07/27: 萩原正徳と『旅と伝説』
今は亡き岡本恵徳先生は私の顔を見るたび「もっと奄美資料に注目してくれ」が口癖であった。私は伯父や伯母の連れ合いが奄美出身であったから特に奄美を意識したことがないが、琉球文化には当然に奄美も入っていると思っている。奄美の図書館には島尾敏雄氏に会ってみたいと2回ほど行ったが何時も休館日だった。島尾敏雄氏には会えなかったが、その代わりといっていいか分からないが山下欣一氏に出会った。
喜納緑村『琉球昔噺集』を発行した三元社の萩原正徳が奄美関係者らしいと前々から気になっていた。山下欣一氏に問い合わせると家系図、『道之島通信』、『定本・柳田國男集』の月報などの萩原資料をたくさん贈ってこられた。緑村は1930年に『沖縄童話集第一編ー犬と猫』(津嘉山栄興挿絵)を神山青巧堂印刷で刊行した。山下氏も萩原正徳を当然と言えば当然だが色々と紹介して居られた。それに用いた資料だが次に紹介する。
前列右端が柳田国男、左端が比嘉春潮/後列右から萩原正徳、大藤時彦、瀬川清子
1944年3月『民間伝承』柳田国男「『旅と伝説』について」□(略)改めてもう一度、初めから読み返して見たい気がする。公平に批判してどの部分、一ばん後世に役立つ仕事だったかを、考へ且つ説いて見たくもなる。
私の処にはもう主要記事の索引も出来て居るのだが、この判定は実はさう容易な業では無い。しかし先ず大まかに考へて、婚礼誕生葬祭その他の特集号を出し、又昔話を二度まで出した頃などが、全盛期だったと言へるかもしれない。こんなにまで多数の同志があったのかと、驚くほどの人々が全国の各地から、何れも好意づくだけでよい原稿を寄せ、所謂陣容を輝かしてくれたのみならず、此時を境にそれぞれの問題に対する理解常識が、目に見えて躍進したので、之を読んで居ない人の云ふことが、あれから以後は何だかたより無いもののやうに感じられるやうになった。つまりは民俗資料といふものは、集めて比較して見なければ価値が無いといふことを、実地に証明してくれたのである。
その以外に今一つ承認しなければならぬことは、萩原君は故郷の奄美大島の為に、この雑誌を通して中々よく働いて居る。それには同郷知友の共鳴支援といふことも条件ではあったが、とにかくに全十六巻を通じて、奄美大島に関する報告は多く、又清新な第一次の資料が多かったことは争へない。その一つの例として手近に私の心づいたことをあげると、第一巻のたしか二号か三号に、島の先輩の露西亜学者昇曙夢さんが、アモレヲナグ即ち天降女人の事を書いて、我々に大きな印象を与へ、又より多くを知りたがらせて居たのだが、それが約十六年を隔てて最終号の中に、今度は金久正君といふ若い同志が、それを詳しく書いて我々の渇望を医して居る。もう「旅と伝説」さへ大切に保存して置けばこの世界的興味のある一問題は、永久に学問の領分からは消えないのである。或ひはそれほどまで大きな問題だと思はぬであらう人たちの為に、出来るだけ簡単に前後二ヶ所に出て居る天降女人の事を書き伝へ、出来るならば此上にももっと豊富な資料の、集まって来る機縁を促したい。(略)
奄美大島といふところは、私の知る限りでも、内部歴史の珍しく豊かな島であった。書いた記録がといふものは僅かしか残らぬが、近い百年二百年の間にも避ければ避けたかった実に色々な経験をしてゐる。さうして全体に今は古い拘束から解き放たれて、新時代のあらゆる機会を利用し、すぐれた人物が輩出して居るのである。住民自身としては忘れた方がよいやうな、外の者からは是非参考の為に聴いて置きたいやうな、無数の思ひ出をかかへて、まだ其処理を付けずに居るといふ感じがある。此数からいふと、萩原君の如き人がもっと辛抱強く、古い埋もれたことを尋ね出さうとする知友を糾合して居てくれたらと思はずには居られぬのだが、それをもう謂って見ても仕方が無い。それよりも雑誌をその時々の慰みなどとは考へずに、いつまでも之を精読する者の、是から日本にも多くなるやうに、我々もどうかして残るやうな雑誌を作って行きたい。
1981年7月『道之島通信』83号「民俗学開拓に貢献 萩原正徳(1896~1950)」□はじめに 1928年(昭和3年)から1944年(昭和19年)まで、東京で『旅と伝説』という月刊雑誌を発行、日本民族学の発展に著しく貢献したのが萩原正徳である。正徳は、1896年(明治29年)名瀬市金久に生まれ、若くして上京、東京高等工芸学校を卒業、27歳の時夫人ウメさん(千葉県出身)を娶った。弟に利用と厚生がおり、厚生は鹿児島一中から一高、東大へ進んだ奄美の秀才として名を馳せた人である。酒と島うたが好きで、子供が喧嘩して泣いて帰ると「泣かされて帰る奴がいるか、相手を泣かして来い」と、一人息子の正道を叱るくらいの気骨の持ち主でもあった。三元社という写真製版の会社を経営する一方、柳田国男らの民俗研究グループに参加、奄美をはじめ、各地の研究報告を『旅と伝説』に掲載、記録を歴史に残した。「若い頃から頭は、はげていましたので、年の割に老けて見えましたよ」と八十歳になったウメさんは話す。耳が悪かったため、兵役を免れ、柳田国男にどなられても笑っていたという。
1998年10月『柳田國男全集 第6巻 月報13』山下欣一「『海南小記』ー奄美の旅前後」□(略)最初の伊波普猷の奄美来訪は1918年(大正7)1月であった。これは私立大島郡教育会・二部研究会(瀬戸内・宇検)による招聘である。この時の中心になったのは二部研究会長で古仁屋小学校長永井龍一と当時篠川農学校教諭竹島純(沖縄師範卒)であった。この2名は伊波普猷・比嘉春潮を出迎えのために名瀬へ出張するが、船待ちのため十数日滞在を余儀なくされ、その間、奄美の文献資料を調査したりしている。この時『奄美大島史』の著者である坂口徳太郎も鹿児島県立大島中学校に勤務していたので、その指導も受けたと考えられる。
伊波普猷は、この第1回の旅で『南島雑話』、『奄美史談』などを沖縄へ借用し、筆写させ、沖縄県立図書館へ収蔵し閲覧に供したのである。(略)伊波普猷の奄美招聘の中心にいた竹島純は伊波普猷の講演記録を伊波の「序に代へて」を付して1931年(昭和6)に大島郡教育会から『南島史考』としてまとめている。また後で永井龍一は鹿児島に居を移し、『南島雑話』、『補遺篇』、『奄美史談』などの文献資料の自費刊行を試みている。この『南島雑話』刊行に刺激された永井龍一の兄亀彦(博物学者)は『南島雑話』の編著者を薩摩藩上士名越左源太時敏と確認し、また名越家で『遠島日記』をも発見し、これらを自費刊行している。これらは、昭和初年から、終戦直後に及んだ作業であった。永井兄亀・龍一兄弟は名瀬の与人役政家の一族である。父永井長昌喜は漢学者で教育者であった。
亀彦・龍一の姉よしは萩原家に嫁し、その子息が正徳・利用・厚生の兄弟である。叔父に『奄美史談』の著者都成植義(南峰)がいる。亀彦・龍一の甥に当る萩原正徳は上京し、東京高等工業学校で学び、海軍省水路部をへて写真製版業を営み、三元社を興した。柳田国男の指導を受けて『旅と伝説』を刊行した。これには昇曙夢・岩倉市郎・金久正などの奄美の研究者が登場しているのは故なしとしないのである。
次に『旅と伝説』を奄美・沖縄関係を主にアトランダムに目次を並べてみる。
1928年1月『旅と伝説』創刊号□奄美大島に伝はる「あもれをなぐ」の伝説・・・昇曙夢
1928年4月『旅と伝説』第4号□奄美大島の民謡・・・昇曙夢
1928年5月『旅と伝説』第5号□三鳥問答・・・伊波普猷
1928年6月『旅と伝説』第6号□性的玩具が持つ伝説三篇・・・北野博美
1928年7月『旅と伝説』第7号□南西諸島の伝説(上)・・・茂野幽考
1928年9月『旅と伝説』第9号□水鏡天神・・・中山太郎/唐人物語・・・昇曙夢/石仏を繞って・・・早川孝太郎
1928年11月『旅と伝説』第11号□南島語源雑考・・・岩倉市郎
1929年1月『旅と伝説』第2巻第1号□黄金の挽臼・・・佐々木喜善
1929年2月『旅と伝説』第2巻第2号□南島の独木舟研究・・・茂野幽考/うそ替神事考・・・本山桂川/新撰八重山月令・・・岩崎卓爾
1929年3月『旅と伝説』第2巻第3号□平家の南走とエラブウナギに関する伝説・・・永井亀彦
1929年5月『旅と伝説』第2巻第5号□鶯替神事に就て・・・南方熊楠/琉球の伝説・・・金城朝永/琉球八重山に於ける人魚の話・・・喜舎場川石
1929年9月『旅と伝説』第2巻第9号□島原のおどり場・・・三田村鳶魚
1929年11月『旅と伝説』第2巻第11号□餅搗かぬ家・・・折口信夫
1929年12月『旅と伝説』第2巻第12号□琉球方言の比喩法・・・金城朝永
1930年1月『旅と伝説』第3巻第1号□水の木火の木・・・折口信夫/日高国義経神社の由来・・・金田一京助/周防大島(1)・・・宮本常一/糸満の町へ・・・本山桂川
1930年2月『旅と伝説』第3巻第2号□那覇の読み方・・・伊波普猷/平家の落人の村々・・・中山太郎
1930年3月『旅と伝説』第3巻第3号□日本に於ける郷土玩具の分類・・・フデレリック・スタール/琉球の玩具・・・金城朝永/琉球の戯曲に現れた玩具・・・伊波普猷
1930年4月『旅と伝説』第3巻第4号□八重山のマクタ遊び・・・伊波普猷/既刊郡誌書目解題(1)大藤時彦
1930年5月『旅と伝説』第3巻第5号□刺なきイバラ・・・南方熊楠/密告伝説・・・中山太郎/
1930年11月『旅と伝説』第3巻第11号□スバル星の記・・・新村出/イチハツを屋根に栽る事・・・南方熊楠/徳阿弥親氏の板碑・・・三田村鳶魚
1931年1月『旅と伝説』第4巻第1号□春来る鬼・・・折口信夫/春の七草・・・牧野富太郎/歌名所のうそ・・・喜田貞吉/硫黄ケ島・・・永井亀彦/琉球語と壱岐方言との比較対照・・・伊波普猷/出雲方言の謎・・・東条操/鼠の花籠(1)・・・岩崎蝶仙/城の怪異・・・小寺融吉/羊の玩具・・・川崎巨泉/ふところ旅・・・長谷川伸
1931年2月『旅と伝説』第4巻第2号□ナナカマドの木が雷を避るといふ事・・・南方熊楠/思出の旅日記・・・宮武外骨
1931年9月□南方熊楠より岩田準一へーむかし薩摩に伝えし『弘法大師一巻之書』という写本と、故末吉安恭氏よりもらいし琉球の浄愛の歌の序文を、前年写して三田村鳶魚氏におくれり。只今置き処分分からず。そのうち見出でたら写し差し上ぐべく候。
1931年10月『旅と伝説』第4巻第10号□南島談話(第一号)ー「あさみち」といふ古語に就いて・・・伊波普猷/九州以南に於けるガ行鼻音の調査・・・宮良当壮/風に関する喜界島の方言・・・岩倉市郎/島と云ふ言葉について・・・島袋盛敏/犯人検挙と鬼定めの法(上)・・・島袋源七/琉球語と日本各地方言との類似語・・・金城朝永
1931年11月『旅と伝説』第4巻第11号□孤島苦を意味する古琉球語・・・伊波普猷/陸前鹿妻と清水目の鹿踊・・・本田安次
1931年12月『旅と伝説』第4巻第12号□馬角さん・・・南方熊楠/□南島談話(第二号)ー南島入墨を歌った歌謡に就て・・・小原一夫/船に関する土俗・・・島袋源一郎/ゾレの話・・・岩切登/犯人検挙と鬼定めの法(下)・・・島袋源七/南島方言に於ける敬語法(第二回例会記録)
1932年1月『旅と伝説』第5巻第1号□えのこ草の歌・・・南方熊楠
1932年2月『旅と伝説』第5巻第2号□南島談話(第三号)ー中頭郡西原村に於ける日常の挨拶・・・比嘉春潮/喜界島に於ける敬語法・・・岩倉市郎/首里のまじなひ・・・島袋盛敏/沖縄俚諺集釈(1)・・・金城朝永/南島関係記事目録(昭和6年度)・・・大藤時彦
1932年4月『旅と伝説』第5巻第4号□南島談話(第四号)ー媾曳を歌ったオモロ・・・伊波普猷/頭髪・・・島袋源七/沖縄俚諺集釈(2)・・・金城朝永/喜界古謡「闘牛歌」・・・岩倉市郎/火焼厝・・7連温卿
1932年7月『旅と伝説』第5巻第4号□釣り狐の狂言・・・南方熊楠/島日記・・・本山」桂川
1932年8月『旅と伝説』第5巻第8号□人に化て人と交った柳の精・・・南方熊楠/□南島談話(第五号)ー琉球語大辞典編纂経過概要・・・伊波普猷/差し石・・・比嘉春潮/今帰仁方言に於ける語頭母音の無声化・・・仲宗根政善/牡牛考・・・島袋源七/嬰児に対する最初の発音訓練・・・岩倉市郎/沖縄俚諺集釈(3)・・・金城朝永
1932年10月『旅と伝説』第5巻第10号□南島談話(第六号)ー石が命みおやせ(おもろ)・・・伊波普猷/琉球関係記事目録(明治年間)・・・金城朝永/沖縄俚諺集釈(4)・・・金城朝永
1932年12月□南方熊楠より岩田準一へーさて只今好んで、やれ雅言の俗言の方言の郷語のと鹿爪らしく論ずる輩には、関東者あり、奥羽人あり、薩摩人あり、近時は琉球人まで、いかにも日本の正しき語は沖縄から産まれたような狂語を大道狭しといいわめく。また大隅とか日向とか種が島とか屋久島とか、われら少きときは鬼のすむ片土のごとく思うた所の者どもが、そんなことをいいののしる。これでは方言が何やら、どこの語が正しいのやら、何もかもさっぱり無茶苦茶に御座候。
1933年12月□岩田準一より南方熊楠へー私はかつてただ一つの歌謡をきかんがために、藤沢衛彦にたずねてスッポコを食わされ、また中山先生御紹介ゆえ金城朝永に琉球男色をたずねて、何の回答もなかりしゆえ、以来、この種の人物とは一切交際もなく・・・
1963年9月『定本 柳田國男集 月報21』比嘉春潮□柳田先生と沖縄 その後柳田先生のおすすめで南島談話会が出来た。これは以前にも柳田先生を中心に同名の会があったが、こんどはその復活だという話であった。柳田、伊波両先生と岡村千秋さんなどを中心に南島の研究をする会で、私と金城朝永君が幹事役をつとめて毎月一回会合し研究題目は大てい柳田先生の方で決めて戴いた。この会は難等に関心を持つ学界各方面の研究家の相当数の参加を得て数年間もつづき、一時は『旅と伝説』誌の附録として『南島談話』という小機関誌を出すほどであった。昭和七八年の頃、私が一時退社したことがあって、この機会に柳田先生の御指導の下に『島』という特殊の雑誌を出したことがある。先生が編集者として著名され大いに力を入れて下さったが、経営の面がうまく行かず又私が再び改造社に勤めるようになったので、残念ながら二年足らずで廃刊のやむなきに至った。
『南島談話』は1932年10月の第六号をもって終刊、翌年5月に創刊された『嶋』に引き継がれた。
1933年5月『嶋』第一巻第一号(表紙絵ー山口蓬春)□甑島記事・・・宮良当壮/島関係記事目録(1)・・・金城朝永/南島談話会記
1933年5月『嶋』第一巻第一号(表紙絵ー山口蓬春)□甑島記事・・・宮良当壮/島関係記事目録(1)・・・金城朝永/南島談話会記1933年6月『嶋』第一巻第二号(表紙絵ー山口蓬春)□喜界島昔話・・・岩倉市郎/東風と死人の頭痛・・・伊波普猷/翁長旧事談・・・比嘉春潮/針突図誌・・・小原一夫/島関係記事目録(2)・・・金城朝永
1933年7月『嶋』第一巻第三号(表紙絵ー山口蓬春)□口絵・沖縄婦人の針突施術」・・・小原一夫/南洋群島旅行案内・・・吉本泰/喜界島昔話・・・岩倉市郎/針突図誌・・・小原一夫/翁長旧事談(六月綱引のこと)・・・比嘉春潮/島関係記事目録(3)・・・大藤時彦
1933年7月 喜納緑村『琉球昔噺集』(序文・伊波普猷、巌谷小波)三元社
1933年6月『嶋』第一巻第二号(表紙絵ー山口蓬春)□喜界島昔話・・・岩倉市郎/東風と死人の頭痛・・・伊波普猷/翁長旧事談・・・比嘉春潮/針突図誌・・・小原一夫/島関係記事目録(2)・・・金城朝永
1933年7月『嶋』第一巻第三号(表紙絵ー山口蓬春)□口絵・沖縄婦人の針突施術」・・・小原一夫/南洋群島旅行案内・・・吉本泰/喜界島昔話・・・岩倉市郎/針突図誌・・・小原一夫/翁長旧事談(六月綱引のこと)・・・比嘉春潮/島関係記事目録(3)・・・大藤時彦
1933年7月 喜納緑村『琉球昔噺集』三元社
1934年4月『嶋』<昭和9年前期>口絵1、宗像沖の島 2、松島 3、舳倉の海女/ 舳倉の海女(瀬川清子)/志摩の蜑女作業の今昔(岩田準一)/安房白濱遊記(大間知篤三)/越後粟島物語(藤井尚治)/篠島史話(酒井豊治)/狢の島(渋谷徹)/伊豆大島の祭り唄(小寺融吉)/八重山に於ける旧来の漁業(喜舎場永珣)/瀬戸内海巡航情緒(藤原与一)/島の三大旅行家(柳田國男)/「奄美大島の民謡大観」(島袋盛敏)/女の家・米の飯と甘藷(末吉安恭・遺稿)
喜納緑村『琉球昔噺集』を発行した三元社の萩原正徳が奄美関係者らしいと前々から気になっていた。山下欣一氏に問い合わせると家系図、『道之島通信』、『定本・柳田國男集』の月報などの萩原資料をたくさん贈ってこられた。緑村は1930年に『沖縄童話集第一編ー犬と猫』(津嘉山栄興挿絵)を神山青巧堂印刷で刊行した。山下氏も萩原正徳を当然と言えば当然だが色々と紹介して居られた。それに用いた資料だが次に紹介する。
前列右端が柳田国男、左端が比嘉春潮/後列右から萩原正徳、大藤時彦、瀬川清子
1944年3月『民間伝承』柳田国男「『旅と伝説』について」□(略)改めてもう一度、初めから読み返して見たい気がする。公平に批判してどの部分、一ばん後世に役立つ仕事だったかを、考へ且つ説いて見たくもなる。
私の処にはもう主要記事の索引も出来て居るのだが、この判定は実はさう容易な業では無い。しかし先ず大まかに考へて、婚礼誕生葬祭その他の特集号を出し、又昔話を二度まで出した頃などが、全盛期だったと言へるかもしれない。こんなにまで多数の同志があったのかと、驚くほどの人々が全国の各地から、何れも好意づくだけでよい原稿を寄せ、所謂陣容を輝かしてくれたのみならず、此時を境にそれぞれの問題に対する理解常識が、目に見えて躍進したので、之を読んで居ない人の云ふことが、あれから以後は何だかたより無いもののやうに感じられるやうになった。つまりは民俗資料といふものは、集めて比較して見なければ価値が無いといふことを、実地に証明してくれたのである。
その以外に今一つ承認しなければならぬことは、萩原君は故郷の奄美大島の為に、この雑誌を通して中々よく働いて居る。それには同郷知友の共鳴支援といふことも条件ではあったが、とにかくに全十六巻を通じて、奄美大島に関する報告は多く、又清新な第一次の資料が多かったことは争へない。その一つの例として手近に私の心づいたことをあげると、第一巻のたしか二号か三号に、島の先輩の露西亜学者昇曙夢さんが、アモレヲナグ即ち天降女人の事を書いて、我々に大きな印象を与へ、又より多くを知りたがらせて居たのだが、それが約十六年を隔てて最終号の中に、今度は金久正君といふ若い同志が、それを詳しく書いて我々の渇望を医して居る。もう「旅と伝説」さへ大切に保存して置けばこの世界的興味のある一問題は、永久に学問の領分からは消えないのである。或ひはそれほどまで大きな問題だと思はぬであらう人たちの為に、出来るだけ簡単に前後二ヶ所に出て居る天降女人の事を書き伝へ、出来るならば此上にももっと豊富な資料の、集まって来る機縁を促したい。(略)
奄美大島といふところは、私の知る限りでも、内部歴史の珍しく豊かな島であった。書いた記録がといふものは僅かしか残らぬが、近い百年二百年の間にも避ければ避けたかった実に色々な経験をしてゐる。さうして全体に今は古い拘束から解き放たれて、新時代のあらゆる機会を利用し、すぐれた人物が輩出して居るのである。住民自身としては忘れた方がよいやうな、外の者からは是非参考の為に聴いて置きたいやうな、無数の思ひ出をかかへて、まだ其処理を付けずに居るといふ感じがある。此数からいふと、萩原君の如き人がもっと辛抱強く、古い埋もれたことを尋ね出さうとする知友を糾合して居てくれたらと思はずには居られぬのだが、それをもう謂って見ても仕方が無い。それよりも雑誌をその時々の慰みなどとは考へずに、いつまでも之を精読する者の、是から日本にも多くなるやうに、我々もどうかして残るやうな雑誌を作って行きたい。
1981年7月『道之島通信』83号「民俗学開拓に貢献 萩原正徳(1896~1950)」□はじめに 1928年(昭和3年)から1944年(昭和19年)まで、東京で『旅と伝説』という月刊雑誌を発行、日本民族学の発展に著しく貢献したのが萩原正徳である。正徳は、1896年(明治29年)名瀬市金久に生まれ、若くして上京、東京高等工芸学校を卒業、27歳の時夫人ウメさん(千葉県出身)を娶った。弟に利用と厚生がおり、厚生は鹿児島一中から一高、東大へ進んだ奄美の秀才として名を馳せた人である。酒と島うたが好きで、子供が喧嘩して泣いて帰ると「泣かされて帰る奴がいるか、相手を泣かして来い」と、一人息子の正道を叱るくらいの気骨の持ち主でもあった。三元社という写真製版の会社を経営する一方、柳田国男らの民俗研究グループに参加、奄美をはじめ、各地の研究報告を『旅と伝説』に掲載、記録を歴史に残した。「若い頃から頭は、はげていましたので、年の割に老けて見えましたよ」と八十歳になったウメさんは話す。耳が悪かったため、兵役を免れ、柳田国男にどなられても笑っていたという。
1998年10月『柳田國男全集 第6巻 月報13』山下欣一「『海南小記』ー奄美の旅前後」□(略)最初の伊波普猷の奄美来訪は1918年(大正7)1月であった。これは私立大島郡教育会・二部研究会(瀬戸内・宇検)による招聘である。この時の中心になったのは二部研究会長で古仁屋小学校長永井龍一と当時篠川農学校教諭竹島純(沖縄師範卒)であった。この2名は伊波普猷・比嘉春潮を出迎えのために名瀬へ出張するが、船待ちのため十数日滞在を余儀なくされ、その間、奄美の文献資料を調査したりしている。この時『奄美大島史』の著者である坂口徳太郎も鹿児島県立大島中学校に勤務していたので、その指導も受けたと考えられる。
伊波普猷は、この第1回の旅で『南島雑話』、『奄美史談』などを沖縄へ借用し、筆写させ、沖縄県立図書館へ収蔵し閲覧に供したのである。(略)伊波普猷の奄美招聘の中心にいた竹島純は伊波普猷の講演記録を伊波の「序に代へて」を付して1931年(昭和6)に大島郡教育会から『南島史考』としてまとめている。また後で永井龍一は鹿児島に居を移し、『南島雑話』、『補遺篇』、『奄美史談』などの文献資料の自費刊行を試みている。この『南島雑話』刊行に刺激された永井龍一の兄亀彦(博物学者)は『南島雑話』の編著者を薩摩藩上士名越左源太時敏と確認し、また名越家で『遠島日記』をも発見し、これらを自費刊行している。これらは、昭和初年から、終戦直後に及んだ作業であった。永井兄亀・龍一兄弟は名瀬の与人役政家の一族である。父永井長昌喜は漢学者で教育者であった。
亀彦・龍一の姉よしは萩原家に嫁し、その子息が正徳・利用・厚生の兄弟である。叔父に『奄美史談』の著者都成植義(南峰)がいる。亀彦・龍一の甥に当る萩原正徳は上京し、東京高等工業学校で学び、海軍省水路部をへて写真製版業を営み、三元社を興した。柳田国男の指導を受けて『旅と伝説』を刊行した。これには昇曙夢・岩倉市郎・金久正などの奄美の研究者が登場しているのは故なしとしないのである。
次に『旅と伝説』を奄美・沖縄関係を主にアトランダムに目次を並べてみる。
1928年1月『旅と伝説』創刊号□奄美大島に伝はる「あもれをなぐ」の伝説・・・昇曙夢
1928年4月『旅と伝説』第4号□奄美大島の民謡・・・昇曙夢
1928年5月『旅と伝説』第5号□三鳥問答・・・伊波普猷
1928年6月『旅と伝説』第6号□性的玩具が持つ伝説三篇・・・北野博美
1928年7月『旅と伝説』第7号□南西諸島の伝説(上)・・・茂野幽考
1928年9月『旅と伝説』第9号□水鏡天神・・・中山太郎/唐人物語・・・昇曙夢/石仏を繞って・・・早川孝太郎
1928年11月『旅と伝説』第11号□南島語源雑考・・・岩倉市郎
1929年1月『旅と伝説』第2巻第1号□黄金の挽臼・・・佐々木喜善
1929年2月『旅と伝説』第2巻第2号□南島の独木舟研究・・・茂野幽考/うそ替神事考・・・本山桂川/新撰八重山月令・・・岩崎卓爾
1929年3月『旅と伝説』第2巻第3号□平家の南走とエラブウナギに関する伝説・・・永井亀彦
1929年5月『旅と伝説』第2巻第5号□鶯替神事に就て・・・南方熊楠/琉球の伝説・・・金城朝永/琉球八重山に於ける人魚の話・・・喜舎場川石
1929年9月『旅と伝説』第2巻第9号□島原のおどり場・・・三田村鳶魚
1929年11月『旅と伝説』第2巻第11号□餅搗かぬ家・・・折口信夫
1929年12月『旅と伝説』第2巻第12号□琉球方言の比喩法・・・金城朝永
1930年1月『旅と伝説』第3巻第1号□水の木火の木・・・折口信夫/日高国義経神社の由来・・・金田一京助/周防大島(1)・・・宮本常一/糸満の町へ・・・本山桂川
1930年2月『旅と伝説』第3巻第2号□那覇の読み方・・・伊波普猷/平家の落人の村々・・・中山太郎
1930年3月『旅と伝説』第3巻第3号□日本に於ける郷土玩具の分類・・・フデレリック・スタール/琉球の玩具・・・金城朝永/琉球の戯曲に現れた玩具・・・伊波普猷
1930年4月『旅と伝説』第3巻第4号□八重山のマクタ遊び・・・伊波普猷/既刊郡誌書目解題(1)大藤時彦
1930年5月『旅と伝説』第3巻第5号□刺なきイバラ・・・南方熊楠/密告伝説・・・中山太郎/
1930年11月『旅と伝説』第3巻第11号□スバル星の記・・・新村出/イチハツを屋根に栽る事・・・南方熊楠/徳阿弥親氏の板碑・・・三田村鳶魚
1931年1月『旅と伝説』第4巻第1号□春来る鬼・・・折口信夫/春の七草・・・牧野富太郎/歌名所のうそ・・・喜田貞吉/硫黄ケ島・・・永井亀彦/琉球語と壱岐方言との比較対照・・・伊波普猷/出雲方言の謎・・・東条操/鼠の花籠(1)・・・岩崎蝶仙/城の怪異・・・小寺融吉/羊の玩具・・・川崎巨泉/ふところ旅・・・長谷川伸
1931年2月『旅と伝説』第4巻第2号□ナナカマドの木が雷を避るといふ事・・・南方熊楠/思出の旅日記・・・宮武外骨
1931年9月□南方熊楠より岩田準一へーむかし薩摩に伝えし『弘法大師一巻之書』という写本と、故末吉安恭氏よりもらいし琉球の浄愛の歌の序文を、前年写して三田村鳶魚氏におくれり。只今置き処分分からず。そのうち見出でたら写し差し上ぐべく候。
1931年10月『旅と伝説』第4巻第10号□南島談話(第一号)ー「あさみち」といふ古語に就いて・・・伊波普猷/九州以南に於けるガ行鼻音の調査・・・宮良当壮/風に関する喜界島の方言・・・岩倉市郎/島と云ふ言葉について・・・島袋盛敏/犯人検挙と鬼定めの法(上)・・・島袋源七/琉球語と日本各地方言との類似語・・・金城朝永
1931年11月『旅と伝説』第4巻第11号□孤島苦を意味する古琉球語・・・伊波普猷/陸前鹿妻と清水目の鹿踊・・・本田安次
1931年12月『旅と伝説』第4巻第12号□馬角さん・・・南方熊楠/□南島談話(第二号)ー南島入墨を歌った歌謡に就て・・・小原一夫/船に関する土俗・・・島袋源一郎/ゾレの話・・・岩切登/犯人検挙と鬼定めの法(下)・・・島袋源七/南島方言に於ける敬語法(第二回例会記録)
1932年1月『旅と伝説』第5巻第1号□えのこ草の歌・・・南方熊楠
1932年2月『旅と伝説』第5巻第2号□南島談話(第三号)ー中頭郡西原村に於ける日常の挨拶・・・比嘉春潮/喜界島に於ける敬語法・・・岩倉市郎/首里のまじなひ・・・島袋盛敏/沖縄俚諺集釈(1)・・・金城朝永/南島関係記事目録(昭和6年度)・・・大藤時彦
1932年4月『旅と伝説』第5巻第4号□南島談話(第四号)ー媾曳を歌ったオモロ・・・伊波普猷/頭髪・・・島袋源七/沖縄俚諺集釈(2)・・・金城朝永/喜界古謡「闘牛歌」・・・岩倉市郎/火焼厝・・7連温卿
1932年7月『旅と伝説』第5巻第4号□釣り狐の狂言・・・南方熊楠/島日記・・・本山」桂川
1932年8月『旅と伝説』第5巻第8号□人に化て人と交った柳の精・・・南方熊楠/□南島談話(第五号)ー琉球語大辞典編纂経過概要・・・伊波普猷/差し石・・・比嘉春潮/今帰仁方言に於ける語頭母音の無声化・・・仲宗根政善/牡牛考・・・島袋源七/嬰児に対する最初の発音訓練・・・岩倉市郎/沖縄俚諺集釈(3)・・・金城朝永
1932年10月『旅と伝説』第5巻第10号□南島談話(第六号)ー石が命みおやせ(おもろ)・・・伊波普猷/琉球関係記事目録(明治年間)・・・金城朝永/沖縄俚諺集釈(4)・・・金城朝永
1932年12月□南方熊楠より岩田準一へーさて只今好んで、やれ雅言の俗言の方言の郷語のと鹿爪らしく論ずる輩には、関東者あり、奥羽人あり、薩摩人あり、近時は琉球人まで、いかにも日本の正しき語は沖縄から産まれたような狂語を大道狭しといいわめく。また大隅とか日向とか種が島とか屋久島とか、われら少きときは鬼のすむ片土のごとく思うた所の者どもが、そんなことをいいののしる。これでは方言が何やら、どこの語が正しいのやら、何もかもさっぱり無茶苦茶に御座候。
1933年12月□岩田準一より南方熊楠へー私はかつてただ一つの歌謡をきかんがために、藤沢衛彦にたずねてスッポコを食わされ、また中山先生御紹介ゆえ金城朝永に琉球男色をたずねて、何の回答もなかりしゆえ、以来、この種の人物とは一切交際もなく・・・
1963年9月『定本 柳田國男集 月報21』比嘉春潮□柳田先生と沖縄 その後柳田先生のおすすめで南島談話会が出来た。これは以前にも柳田先生を中心に同名の会があったが、こんどはその復活だという話であった。柳田、伊波両先生と岡村千秋さんなどを中心に南島の研究をする会で、私と金城朝永君が幹事役をつとめて毎月一回会合し研究題目は大てい柳田先生の方で決めて戴いた。この会は難等に関心を持つ学界各方面の研究家の相当数の参加を得て数年間もつづき、一時は『旅と伝説』誌の附録として『南島談話』という小機関誌を出すほどであった。昭和七八年の頃、私が一時退社したことがあって、この機会に柳田先生の御指導の下に『島』という特殊の雑誌を出したことがある。先生が編集者として著名され大いに力を入れて下さったが、経営の面がうまく行かず又私が再び改造社に勤めるようになったので、残念ながら二年足らずで廃刊のやむなきに至った。
『南島談話』は1932年10月の第六号をもって終刊、翌年5月に創刊された『嶋』に引き継がれた。
1933年5月『嶋』第一巻第一号(表紙絵ー山口蓬春)□甑島記事・・・宮良当壮/島関係記事目録(1)・・・金城朝永/南島談話会記
1933年5月『嶋』第一巻第一号(表紙絵ー山口蓬春)□甑島記事・・・宮良当壮/島関係記事目録(1)・・・金城朝永/南島談話会記1933年6月『嶋』第一巻第二号(表紙絵ー山口蓬春)□喜界島昔話・・・岩倉市郎/東風と死人の頭痛・・・伊波普猷/翁長旧事談・・・比嘉春潮/針突図誌・・・小原一夫/島関係記事目録(2)・・・金城朝永
1933年7月『嶋』第一巻第三号(表紙絵ー山口蓬春)□口絵・沖縄婦人の針突施術」・・・小原一夫/南洋群島旅行案内・・・吉本泰/喜界島昔話・・・岩倉市郎/針突図誌・・・小原一夫/翁長旧事談(六月綱引のこと)・・・比嘉春潮/島関係記事目録(3)・・・大藤時彦
1933年7月 喜納緑村『琉球昔噺集』(序文・伊波普猷、巌谷小波)三元社
1933年6月『嶋』第一巻第二号(表紙絵ー山口蓬春)□喜界島昔話・・・岩倉市郎/東風と死人の頭痛・・・伊波普猷/翁長旧事談・・・比嘉春潮/針突図誌・・・小原一夫/島関係記事目録(2)・・・金城朝永
1933年7月『嶋』第一巻第三号(表紙絵ー山口蓬春)□口絵・沖縄婦人の針突施術」・・・小原一夫/南洋群島旅行案内・・・吉本泰/喜界島昔話・・・岩倉市郎/針突図誌・・・小原一夫/翁長旧事談(六月綱引のこと)・・・比嘉春潮/島関係記事目録(3)・・・大藤時彦
1933年7月 喜納緑村『琉球昔噺集』三元社
1934年4月『嶋』<昭和9年前期>口絵1、宗像沖の島 2、松島 3、舳倉の海女/ 舳倉の海女(瀬川清子)/志摩の蜑女作業の今昔(岩田準一)/安房白濱遊記(大間知篤三)/越後粟島物語(藤井尚治)/篠島史話(酒井豊治)/狢の島(渋谷徹)/伊豆大島の祭り唄(小寺融吉)/八重山に於ける旧来の漁業(喜舎場永珣)/瀬戸内海巡航情緒(藤原与一)/島の三大旅行家(柳田國男)/「奄美大島の民謡大観」(島袋盛敏)/女の家・米の飯と甘藷(末吉安恭・遺稿)