田中健夫訳注 『海東諸国紀 朝鮮人の見た中世の日本と琉球』 岩波文庫、1991年
海東諸国紀』(かいとうしょこくき, 朝鮮語: 해동제국기)は、李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(しん しゅくしゅう、シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。 これに1501年(燕山君7年)、琉球語の対訳集である「語音翻訳」が付け加えられ現在の体裁となった。1443年(世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したもので、日本の皇室や国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している。「語音翻訳」は1500年(燕山君6年)に来訪した琉球使節から、宣慰使成希顔が聞き書きし、翌年に兵曹判書李季仝の進言で付け加えられた。→ウィキ


2014年12月9日~韓国・ソウルの国立古宮博物館で「琉球王国の至宝」展

2014年12月9日『沖縄タイムス』琉球王が着用した国宝の「玉冠(たまのおかんむり)」など、琉球国に関する資料約200点を一堂に集めた「琉球王国の至宝」展が9日、韓国・ソウルの国立古宮博物館で開幕する。来年2月8日まで、東アジアの中で独自の歴史と文化を築いた琉球国を、韓国の人々に紹介する。 展示資料は那覇市歴史博物館、県立博物館・美術館、浦添市美術館、美ら島財団(首里城公園)、東京国立博物館などが貸し出している。王族の衣装や当時の風景を描いた絵、高い技術を伝える漆器など第1級の資料が並び、琉球国の文化を伝える。

〇1992年にオープンした国立古宮博物館は、朝鮮時代の宮中で使われていた貴重な物品を文化財として保存、展示しているところです。景福宮、昌徳宮、昌慶宮、宗廟などに分散し埋もれていたこれらの文化財約20,000点あまりを所蔵しています。

1913年5月 『沖縄毎日新聞』襄哉(末吉安恭)譯「朝鮮小説 龍宮の宴」


松都に天磨山と云ふ山がある。高く天に沖りてグッと聳へ立った山の姿が厳かなので天磨山の稱も成程と思はせる。この山の中に一つの池がある。周囲は窄いけれど深さが底の知れぬ池で、恰度瓢箪ののやうな形をしてるので瓢淵と云ふ名が利た。

■「金鰲新話」 朝鮮時代初期に政治家であり文学者であった金時習によって書かれた漢文文語体の朝鮮最初の小説です。《萬福寺樗蒲記》《李生窺牆傳》《醉遊浮碧亭記》《龍宮赴宴録》《南炎浮洲志》の5編で構成されています。後世の研究者に依れば元々はそれ以上に書かれていたと推測されていますが、残された資料が少なく定かではありません。また、この作品がその後に書かれた小説に大きな影響を与えたと言われています。ぜひ皆さんもイージー文庫の連載『金鰲新話(クモシナ)』をお楽しみください
王からの招待
松都(高麗時代の都=開城)には天磨山と呼ばれる山がある。その山の高さが天に届く程で、その険しく秀麗である事からその様な名前が付いた。山の中に大きな滝があったが、滝の名を*朴淵(パギョン)と言った。滝つぼの広さはそれ程広くは無かったが、深さは如何程か分からないほどであり、水が落ちてくる滝の高さはとても高かった。この朴淵瀑布(パギョンポクポ)の景色が非常に美しく、地方から松都に来た人々は必ずこの地を訪れて見物して行くの常だった。また、昔からこの滝つぼには神聖な存在が居るとの言い伝えがあり、朝廷では毎年の名節の折に牛を供えて祭祀を執り行っていた。  *朴淵瀑布:高さ37m、幅1.5mの開城にある滝で、金剛山の九龍瀑布、雪岳山の大勝瀑布 と併せて朝鮮三大名瀑に数えられる。

高麗の時代の話である。韓氏の姓を持つ書生が居たが、若い時から書に優れていることで朝廷にも知られ称賛を受けていた。ある日、韓生(ハンセング)は自分の部屋で一日過ごしていると、官吏の正装をした二人の男が天から降りてきて庭にひざまずいた。「朴淵の神龍さまがお呼びで御座います。」韓生は驚きの余り顔色が変わった。「神と人の間は遮られているのに、如何して行き交う事ができるのですか?まして神龍様の居られる水府は水の奥深くにあり、滝の水が激しく落ちるのに如何して行く事ができましょうか?」二人が言った。「門の外に駿馬を準備致しました。どうか遠慮なさらずにお使い下さい。」二人は身体を曲げつつ韓生の袖を引いて門の外に連れ出した。すると外には馬が一頭用意されていたが、金で出来た鞍と玉と絹で作られた手綱で仕立てられており馬には翼が付いてた。その傍には赤い頭巾で額を隠した絹の服を着た10余名の侍従が立っていた。侍従は韓生が馬にまたがるのを助けると、一隊の前に立って先導し、女官と楽隊が後に続いた。また、先の二人も互いに手を取り合って続いた。馬が空中に舞い上がると、その下に見えるのは立ち込めた煙と雲だけであり、他には何も見る事が出来なかった。やがて韓生は龍宮門に到着した。馬から下りると門番たちが蟹、海老、亀の鎧を着て杖を持って立っていたが、その目がとても大きかった。彼らは韓生を見ると皆こぞって頭を下げてお辞儀し用意された席まで案内して休息を勧めた。予め到着を待っていた様であった。彼を案内して来た二人がいち早く中に入って到着を伝えると、すぐに青い服を着た二人の童子が恭しく出迎えて挨拶すると先導を代わった。韓生は先導に従いゆっくりと歩いて宮殿に向った。韓生が門の中に入ると龍王が*切雲冠をかぶり剣を差したまま、手に竹簡を持って階(きざはし)まで降りて迎えた。龍王は韓生を誘い殿閣に上がると座る様に勧めたが、それは水晶宮の中にある白玉の椅子であった。  *切雲冠:雲を衝くほどに高くそびえ立った冠

末吉麥門冬が最初に朝鮮史にふれたのは1915年6月22日『琉球新報』末吉麦門冬「朝鮮史に見えたる古琉球」(1)からである。
1915年6月22日『琉球新報』末吉麦門冬「朝鮮史に見えたる古琉球」(1)
□松下見林の『異称日本伝』の例に倣った訳でもないが、記者は年来琉球史の記実が詳細を欠き、漠として雲を掴むような観あるを、常に憾みとしていた。其の原因は吾々の祖先が文字に暗い上に、筆不精と来てるので、有る事実も材料も使い得ず、官命を帯びて不性無性、筆を執って偶々物したのが、僅かに球陽、中山世譜位のもので其れも憖じいに廻らぬ筆の陳文漢文だから要を得ぬ所が多いのである。其れは先ず正史の方だが沖縄には元来野乗随筆と云った物が無い。正史の缼を補うような材料が得られない。歴史家困らせである。

目下県の事業として真境名笑古氏が満幅の精神を傾けて、材料蒐集に従事して居らるるが、氏も常に語って委しからず、録して汎ねからぬ史籍に憾みを抱き是ではならぬと本邦の史籍は無論支那朝鮮の史料まで眼を通さねばならぬと云って望洋の歎を発している。幸いに氏が不撓の努力と燃犀の史眼は、沙礫の中から珠玉を拾うような苦心で新材料が一つ一つ机の上に転がって来る。其の愉快は又学者ならでは味わえぬことだろう。此の新材料提供の泉の一つが朝鮮の古書である。流石は朝鮮で支那に次ぐ文字の國ではある。蔚然たる古記録には東洋各國の史料が束になって這いっている。一たび其の堆土の中に熊手を入るれば、敕々雑々として葉山の秋の落葉を掻くが如きものがある。記者も眠気醒ましに熊手代わりの雑筆を揮いて高麗山の落葉を掻いて荒れたる史田の肥料にでもと思い立ちぬ。

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麦門冬が引用した文献資料
○りゅうひぎょてんか【竜飛御天歌】 朝鮮の李朝建国叙事詩。鄭麟趾らの撰。1447年刊,木版本。10巻,125章から成る。初章1聯,終章3聯以外は2聯で,対になったハングル歌,そして漢詩訳が続く。前聯は中国の故事,後聯は朝鮮の事跡で建国の正当性を主張する。世宗(せいそう)前6代祖の事跡を述べるが,太祖(李成桂)に最も詳しい。110章以降は後代の王への訓誡。ハングル(1446年訓民正音として制定)による最初の資料で,注は漢文で書かれて長く,高麗末から李朝初期の中国東北部や日本に関する記事もあり,文学・語学・歴史的にも重要である。
(コトバンク)
○櫟翁稗説・筆苑雑記 李斉賢/徐居正著
高麗・朝鮮王朝の古典の翻訳
韓半島に栄えた高麗・李氏朝鮮の両王朝の2人の高官が書き残したさまざまな人物評や風聞、笑い話、風俗、官僚の姿、制度などの記述に豊富な注と解説を加えた歴史的古典の翻訳。 韓流ブームの中にあって、解説書や入門書の紹介は数多いが、本格的な当時の古文書を翻訳したものは少ないので貴重な書籍である。 とはいえ、全体が短い文でつづられているので、出てくる人物のことやその他の情報を知るにはいささか厳しい。それこそ多数の人物が登場するが、注を読んでもさっぱり分からないことが多い。 しかし、当時の人物が直接書いた感想や評伝なので、歴史的な事実の裏側を知るには貴重な文献とは言えるだろう。 高麗王朝の高官だった李斉賢の「櫟翁稗説」の解説には、当時の高麗王が元の侵略によって、その後の王の名前に「忠」が付いたものが多いことが指摘されている(「忠烈王」「忠宣王」「忠粛王」「忠恵王」など)。
これは解説によれば、「元の圧力によって高麗王は『宗』や『祖』を名乗れなくなったのである」とある。要するに、「『忠』などというのは臣下の徳目であって、王の徳目としてはありえない。最高主権者は『忠』であるべき対象をもたないはずだが、高麗王は元の皇帝に『忠』であることを強制されたのである」。 そのことは世継ぎを「太子」と呼ぶのではなく、「世子」と呼ぶようになったのも元の干渉からきていると訳者は指摘している。 また、李氏朝鮮王朝の高官だった徐居正の「筆苑雑記」では科挙の試験に昔は酒食がふるまわれたことや日本の戦国大名の大内氏の祖先が新羅から来ているのではないかと考察したものや7代王の世祖の時代に「女と見まがう容貌」の男がいて、罪人として法によって処刑することを司法関係の役所では願ったが、王が大目に見て却下したことなど興味深いエピソードが記されている。 (梅山秀幸訳) 中山雅樹





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1919年10月21日 『沖縄時事新報』末吉安恭「琉球と朝鮮との交通(地歴談話会講演)」
○私は琉球と朝鮮との交通と題して御話したい。或は題と内容がそふはぬかも知れないが、暫くさうして置く。琉球が何時頃朝鮮と交通を始め又何時頃までそれは継続したか、又何の必要目的によりて交通をなし、又どういふ事情でそれが断絶したかと云ふこと並びにその交通時代に起こった種々の事件をお話して見たい。琉球が初めて朝鮮と交通したのは明の洪武二十二年已己(西暦1389)8月琉球王察度が其の使臣玉之を、高麗に送り交際を求めた時からである。即ち今をさること五百三十一の昔で、我本土では南北朝の末期で南朝は後亀山天皇の元中六年、北朝は後小松天皇の康応元年に当る。この事は琉球の史籍には全く伝はらない。唯朝鮮の記録が伝ふるのみである、(東史綱目、枘斉集参照)琉球の史籍では唯何時からと云ふことでなしに、朝鮮とは上古から交通していたと云ふことを書いてあるのみである。併しそれに依ると琉球が何の必要と目的によりて交通を求めたかと云ふこと丈は明らかになる。
  我國國土瘠せ國用足らず故に朝鮮安南暹羅瓜哇等の國と通交之禮を行ひ互に相往来して以て國用に備ふ
と中山世譜球陽等にある通り全く経済上の必要と目的に出づるのである。我本土との交通も又支那にサ冊封を受け進貢をなしたのも、皆同じ目的同じ必要から出たのである。察度が初めて支那に通したのは、明の太祖朱元障が行人楊載を派して琉球を招撫した時、察度が王弟泰期を派して、臣と称し答礼したのにはじまる。この時流求を改めて琉球としたと云ふことも明史に出ている。それは察度即位の年で、我南朝後村上天皇の正平5年北朝光明天皇の観応元年に当るから、今を距る五百七十年前で朝鮮通交に先立ったこと四十年前である。朝鮮との交通はさすれば察度の晩年であったことが知られる而して朝鮮の方では琉球の通交をどう見たかと云ふに、これは又誇大妄想的で頗る面白い、其の史に曰く
  琉球國は我國の東南海中にあり東は日本に近く、古より未だ曾て使を通せす今度が始めなり其國の中山王察度、我國の対馬を討つことを聞き臣玉之を遣   つて表を奉して臣と称し倭に虜掠された我國○○○方物として硫黄、蘇木、胡椒及び甲を献して使、順天府に至る。我國にては前代に来ない國なれば接待の  仕様もなしとて困る、國主辛昌曰く、遠人来貢す、入京せしめて慰めてやれと遂に判事陳義貴を迎接使にして歓待せしむる云々
とありて、朝鮮王も明帝と同じく琉球が全く朝鮮の権威を恐れて来たものとして納りかへっていた。琉球としては無論文化が朝鮮に若かないから、先進國として尊敬を払ったのではあらうが、臣と称するなどはどうであったらう。更にこの時朝鮮王辛昌は琉球の献する所の蘇木、胡椒を宮中の用品にせんとした。すると判事柳伯儒諌めて曰く「昔中肅王醢の壷を宮中に置く、史書伝へて物笑ひにしたお罷しなされ」と、けれども王は遂に随はなかったと。この蘇木、胡椒はもと琉球の國産ではなく、南蛮辺のものであるから、これより先琉球人は既に南蛮貿易をしていたことが知れる。


1919年12月8日 『沖縄時事新報』末吉安恭「朝鮮人の観たる琉球」


左から東風平汀鳥、麦門冬、國吉朝秀、末吉安慶、名護朝扶、不詳