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2023年3月 伊波月城研究会『伊波月城集』沖縄タイムス社◇「民衆教化の機関として市立劇場を建設せよ(4)」で皇道大本の出口王仁三郎にふれている。


1975年1月『青い海』40号 上田正昭「先島の神々」
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上田正昭さんが沖縄に来られたとき写真に収まってもらった。ご本人の著書は1971年末からの付き合いである。

 京都丸太町の古書店で『立替え立直し』(1971年5月)を買う、梅棹忠夫・上田正昭の対談「出口王仁三郎における変革の思想」が載っていた。上田正昭は何かと大本には縁がある。当時、京都で発行されていた『日本のなかの朝鮮文化』の執筆常連でもあった。沖縄との関わりも深い。私も朝鮮文化社にはよく遊びに行き、編集室奥の部屋で鄭詔文さんのコレクション、李朝の白磁などの陶器を見せてもらったりした。このコレクションが後の高麗美術館とつながる。
 前出の『立替え立直し』の発行は亀岡の大本本部天恩郷で、ちょうどそこには沖縄から金城ひろこさんが奉仕活動に来ていることを京大付属病院保健課の大城敬人さん(現・名護市会議員)の話で知り訪ねた。都沖青の一環で亀岡の渡文や大本亀岡本部はよく訪ねた。本部から離れたところに王仁三郎の生地瑞泉郷がある。大本本部の大本資料室で王仁三郎の沖縄訪問時の資料、王仁三郎扮する七福神や神々の写真パネルを見た。王仁三郎手製の楽焼の茶碗も見た。本部では茶道、八雲琴の演奏なども聴いた。
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『日本のなかの朝鮮文化』朝鮮文化社(鄭 詔文)

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1973年3月ー『琉球の文化』第3号□広告に朝鮮文化社がある。


1974年1月『東アジアの古代文化』創刊号 大和書房 江上波夫+鈴木武樹「辰王朝に倭国王の出自を探る」/国分直一「南島古代文化の系譜」/佐々木高明「南島根栽農耕文化の流れ」〇歴史雑誌。鈴木武樹が創刊を提案し初代編集長をつとめたが、多忙のため4号で降板した。鈴木武樹は1934-1978 昭和時代後期のドイツ文学者,社会運動家。昭和9年8月11日生まれ。38年明大講師,50年教授。小田実(まこと)らと交遊。ベ平連などの平和運動,プロ野球選手のための生活相談所開設,東アジアの古代文化を考える会などの市民運動にかかわる。昭和53年3月27日死去。43歳。静岡県出身。東大卒。訳書に「ジャン=パウル文学全集」(1,2,6巻)など。→コトバンク /1974年、近鉄沿線の駅で鈴木武樹さん、鄭貴文さんと会う。

 備仲臣道 2023年9月18日 (前略)北原白秋の「五十音」という童謡のような詩があって、こんなものなら俺にも書けると思い、ベッドの上で4Bの鉛筆を使って3日かかって書いたのが以下のもの。私のほうが白秋のものよりも確かな韻を踏んでいると思う。
    五十音 
 秋空青いぞ アイウエオ
   明るい藍色 秋の朝
 柿の実固いね カキクケコ
   堅く肩組む核家族
 幸い求めて サシスセソ
   幸(さち)住む里のさわやかさ
 宝くじ買い タチツテト
   狸はたちまち立ち去った
 なぜに嘆くか ナニヌネノ
   流れる涙がなんになる
 鳩ははばたく ハヒフヘホ
   早く はるばる 運ぶ鳥
 窓はまん丸 マミムメモ
   まり投げ まり蹴り 孫娘
 山に住むのは ヤイユエヨ
   やさしく 役立つ 山の神
 羅列 呂律は ラリルレロ
   ラララランドのラブソング
 私はワイルド ワイウエオ
   わけも判らず ワル気取る


備仲臣道『蘇る朝鮮文化ー高麗美術館と鄭詔文の人生』明石書店〇著者はあとがきの末尾に「1941年、日本の植民地朝鮮の大田に侵略者・日本人の息子として生まれてしまった私の、本来なさねばならぬ仕事のほんの一部がいま出来たという思いのほかになにもない。」と記している。/1966年3月 鄭貴文『民族の歌』東方社/1987年3月 『日本の中の朝鮮民芸美』朝鮮文化社〇1963年3月、東京で鄭貴文主宰で『朝陽』が創刊された。その第二号には霜多正次が「学生時代の金史良」を執筆。この雑誌は総連の圧力で廃刊となった。


2006年2月 備仲臣道『美は乱調にあり、生は無頼にあり 幻の画家・竹中英太郎の生涯』批評社
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 備仲 臣道 2020-8-19 次女の所の孫が、大学の課題でライフヒストリーとやらを書くということで、私が俎板に乗せられ、インタビューを受けています。まだ一年生で文化史学科の由ですが、専門課程に進んだら文化人類学をやりたいと言っています。



1975年2月『話の特集』上原直彦「あなた大和人」/竹中労「続・メモオキナワ④」


1972年7月ー竹中労(装幀・挿絵 竹中英太郎)『琉球共和国ー汝、花を武器とせよ!』三一書房
1975年8月ー竹中労(装幀・挿絵 竹中英太郎)『琉歌幻視行ー島うたの世界』田畑書店

1986年5月 『別冊太陽』「探偵・怪奇のモダニズム/竹中英太郎・松野一夫」平凡社


 私は1992年12月 『新沖縄文学』94号 「来訪者略年表 1969年10月 竹中労(ルポライター)来沖」と書いているから沖縄では何かと話題の人物である。
〇2012年3月 『沖縄芸術の科学』高橋美樹「琉球放送・上原直彦インタビューにみる沖縄音楽界への影響」


1995年9月 上原直彦『島うたの小ぶしの中で』編集人・和宇慶文夫、備瀬善勝/表紙絵・與那覇朝大 装幀・和宇慶文夫/発行・丹躑躅山房
〇「追悼 島うたを理解した人ー(略)『多くのヤマトゥンチュが、沖縄を通っていったが、竹中労は、死に際まで沖縄にかかわったことだけは、直サン忘れないでくれ』」と上原氏は遺言として書き留めている。写真説明に1969年10月 第一回沖縄渡航、上原直彦、備瀬善勝、普久原恒勇、與那覇朝大を知る。


2006年2月 知名定男『うたまーい 昭和沖縄歌謡を語る』岩波書店




1992年12月 『新沖縄文学』94号 新城栄徳「来訪者略年表 1953-12-17 田辺泰・今和次郎来沖」

田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982年4月1日)は、日本の建築史・美術史学者。早稲田大学の建築史担当教授を伊東忠太、佐藤功ーより引き継ぐ。 昭和初期に関東地域の社寺建築の調査を行ない、関東系の建築史を大成する。 後年は古建築の復元・創作、文化財保護に活躍した。 岡山県倉敷市生まれ。広島県出身。 1924年早稲田大学理工学部建築学科卒、同助手、1925年助教授、1939年「関東地方に於ける古建築の研究」で工学博士。1941年教授。1969年定年、名誉教授[2]。 1930 (昭和5) 年、中国および沖縄の建築調査(1931まで、1934-35)。 1964(昭和39)年、日本建築大工技能士会会長。 1965(昭和40)年、文化庁文化財保護審議会専門委員。→ウィキ

1934年8月 田邉泰、 巌谷不二雄の助力を得て一カ月沖縄に滞在し琉球建築研究に従事。→翌年にも来沖
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『琉球建築』巌谷不二雄共著 座右宝刊行会 1937/琉球建築(1972年改訂版)


田邉泰の本


今 和次郎(こん わじろう、1888年(明治21年)7月10日 - 1973年(昭和48年)10月27日)は、民俗学研究者。 民家、服装研究などで業績があり、「考現学」を提唱し、建築学、住居生活や意匠研究などでも活躍した。 東京美術学校出身の画家でもあった。弟の今純三は銅版画家。早稲田大学理工学部建築学科で長く教壇に立ち、日本建築士会会長他、団体の要職も多く務める。 文化女子大学短期大学部・現文化学園大学短期大学部との関わりもあり家政学を教えていたこともあるが、旧来の家政学や社会政策学への批判認識から生活学を提唱した。後に日本生活学会を発足させ会長に就任。 晩年はどこへ行くにも背広でなくジャンパーを着ていた。→ウィキ



『モデルノロヂオ 考現学』 今和次郎/吉田謙吉 編著 春陽堂 1930年


1935年11月『沖縄教育』231号 山里和弘「市内盛り場 考現学的瞥見」 

1938年『琉球新報』「令女考現学」

左上に『壽々』3 山内神斧著  1926年11月 〇琉球の玩具/古賀人形の話/淡島寒月翁
山内神斧しんぶ(金三郎1886~1966)は、明治19年大阪に生まれ、18歳で梶田半古に入門、前田青邨と二人で半古の画塾に寄宿し、先輩小林古径、後輩奥村土牛らとともに日本画を学ぶ画家であった。東京美術学校日本画科を卒業後、明治44年大阪に戻り、小美術店「吾八」を開き大津絵、泥絵、絵馬、ガラス絵、郷土玩具などを扱う。大正5年文展初入選。7年芸艸堂より「寿々I・II」発刊。扉絵に里見とん、小林古径なども協力、神斧の交遊の広さを物語る。その後12年頃まで「寿々」の名のもとに様々なスタイルで世界各国の人形や玩具の絵を描く。1937年、小林一三と出会い、大阪・阪急美術部の嘱託となる。1940年、阪急店内に「吾八」の再現を企画し、梅田書房を設立。1966年(昭和41年)12月に永眠。 


『おもちや十二月』 川崎巨泉画 だるまや書店 昭和元(1926)
大阪府立中之島図書館所蔵「人魚洞文庫」は、大正から昭和にかけて全国各地の郷土玩具を描いたおもちゃ絵画家・川崎巨泉(1877-1942)が遺した自筆写生画帳です。取り上げられた玩具は5000種以上にのぼり、作品の美しさとともに今ではなかなか見ることが少なくなった郷土玩具の一大データベースとしても貴重な資料となっています。この「人魚洞文庫データベース」は、人魚洞文庫の全作品の画像を収録したものです。