04/30: 世相ジャパン㉘/「わが青春ー新宿歌舞伎町」
「くろねこの短語」2019年1月3日-(前略)それはともかく、紀伊国屋書店が売文芸人の百田シェンシェイと有本香のサイン本に欣喜雀躍のツイートして呆れられている。節操のカケラもなくなっちまったんだなあ。田辺茂一が草葉の陰で泣いてるぞ!!◆あけましておめでとうございます。本日、百田尚樹先生、有本 香先生にご来店いただき、『日本国紀』および『「日本国紀」の副読本』にサインを入れていただきました。元旦からありがとうございます!サイン本お取り置きは2階売場☎︎03-3354-5702で承っております。 — 紀伊國屋書店 新宿本店 (@KinoShinjuku) 2019年1月
◆総理(新制成蹊高等学校出身)!今夜もごちそう様!2018.2.02(金)18:58~21:07-ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町内「OASIS GARDEN」にて、後藤高志西武ホールディングス社長(新制成蹊高等学校出身)様、高井昌史紀國屋書店社長(成蹊大学政治経済学部)様らと総理はご会食なされました。
2018年5月5日『沖縄の軌跡』第188号《静子さん・志多伯克進を語る》 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
志多伯克進「酒禮門」新宿・歌舞伎町
上ー志多伯克進(1908年2月~1979年3月14日)写真ウラに「1936年6月、ある同志のカメラに向いてー志賀進」と記されている。
1956年 四原則貫徹・県民代表として本土渡航の瀬長亀次郎沖縄人民党書記長を羽田空港で出迎える松本三益(瀬長の右)、志多伯克進(瀬長の左)/1967年11月 新宿・酒礼門で「瀬長亀次郎歓迎会」中央に瀬長亀次郎、その左が松本三益、右隣りに比嘉春潮
1959年10月ー東京沖縄県人会会場の廊下で、貘、伊波南哲、霜多正次、当間嗣光、平良真英、新崎盛敏(東京沖縄県人会3代会長)、金城唯温、「志多伯」「おもろ」「紅型」など泡盛屋のオヤジ、紅一点の山口一子
□1960年10月『オキナワグラフ』ー新宿の人気男「志多伯のおやじ」新宿コマ劇場の横丁にある”コマ小路”というバー街に、この春から異様な門構えのアワモリ酒亭ができてなかなか繁昌している。
屋号は「酒礼門」。勿論”守礼之門”をモジッてつけたもので、故伊江朝助男爵が名付の親だということだが、ゲン語学者の石川正通先生にいわすと、その語イはー酒の友こそ真の友 礼を守りて盃酌めば 門は大道無門にてーだそうだ。
店構えが異様なら、ここの主人もまた変わり種。志多伯克進という名前からしてコクのよい銘酒を思わせるが、無類の好々爺で、ジュクの酒徒からは”シタハクのオヤジ”と愛称されている。
目マユがこく長く、デップリ太って、みるからにアワモリ天国のエビス様とう感じ、いつあっても、赤ら顔に満面笑みをたたえてさも愉快そうに話し出す。どんな酒癖の悪いインマヤーでもすぐなついてくる。
しかし、このオヤジが庶民の街で名物オヤジとしたわれているのは、ただこの人がお人好しだということばかりではなさそうだ。この人には往年の社会運動の体験から得た”庶民哲学”とジュクのヨタ公共をまかす位の”度胸”が備わっている。愛すべき志士だ。このスジ金の入ったところがまた魅力となって学生や労働者たちに好かれるのだろう。
この人の哲学というのは、先ず人間は平等だということ、第2に貧乏人を蔑まず金持を恐れないこと、第3に真心を以って事に当たること、だそうだが、これはやはり戦前の社会運動時代に豚バコにブチ込まれたり、法廷に立たされた苦闘の中から生まれたものに違いない。非常に正義感が強い人で、終戦直後、新宿のテキヤ安田組を向こうに廻して空手で打ち負かしたという武勇伝は有名だが、いまでもヨタ公同志の決闘に”流血を避けるため”顔をかすこともあるという。
都内の泡盛屋は大小入れて40軒を数えるといわれるが、この総元締格が志多伯のオヤジさんである。泡盛屋の歴史は古く、昭和12年に若い奥さんと大塚駅前で「デーゴ」を開いたのが始り、それからまもなく本所深川の「泡泉」に移った。新宿駅西口に乗り込んだのは終戦直後。ヤミ屋の横行する焼跡で「志多伯」の赤チョウチンを下げ、カッポウ衣に前カケをしめてジュウジュウ鳥焼きとアワモリのサービスに励むかたわら、西口の開拓にも力を注いで今日の繁華街を築きあげた。独得な風貌と誰にも好かれる人柄と親身の世話焼きで忽ち西口の人気オヤジとなり、つい最近まで飲食組合の会長にまつりあげられていた。
『オヤジもトウトウ成り上がったかー』東口に酒礼門を開いたとき西口店のナジミがこう歎いた。お座敷酒亭より西口の番台でバタバタニコニコしていた方がオヤジらしい、ということだろうが、しかしオヤジの庶民性はどこへ行っても消えうせない。むしろ新しい酒礼門こそ庶民の酒亭だ。そこには南の芸術がある。文化がある、ラフティを食べ、アワモリを酌みながら踊りをみる。<しかもフトコロの心配もない、なければオヤジに話せばわかるのだー。あなたふと讃酒之仁義ありという 酒礼門にて酔い泣かんかも(石川正通)
私の17歳は、東京・新宿歌舞伎町の大衆割烹・勇駒新館で働いていた。勇駒本店隣に鮒忠①もあった。当時、新宿は副都心と称していた。現在は伏魔殿と謂われた都庁があるので都心であろうか。新宿は個人の存在など歯牙にもかけない喧噪で無味乾燥なビルが林立する巨大歓楽街であった。夕刻、新宿駅から仕事を終えたサラリーマンが歌舞伎町に大量に弾き出され勇駒新館はたちまち地下、2階も満杯になる。仕事が終わり寮に帰ると朝霧が立ち込めゴミが散乱する早朝の静寂は何とも言えない退廃的な雰囲気であった。職場には学費を稼がなければならない大学生バイト(早稲田が多かった)が5人も居たのでヒマな学生の政治運動やスポーツには興味も関心も無かった。沖縄出身に元出版社に居たという神里氏、いつも朝にヌンチャクの稽古をしていた。王城(喫茶)にも入口に沖縄出身の用心棒が居て、「困っていることがあれば相談に来い」と言ってくれた。
当時の新宿歌舞伎町(真鍋博1968年12月)
当時の新宿駅東口
歌舞伎町の大衆割烹・勇駒本店
1977年8月 桜井華子『東京の味Ⅲ』保育社「いそ料理 勇駒」
①根本忠雄(ねもと ただお、1913年 - 1988年)が1946年9月1日に同年9月1日、浅草千束に川魚料理の店「鮒忠」創業。川魚の捕れない冬場のメニューとして、進駐軍向けの鶏肉(ブロイラー)を串焼きにした「焼き鳥」の販売を開始。焼き鳥を大衆へ大々的に販売することを始めたのは日本初と言われ、「焼き鳥の父」と呼ばれたという。根本忠雄『年商十五億のやきとり商法―鮒忠立志伝』 柴田書店 (1965年)『鮒忠の江戸ッ子商法』 東京経済 (1972年)→Wikipedia。現在、勇駒はネット上出てこないが、鮒忠はもう老舗となって三代目が卸、ケータリング、レストランの3事業をネットも活用し引き継いでいる。
勇駒新館の支配人は漫画家さいとう・たかお似の出っぷりとした人で読書人。週に一回は紀伊國屋本店に雑誌や本を買いに行かされた。もちろん私も本屋は大好きだから喜んで行った。紀伊國屋本店には名物社長の田辺茂一がいたが見たことはない。この年は、「夢の島」の蠅騒動、ベ平連、河野一郎・江戸川乱歩・谷崎潤一郎・高見順らの死去、横井英樹襲撃で東京を震撼させた安藤組の安藤昇が映画俳優として登場したのが週刊誌を賑わしていた。店にはヤクザの長老も常連で来る。その一人(若いころはドス○○)が「近くで安藤昇のロケがあったのだが奴は小柄だからいかに大きく見せるかで周囲が悩んでいた」という。これを聞いて思い出したのが、以前、錦糸町のボウリング場で美川憲一が雑誌の取材でボールを投げるポーズをしていた。誌面では見事にストライクとなっていた。何事でも演出は必要だと思った。集団就職での上京の目的のひとつに、神田の古書街に通うことがあった。新宿は夜の街で前衛的な文化(サブカルチャー)の街で芸術文学の分野も幻想、終末、刹那・頽廃なものであふれていた。安藤昇のレコード「新宿無情」[1965]も出ていたが今ではYouTubeで聴くことができる。『月刊専門料理』の創刊は、1966年11月、この創刊号も勇駒新館の事務所で見た。
右に新宿コマ劇場
〇新宿コマ劇場とは、東京都新宿区歌舞伎町一丁目にあり、1956年12月28日から2008年12月31日まで株式会社コマ・スタジアムによって運営されていた劇場である。「演歌の殿堂」として広く認知され、数々のミュージカル作品も上演された。コマ劇や新コマとも言う。/1956年(昭和31年)2月にコマ・スタジアムが設立。大阪・梅田にあった梅田コマ・スタジアム(梅田コマ劇場の前身)の姉妹劇場として当劇場が建設され、同年12月28日に開場した。開場当初は「新宿コマ・スタジアム」と呼称していた。阪急・東宝グループの創始者である小林一三が抱いた「新しい国民演劇(新歌舞伎)の殿堂を作る」という理念に基づいて創設し歌舞伎町の地名のもととなった。客席数2,088席は首都圏で最大級であった。→ ウィキ
〇2011年7月11日、東宝が新宿コマ劇場及び新宿東宝会館の跡地に複合インテリジェントビル「新宿東宝ビル」を建設することを発表した。地上31階地下1階建て、高さ130メートル、延べ床面積55,390平方メートル、1階と2階に飲食店、3階から6階にTOHOシネマズが運営するIMAXシアターを導入して12スクリーン約2500席の都内最大級シネマコンプレックス「TOHOシネマズ新宿」、9階から31階に藤田観光が運営する約1030室のホテル「ホテルグレイスリー新宿」などが入居し、2015年4月17日に開業した。コマ劇場の中核だった演劇場は収益性が低いとして入居が見送られた。 → ウィキ
新宿・勇駒新館でー左に座っているのが新城栄徳、柴田マネジャー。柴田マネジャーに早稲田の学生がバイトさせてくれという、即採用。/新宿コマ劇場近くには琉球泡盛屋が数軒あった。志多伯克進、「志多伯のおやじ」という新宿名物的人物も居たが見たことはない。当時は未成年だから覗くだけで、新橋の沖縄料理屋には「沖縄そば」を食べにいったことがある。新宿の南風②は1974年にオヤジさんに『青い海』を贈呈しユンタクした。
1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物」
②『琉球新報』2015年3月7日 新宿歌舞伎町で67年 沖縄料理店「南風」閉店ー【東京】創業67年を数え、東京の沖縄料理店で草分け的存在の新宿歌舞伎町の「南風(なんぷう)」が今月末で閉店することになった。店主の前田清美さん(68)は「体力的にきつくなって、継ぐ人もいない。引き際だと思う」と話す。沖縄出身者の心のよりどころだった老舗が消えることになる。南風は戦後の焼け野原だった新宿で前田さんの両親の嘉手納知春さん(本部町出身)、幸子さん(大宜味村出身)夫妻が始めた。苦労して沖縄の食材を得、三線の名手だった知春さんが民謡で客をもてなした。
一度離れると容易には帰れなかった米統治下の沖縄。沖縄出身者は遠い故郷を思い、南風に通った。知春さんは苦学する若者に食事をさせ、終電後はたびたび店に泊め、「始まりも終わりもない店」と呼ばれた。店の2階に住んでいた清美さん姉弟は朝、寝ている酔客をまたいで登校したという。学生時代から60年、南風に通う渡久山長輝東京沖縄県人会長は「おやじから三線を習い、土間で寝たこともある。多くの沖縄人(ウチナーンチュ)の慰めとなっただった」と懐かしむ。清美さんは嘉手納清美として歌手や女優として活躍した後、82年に店主となった。バブルのころは地上げ屋の標的にもなったが店を守り続け、浮き沈みの激しい歌舞伎町の中で、老舗の一つだ。清美さんは「毎晩、お客さんが島唄を大合唱し、カチャーシーを舞った。沖縄人が楽しんでくれたから67年も続けられた」と話した。
柴田マネジャーは秋田の人、生真面目な人で未熟な人生観の持ち主の私を色々と注意してくれた。自宅にも連れて行かれ、マネジャーの痩躯にくらべふっくらとした色白の奥様の手料理を御馳走になった。寮の相棒に熊本出身の23歳の青年が居た。小柄だが休みの日にはコマ劇場の前などでプレイガールをお茶に誘い旅館に行き、その女性との一夜をこと細かく手帳に記していた。今だったら一流のホストになっていたが、私はそれでよく性病を移されなかったものだと感心した。店には茨城出身の威勢のいい2歳年上の子も居た。彼は駐車中の車を弄り人身事故を起こしその賠償金を払うため働いているという。また別の相棒に長崎出身の同じ年頃の子も居た。彼は年に似合わず、木の根っこを入手、磨きあげオブジェにして楽しむ人物であったが、繊細ゆえ「ゴールデン街」の人となった。後に柴田マネジャーは高円寺で焼鳥屋「秋田料理・鳥海」を開いた。
新宿は夜の街で昼間は時間がある。よくスマートボール、図書館に行った。二十歳前だから国会図書館は入れないので、区立図書館や日比谷図書館を利用した。神保町の古書街、古書会館もよく行った。別に調理士だからというわけではないが神保町の古書店から買った本に李家正文『厠(加波夜)考』がある。中に三田村鳶魚や金城朝永の本からの引用がある。金城の『異態習俗考』にも厠に関する論考がある。『梅毒図譜』というのも買った。私は1964年に錦糸町駅ビルの本屋で、サド裁判の被告で著名な澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』を買った。その本で南方熊楠(末吉麦門冬)、稲垣足穂、日夏耿之介を知る。後に、鎌倉の澁澤邸を訪ねた。
新宿勇駒の仕事は夕方の5時半から12時までであった。店の雰囲気は自由奔放だが、肝心要の料理人は調理師会から、仕入れは大型トラックで社長自ら運んでくる。営業終了後、掃除をしあと片づけが終わり、残飯などの生ごみ缶を3段に重ねて30個積み上げる。あとは皆で大関(我が家は酒に弱い家系。少量でも酔う)を飲みながら毛ガニ、フグちり、焼き鳥、生野菜の鍋を食べ終わると2時頃になる。コマ劇場横の銭湯に入り、寮に帰り同僚たちと会話。長引くと寝るとき朝日が差し込んでくる。寮の隣のビルはトルコ風呂のお姉ちゃんたちの寮であったが話をした記憶はない。異性は店から寮に帰る途中に女娼、男娼が立っている。そのとき私は運悪く17歳の夢見る年齢、異性には関心は薄かった。
古本屋で週刊誌(上は後に古本屋で入手)を漁るのが唯一の趣味で、切り抜いて手帳(この雑誌の物は残っていない。後、新聞スクラップ)に貼っていた。高円寺の球陽書房で最初に買ったのが江戸川乱歩『乱歩随筆』青蛙房 昭和35年であった。乱歩の小説は好みではないが随筆は好きであった。わが青春そのものであった大衆割烹・勇駒。今はネットにも出てこない。→今は琉文21で出てくる。
戦前の志多伯克進(志賀進)
私の手元には志多伯克進、静子が國吉眞哲、まり子に宛てた手紙などが6通ある。また静子が岡村吉右衛門から貰った『沖縄之民謡』、克進が刑務所時代に作った漆器もある。前に、戦後の新宿・酒禮門時代のことを記したので今回は戦前のことを記す。眞栄田三益の協力で親族の眞栄田勝朗が『大阪球陽新報』を創刊したのは前に記した。その新報の1939年1月15日付けに「オイル事件の志賀君/泡盛屋開業ー沖縄オイル事件で有名な志賀進君はその後、東京市政人社に勤務していたが同社を辞し小石川区坂下町154番地にモダン泡盛スタンドを開業しているが愛嬌者の君のサービス振りが評判になり大繁盛を極めている由である」と親しく報道している。ちなみに側の記事は南風原朝保(台北市)「郷土趣味講座は非常に有益」がある。
國吉眞哲翁は眞栄田三益、志多伯克進とも親しかった。で、琉球新報記者時代はよく検挙されブタ箱に入れられた。社に帰ってくると太田朝敷社長からは「行ってきたか」と首里言葉の一言だけで別に咎めなかったという。眞哲翁は1932年2月の『琉球新報』にオイル事件で刑務所に収監されている志多伯克進、前田一郎、大城永繁、安里成忠、徳田球一らの「獄中通信ー沖縄共産党諸君の事件より」を掲載した。
□志多伯克進「世間では俺が弱っているとの風聞らしいが、それは自分が娑婆に居た当時弱っていたのから推してあんな所へ行くと猶更とへるもんだと想像したに違いない。しかしそれは間違いだ。当人の俺は娑婆とお別れの際に病という厄介千万な奴とも御サラバしてきたのでここへ来て以来大変健康だ」
弁護士・布施辰治(1880年11月13日~1953年9月13日)
1954年9月24日ー沖縄人有志(比嘉春潮、宮良寛雄、志多伯克進)「布施先生の国民葬にあたり沖縄人として吊詞を述べさせていただきます。今から20余年前の昭和6年沖縄共産党事件が起こり、投獄された解放戦士の中二人が狂死したほど残虐な圧迫が加えられました。先生は当時幾多の事件を管掌され非常に御多忙の身であったにかかわらず往復10数日を要する沖縄に遥々とお出かけになってこの虐げられた人々のために弁護に立って下さいました。(略)実に先生は沖縄解放運動の大恩人であります。」
1954年2月ー小生夢坊・本多定喜『涙を憤りと共にー布施辰治の生涯』学風書院
詩人あしみね・えいいち
2005年10月5日 『琉球新報』 「あしみね・えいいち氏死去 山之口貘賞選考委員を23年」
山之口貘賞の選考委員を務めた詩人のあしみね・えいいち(本名・安次嶺栄一)氏が4日午後10時37分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。81歳。那覇市出身。自宅は東京都練馬区大泉学園町4-30-5。告別式は6日午前11時半から練馬区大泉学園町4-9-38の長女田中洋子さん宅で。喪主は妻秀子(ひでこ)さん。安次嶺さんは県立二中を卒業し、東京外語学校を中退。米国ニューメキシコ大学を修了。琉球政府行政主席専属秘書などをへて、南洋相互銀行に入行。その後、沖縄銀行や沖縄証券の監査役を務めた。安次嶺さんは、52年に発足した詩同人「珊瑚礁」に参加。「峰一華」の名で俳人としても活躍した。78年の山之口貘賞創設時から23回(2000年)まで選考委員を務めた。著書に詩集「光の筏」などがある。「珊瑚礁」の同人だった詩人で作家の船越義彰氏は「ひょうひょうとしていて人生を楽しんでいる方だった」と語った。あしみねさんの後を継いで貘賞選考委員になった詩人の花田英三さんは「ゆったりした感じのする人で、とても親しくしていただいた」と話した。
右から新城栄徳、あしみね・えいいち氏(山之口貘記念会三代目会長)、真喜志康忠氏、名護宏英氏(劇作家)