を研究した。私の分担はソ連の東洋民族政策であった。

昭和15年 『海を越えて』(財)日本拓殖協会発行の編集兼発行人となる。(~昭和16年2月)


1、昭和16年4月  主要府県在住朝鮮人の実態取調のため国内出張を命ぜられた。

1、昭和16年5月  拓殖奨励館はさきに日本拓殖協会と改称されていたがその参加団体たる南洋団体連合会の会長役を拓殖協会理事長が引受けた関係上」、私も同連合会に転出を命ぜられ調査部を主宰することとなり、大南洋年鑑を編集した。
1941年5月 『南洋』永丘智太郎「南方大調査機関設置の緊急性」
1、昭和16年11月  東洋拓殖株式会社嘱託兼務を命ぜられ社友会機関誌の編集事務を一任された。

1、昭和16年12月  南洋協会の常務理事だった二人の旧知からの懇望を容れ、南洋団体連合会を辞めて「南洋」の編集長となった。

1、昭和17年4月  各大学植民政策担当の学者で組織された大日本拓殖学会理事に推薦された。(会長高岡熊雄博士)

1、仝上        国策研究会大東亜労務対策委員会及び幹事を委嘱され、約半年にわたり南方の労働事情を研究し国策週報誌上に発表した。(委員長拓務次官田中武雄)
1942年6月 『南洋経済研究』永丘智太郎「旧支配国の統治政策研究(1)」
1942年9月 『南洋経済研究』永丘智太郎「旧支配国の統治政策研究(Ⅲ)」
1943年1月 『南洋経済研究』永丘智太郎「ミンダナオ=スールー地方 非基督教民族」

1、昭和17年11月  南洋協会の経営する「南方生活科学研究会」の常任委員を命ぜられた。(委員長陸軍軍医局長三木良英)

1、昭和18年5月  南洋協会への義理を果たして辞職し、東洋拓殖株式会社農林課常時勤務を命ぜられ、東亜地域に於ける労働事情、小作問題の調査事務を担当した。

1、昭和18年8月  農村事情調査のため朝鮮へ出張を命ぜられ主として東拓の母国移民地を視察した。済州島へも始めて行った。

1、昭和20年3月  東拓は現職のまま内務省管理局嘱託を命ぜられ朝鮮研究所の設立事務に携った。(これは東拓から資金が出ていた関係)

1、昭和20年7月  九州在住朝鮮人の戦災被害状況並に沖縄県疎開民の窮状調査のため内務大臣の特命で九州一円に出張を命ぜられ熊本の田舎で終戦に出会った。

1、昭和20年7月  沖縄難民の援護機関「沖縄協会」の設立に参画しその理事兼主事に選任された。(理事長伊江朝助)

1、昭和20年11月  沖縄人連盟を組織し副会長、総本部長を兼ね初代の会長事務を代行した。(会長伊波普猷)

1、昭和21年4月   沖縄協会は維持費を内務省、援護費を厚生省から補助金として獲得し常務理事に選任された。

1、昭和21年10月  昭和21年10月  沖縄協会理事長に選任され、同時に引揚者全国連合会の組織に参加しその副委員長となった。  

「沖縄人連盟」は本土在住沖縄人の民主的全国組織で自力を結集して同郷の引揚者、復員者、徴用工等を援護し力の及ばないところを政府及び連合軍総司令部に陳情して救助して貰った。かくて12万余の県人に政府から衣料、炊事道具、生業資金等の交付を受けて郷里へ送還した。また1万の遺骨をも無事に遺族へ引渡した。

「沖縄協会」は福岡にあった沖縄県出張事務所と協力して九州に疎開していた約5万の県民の救護に当り、かつ東京都内に引揚者の寮を用意し、宮内省に陳情して三里塚の御料地から80町歩を解放してもらって3百人の沖縄県難民を入植させてある1、昭和22年5月  右一切の援護事業から引退し、今は老妻と二人で三里塚の開拓地にあって1町歩の土地を耕作する開拓民に卒伍して余世を送り時折上京している。

妻八重(香川県人)との間に3男1女を挙げたが長女と2男をと喪い長男は健在で私大の助教授(心理学講座)として東京に別居しすでに嫡孫も生まれているが、3男は大学卒業間際に病気となり3年来国立病院で療養をつづけている。

著書(代表的なもの)
1、ガンヂーと直理の杷持(改造社)
1、極東の計画と民族(第一出版社)
1、極東ロシヤ植民物語(拓殖協会)
 
其他

                       右 永丘智太郎㊞

1947年1月15日『沖縄新民報』「沖縄人聯盟の内訌-永丘氏等遂に退陣」
1947年7月15日『沖縄新民報』「NHKの6月25日放送『私たちの言葉』で永丘智太郎の原稿『食物呉ゆしど我が御主』に対し、28日の放送で仲原善忠沖縄人聯盟会長が反駁」
1947年12月『青年沖縄』永丘智太郎「伊波文学士の憶ひ出」
1948年2月15日『沖縄新民報』「永丘智太郎氏、運輸省を訴へる」「宮里貞寛氏、2月14日兵庫県御影で逝去」
1948年3月15日『沖縄タイムズ』「琉球民族問題懇話会ー常任理事・永丘智太郎、比嘉春潮、比嘉良篤、比屋根安定、高安重正」
1949年1月15日『沖縄タイムズ』「永丘氏と一問一答/対日講和のカギは米ソ協調にかかる」
1950年2月25日『沖縄新民報』「永丘氏ら新運動展開ー元沖縄人連盟幹部永丘智太郎、元沖縄人青年連盟会長太田直治両氏は此の程沖縄、大島解放連盟なる団体を組織して沖縄、大島に対する米軍基地設置反対、人民奴隷化反対を標榜している」

1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』

1952年7月10日『沖縄新報』№15 発行代表者・永丘智太郎

1955年5月1日『沖縄と奄美』第38号 主筆・永丘智太郎 編集発行人・宮原邦男
1960年11月15日『沖縄タイムス』「永丘智太郎氏 13日未明 胃がんで死去。告別式は19日新宿区牛込河田町の月桂寺で行われる。」/『琉球新報』「長岡智太郎氏 胃がんのため12日ひる東京都下田無町2729で死去した。」