屋良とものぶ2020-2-3「雲のいろいろ。節分会に招福の雲のあり。」

 屋良とものぶ 「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」2020-1-17 シネマハウス大塚(山手線大塚駅から7分 折戸通り沿いの小さな小屋。さまざまな表現と出会う広場)戦後、占領下の沖縄で米軍の圧政と戦った政治家・瀬長亀次郎の生き様を描いたドキュメンタリーの第2弾。
 
第二次大戦後、米軍統治下の沖縄で唯一人"弾圧"を恐れず米軍にNOと叫んだ日本人がいた。沖縄のヒーロー、瀬長亀次郎(以下、瀬長)。語られる功績については前作及び今作品の中で詳しいのでここでは控える。瀬長が演説会を開けば常に万余の人々が集い、群衆を熱狂させたという。その魅力は党派、組織、宗教や思想の枠を超えて民衆を虜にしたというからよほど魅力ある人物だったことが窺える。戦後の瀬長の活躍ぶりは広く世に知られるところだが、瀬長が昭和初年に鶴見、川崎に住んでいたことは意外に知られていない。後の瀬長の反骨/不屈の魂がより強く形成されたであろうこの時期について少し触れてみたい。
 川崎沖縄県人会70周年史-序文の中で瀬長は“青年時代を精一杯生き抜いた川崎、鶴見は私にとって第二のふるさとであり、また労働運動に参加し、戦争に反対し、働く人びとの立場にたって活動する中で生涯にわたり平和運動、政治、社会運動の道を歩む決心をしたのも当時であった”と語っている。 瀬長は沖縄県立二中(現、沖縄県立那覇高等学校)、東京・順天中学(現、順天中学校・高等学校)を経て旧制第七高等学校(現、鹿児島大学)に進んだので、1920年前後、多感な青春期を内地で過ごしている。
 川崎では多摩川で砂利取り人夫をやりながら、全協日本土木建築労働組合神奈川支部にはいり、職場の朝鮮人労働者と一緒に労働争議に参加したとあるように当時、朝鮮人労働者と沖縄出身者は似たような労働環境に置かれていた。お互いに差別される側の者たちとして同朋意識があった。瀬長は1932年(昭和7年)に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑を受け、横浜刑務所に収監された。丹那トンネル完成までには20年を要し、その間67名もの死者を出した一大工事だったことから補償問題や労使間での紛争も多かったに相違ない。この神奈川時代に経験した懲役刑を初めとしてその後1954年沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑で逮捕/投獄されて以降、”不屈”の闘争家を貫いてゆく。前述の川崎沖縄県人会70周年史は1983年(昭和58年)2月の発行でこの時の県人会長(17代)は大川善清氏だが瀬長が序文を寄せていることから昭和初年〜戦後にかけて大川氏始め編集委員/近隣の沖縄出身者の方々とも交流があったことは疑いがない。我が幼年期に親の世代の会話の端々に瀬長亀次郎の名を聞いた記憶がある。

「カタブイ KATABUI 〜沖縄に生きる〜」2020-1-17 シネマハウス大塚「沖縄を想う 映画特集」
 「カタブイ」沖縄の方言-漢字にすれば"片降い”。沖縄方言では大和言葉ラ行リのrが脱落してイ音となることがある-ri⇒i 近年、本土でいうゲリラ豪雨を指す言葉しても使われるが、元々は短時間で一部の地域のみ降る通り雨のこと。自分のいる場所は陽が差して晴れているのに、道路を隔てた反対側は大雨が降っているという局地的な降り方をする気象現象だ。沖縄方言で好きな言葉はと訊かれたら私的にはカタブイと答えるが、沖縄の夏の気象を表す言葉として特徴的だからだと思う。「カタブイ」も好きだが大和言葉の片時雨(かたしぐれ)もいい響きだ。昨年、コザから那覇に戻るときに少し時間に余裕があったので散髪屋に寄った。店員さんと世間話に興じるうちに30-40分ほどで散髪が終わったが、店員さんが窓の外を見て”あい!カタブイしてるさぁ、兄さん、傘はあるの?”
 「カタブイ KATABUI 〜沖縄に生きる〜」はスペイン系スイス人の映像作家/写真家のダニエル・ロペス監督初の長編ドキュメンタリー作品だ。世界中を旅する中で訪れた沖縄に惹かれたロペス監督は、2003年に沖縄に移住した。カメラは時代のはざまで日々失われてゆく沖縄の伝統と文化を捉える。片や根強く継承される習俗-沖縄位牌継承文化(とーとーめー)や拝み(うーとーとぅ)にもカメラを向ける。嘉手苅林昌-時代の流れ “唐の世から大和の世 大和の世からアメリカ世 ひるまさ変わたるこの沖縄”ではあるが・・。“こっちは雨だけどあっちは晴れているわけさぁ・・”といったところか?旧盆や祖父の100歳の誕生日を祝う家族、空手や琉球舞踊を継承する人々、様々な人物が登場する。中でもラップをにぎやかな栄市場で歌う中年の女性グループ”おばぁラッパーズ”が何とも魅力的だ。ボーカルを務める“かめぇおばぁ”こと新城カメさん。サングラスをかけてラップを演じる、いいねぇ。存在感がハンパじゃない。歌えマチグァー!

 川崎-大島劇場 2020-1-27

 戦後の復興途上の頃、1950年(昭和25年)、川崎に大島劇場が創業した。当時、川崎近辺に18軒ほどの芝居小屋があったという。テレビもなかった時代、庶民にとっては唯一といってもいいほどの娯楽の場だった。街頭テレビが出現したのが日本テレビ放送開始後の1953年(昭和28年)だからその3年前のことだ。大島劇場は長屋住まいの我が自宅から歩いて15分ほどの距離にあり子供時代(昭和30年前後)に両親や近所の人たちに交じって何度か通った。生活に手一杯の時代だから庶民の娯楽とはいえ、そうそう毎度というわけではなかったろう。30年以上前、若き日の梅沢富美男がよく出ていた芝居小屋として知られる。渡辺美佐子は1982年に始まる一人芝居”化粧”で大衆演劇の女座長を演じるに当たり、梅沢富美男劇団で学び、大島劇場に出演する梅沢を訪ねたとある。2020年、創業70年を迎える。演芸場が淘汰されて残存者利益ということもあろうが今でも根強いファンが訪れる人気の芝居小屋だ。
 補遺;川崎駅前にはその頃、今のモアーズの辺りに寄席(川崎演芸場)があった。おぼろげな記憶だが階段で3階くらいまで上がったところに寄席があった。ここにも落語好きな父親の後について行った。昭和30年代は落語の黄金時代、演者で覚えているのは爆笑王-柳家金語楼、林家三平、名人・志ん生等々。調べてみると川崎演芸場は 1952年(昭和27年)川崎駅前の川崎第二ビル(5階建て)3階に開場した。同ビルにはダンスホールの川崎フロリダが入っていた。寄席の面積は70坪、全席畳敷き定員271名。1階のパチンコ店の店内を横切って奥のテケツ(切符売り場)で料金を支払いエレベータで3階まで上がるとある。当時、切符はテケツと呼んでいたのか? 父親の後について3階まで上がったという記憶は当たっているがエレベータに乗った記憶はない。テレビ全盛の時代と共に娯楽も増え、昭和30年代末に川崎演芸場はその幕を閉じた。2代目桂小文治が開場時のこけら落とし公演のトリ・最終公演のトリ共に務め、最後の演目は「たちきり」だったという。現在、首都圏の演芸場は、木馬館大衆劇場(浅草)、篠原演芸場(十条)、立川けやき座(立川)、三吉演芸場(横浜)そして大島劇場のわずか5軒という貴重な存在となっている。



2013年3月11日「不屈館ー瀬長亀次郎と民衆資料」
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書斎再現コーナーで、左から内村千尋さん、芝憲子さん/瀬長亀次郎の本
 瀬長亀次郎〇奇遇ー石川正通先生を偲んでー石川正通先生には、東京周辺の沖縄出身者のみなさんで組織された「瀬長亀次郎をはげます会(現・沖縄県人日本共産党後援会)」の会長をお亡くなりになるまで引き受けていただいていました。当初「はげます会」では比嘉春潮、神山政良さんらとともに代表委員をやっていただいていましたが、お二人が亡くなり、「会」も会長制に改め、正通先生には初代会長をお願いしていただいたしだいです。(略)平和と民主主義の危機が叫ばれている現在、平和と民主主義を守る活動がいまこそ大きな力を発揮すべきときであり、石川正通先生が強く願っていた「核も基地もない平和でゆたかな沖縄」をつくるため私も全力をあげる決意を正通先生に誓うものです。

2013年12月27日『沖縄タイムス』「国場さん『追放』新資料」/2014年1月7日『琉球新報』「上京は家族の意向ー故亀次郎氏側近 故国場幸太郎氏 不屈館から資料」

不屈館( 電話:098-943-8374)開館2周年特別企画「岩波書店と沖縄展」/不屈館住所: 〒900-0031 沖縄県那覇市若狭2丁目21−5

2015年2月8日/真左から真栄里泰山氏、真栄田義行氏、岡本厚氏(岩波書店社長)、高嶺朝一氏(元琉球新報社長)


故・瀬長亀次郎さんの資料などを展示する民衆資料館「不屈館」(那覇市若狭)で7日、特別企画展「岩波書店と沖縄展―瀬長亀次郎の言論活動を中心に」が始まった。瀬長さんが1959年に執筆した岩波新書「沖縄からの報告」の原稿や、雑誌「世界」のために執筆した未発表原稿、編集者からの手紙などを展示している。岩波新書は1938年の創刊以来、これまで3千冊以上が刊行されたが、一番最初に「沖縄」のタイトルを含んだ本は「沖縄からの報告」だった。同書は復帰の72年までに12万4千部が発行され、ベストセラーになった。また2013年に創業100年を迎えた岩波書店の歴史を振り返る大型パネル6枚なども掲示し、社史などが閲覧できる。→1月7日『琉球新報
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2015年1月19日『沖縄タイムス』「カメジロー抵抗のあしあと」