1894年2月、那覇の南陽館で第8回九州沖縄八県連合共進会が開催された。5月、沖縄尋常中学校生徒(伊波普猷、真境名安興、渡久地政瑚ら)が下国良之助教頭の引率で関西に修学旅行。下国は20歳のとき滋賀の学校に勤めていて中井弘①の薫陶も受けているので関西には知人が多く、どこでも歓迎された。京都滞在中に学生数人は六孫王神社②を訪ねて、天保三年の江戸上りの時に正使が奉納した額を書き写している。

1894年5月20日『日出新聞』
〇1832年(天保3)6月8日、那覇港を立ち江戸に赴く。7月21日、琉球国尚育王即位の謝恩のための使節(正使尚氏豊見城王子朝春副使毛氏澤岻親方安度)らの一行、鹿児島着。8月27日、正使豊見城王子死去。讃議官の向氏普天間親雲上朝朝典を正使として9月1日鹿児島を立つ。11月16日、江戸着、江戸城に登城し朝覲の礼を行う。12月13日、江戸を立ち帰路に就く。1833年(天保4)4月8日、江戸上り使節一行那覇に帰還。
 豊見城王子(普天間親雲上朝朝典)の歌→『通航一覧続輯』
 ※わた津海の底より出て日のもとのひかりにあたる龍の宮人

□①5代京都府知事 中井弘(なかいひろし)
就任期間:明治26年(1893)11月~明治27年10月
天保9年(1838)、鹿児島生まれ。幕末と明治のはじめに二度にわたり欧州に留学、西郷隆盛に従軍したこともあった。工部大学校書記官、滋賀県知事、貴族院議員を経て京都府知事となる。滋賀県時代は時の北垣京都府知事とともに琵琶湖疎水建設にあたった。京都府知事在任中は「京都三大問題」(遷都千百年記念祭、第四回内国勧業博覧会、京都舞鶴間鉄道の建設)に力を尽くしたが、在任中脳出血で倒れ、これらの完成を見ずして亡くなった。(京都府)中井弘の胸像は円山公園内にある。

②六孫王神社
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大城弘明氏撮影

□六孫王は、清和天皇の六男を父として生まれ、経基と名づけられたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていた。十五才にて元服、源の姓を賜わり、先例に従い臣籍に加えられたとある。承平・天慶の乱に東国・西国の追討使を承り、現地に赴き凱旋の後、鎮守府将軍に任じられた。王は現在の社地に住居を構え、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言された。王の長子満仲公は遺骸を当地に埋葬され(本殿後方に石積の神廟がある)その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりである。(平安時代中期)
 境内中央の池を神龍池といい、その側に満仲誕生のおり井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと云う、誕生水弁財天社がある。(6月13日弁財天御開帳祭)
 江戸時代五代将軍綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等建物が再建された。毎年十月体育の日に例祭(再興が元禄より始まり宝永年間に完成したゆえ別名“宝永祭”とも謂われる)が行われる。
 王の後裔には源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝等、また足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・徳川等の武将が多数輩出され、それぞれ子孫繁栄されている。
 昔は、六ノ宮権現とも呼ばれ、今昔物語に「六の宮」それを基に芥川龍之介が「六の宮の姫君」にも載せている。小泉八雲著の「怪談」には、「弁天の同情」と題して不思議な夫婦の出会いの話が紹介されている。

「小泉八雲」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1909年4月『琉球新報』□師範中学旅行生の消息ー4月6日、火曜日、神戸、京都 午前9時半汽車にて神戸駅を発し12時京都に着。直ちに東本願寺に参詣致し建築の壮大な に驚き入り候。これより途中耳塚を右に見立て豊国神社に詣で旧伏見桃山殿の唐門大仏殿、国家安康の大鐘を見て博物館に入り歴史美術上の珍品に知囊を養い三十三間堂を経て桃山御殿に詣で血天井を見。妙法院西大谷を過ぎて清水寺に詣で候・・・。

1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。

1925年8月 『琉球新報』□女子師範二部旅行便り・夏の旅ー7月17日、2日目の京都見物に8時頃宿を出発して京津電車に乗って浜大津に着く。(略)高く聳える比叡山を後にして瀬多の唐橋を潜りときに名高い石山寺に詣づ。紫式部の源氏の間はかたく閉ざされて、ありし昔を物語る如く墨黒々と書かれて居るここに天然記念物に指定されたるけい灰岩あり、其処を引き返して又船に乗る。粟津の晴嵐を右手に眺め三井寺に参拝して疎水下りにつく流れ清き水に行く船の淡き灯の中より歌の聲もれて暗きトンネルの天井に反響して周囲の空気をゆるがし流れを波立たす。トンネルを出ると眩ゆい光線に小波はプラチナのように光り輝いて其の美しさはたとえ様もない夏の事とて海水浴をする人や釣をする人が多い。疎水を下り終ってインクラインを見てから知恩院に向かう。左甚五郎の荒れ傘や鶯張廊下を見る3百間もある長い廊下である。ここより清水寺に行き方広寺、三十三間堂に詣ず。恩賜の京都博物館を眺め黄昏の町を電車で宿に帰り又10時に宿を出発して岡崎公園に至り、平安神宮に詣で桓武天皇当時の昔を忍ぶ、公会堂の前を通り西本願寺に行って電車で駅に向かう。

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京都妙心寺の板絵「蘇鉄と山羊」/円山公園の蘇鉄


渡久地政夫
戦前の琉球新報社長の渡久地政瑚の経歴を伺うために沖縄観光速報社を訪ねた。以来、パレットや展覧会などでお会いすると暫し会話した。



清水寺
京都市東山区の音羽山麓に位置する寺院。1994年4月に認定された世界遺産「古都京都の文化財」の一つ。西国三十三カ所第16番札所。
歴史
奈良時代後期の778年(宝亀9年)、延鎮上人により開創され、780年(宝亀11年)に坂上田村麻呂が仏殿を建立したのが始まり。寺号は境内にある音羽の滝の清水に由来する。宗派は法相宗(奈良興福寺の末寺)だったが、1965年(昭和40年)に独立し、一寺一宗の北法相宗となった。清水の舞台清水寺最大の名所。本堂の前面に檜造りの舞台(バルコニー)が設置されており、京都市街の眺望が楽しめるが、その本来の目的は舞楽を奉納するための舞台である。現在のものは1633年(寛永10年)、徳川家光による再興。崖地に多数の支柱を建てて舞台を支える手法は懸造と呼ばれ、清水の舞台はその代表例となっている。「清水の舞台から飛び降りる」という喩えはあまりにも有名。(はてなキーワード)

おおにしりょうけい【大西良慶】 1875‐1983(明治8‐昭和58)
法話を通して,仏教を今に生かす道を,大衆に説き続けた高僧。〈清水(きよみず)さん〉は清水の観音像を指すと共に同師の愛称であった。晩年は〈良慶さん〉と呼ばれ,宗派,宗教を超えて敬われた。幼名は広治。父広海,母咲枝の次男として奈良県多武峰(とうのみね)に生まれる。父は旧姓片岡,妙楽寺智光院の住職であったが,明治の排仏により還俗し大西姓を名のる。15歳で興福寺に入り,唯識を佐伯定胤(さえきじよういん)に学び,25歳で興福寺231代別当,40歳で清水寺住職となり,91歳で北法相(きたほつそう)宗を設立する。(コトバンク)