05/25: 1980年7月2日 徳田たつ、矢野克子来沖
1981年5月 沖縄史を記録する会『沖縄民衆史を歩くー記録と発掘ー』徳田たつ「沖縄の思い出ー美しき沖縄に来て亡き夫の育くまれし故郷の暖き人情」
1956年6月 矢野克子『詩集・梯梧』中央社
2000年3月『記念誌・徳田球一 』徳田球一顕彰記念事業期成会(会長 東江康治)
1974年ー奈良で日本各地の沖縄出身の団体が集まり一泊学習会をした。私(新城栄徳)は彫刻家の金城実氏と徳田球一の弟・正次氏と同じ部屋であった。真夜中まで寝ながら正次氏と語り明かした。そのとき正次氏から徳田球一写真集を企画しているとの話が出た。
写真ー矢野克子/1972年5月 矢野克子『詩集 鳴り止まず』木犀書房
1972年10月『青い海』17号 崎原恒新「文学作品にみる沖縄(11)杉森久英著『徳田球一』から 日本共産党の創始者 徳田球一の生涯」
1954年10月19日 『琉球新報』石川正通「ふりむん随筆 未完成公共学(一)」~12月27日①
徳田球一と神田の下宿で寝ころんで本を読んだのもその頃だ。球一はいつも丸太のように寝そべって、座ることなんかめったになかった。それから田端の或寺に引越して行った。当時の徳田球一の事を詳しく知っているのは山城正網画伯と文学薄士石川正通である。その1年前までの球一、つまり七高造士館時代の球一のことは伊礼肇に聞けば一番よくわかる。またその前、というと、沖縄一中時代の徳田球一の勉強振りや怠け振りに就ては伊礼亀(肇の当時の名)、比嘉良篤、瀬長良直あたりが生々しく語って呉れるであろう。当時の徳田球一行状記に関しては天才池宮城積宝が生き字引であったが、惜しい人を亡くしたものだ。しかし私が積宝から親しく聞いて大抵のことは覚えている。
奇行逸話に富む徳田球一のことだ。稿を改めて詳述するであろう。そのまま落語の種子になるような奇想天外的な彼の行動は驚天動地の彼の思想にもまして私の文学的好奇心をそそってやまないからである。
徳田球一の墓(多磨墓地)島袋和幸撮影
芥川龍之介は徳田球一の寄寓する寺の上手に、森田草平と「ばいえん」で有名な平塚雷鳥女史は下手に住んで居た。球一が霜氷る晩秋の暁方に雷鳥の門をたたいた秘話はシエイクスピアの四大悲劇の一つである「マクベス」の中の有名な「門たたきの場」とそっくりで、歴史は繰り返すと後輩の私などはつくづく感心したものだ。尼寺の美しい尼僧達が球一の天真爛漫な開放主義と男性美に面食らって感じてはならない春を感じてそそくさと列を乱し嬌声をあげて逃げたことも一度や二度ではない。私はもちろん共産党と何等関係はないが人間としての彼をこよなく愛する。
小泉八雲ー土井晩翠―石川正通
2000年4月 小泉時、小泉凡『文学アルバム 小泉八雲』恒文社〇1887年、カメラ(フランス製ディテクティヴ)106ドルで購入/1890年4月、横浜港到着/1891年11月19日、熊本の春日駅(現・熊本駅)に到着、加納治五郎第五高等中学校校長が』出迎え。12月6日、チェンバレンからの手紙で琉球の魅力を教えられる。1893年3月、琉球旅行を終えたチェンバレンが帰路に来熊。9月26日、沖縄県尋常師範学校の生徒49名が来校し歓迎行事。
1984年4月 土井晩翠顕彰会『土井晩翠ー栄光とその生涯』宝文堂〇/1933年9月9日、25歳で亡くなった土井英一の遺書で『荒城の月』の作詞者で知られる土井晩翠が帝国図書館(現・国際子ども図書館)の前庭に建立した小泉八雲記念碑。土井晩翠も東京帝大時代の小泉八雲の教え子。
1924年 石川正通、東北帝国大学法文学部文学科入学。在学中、土井晩翠の寵愛を受けた。
1934年4月15日『琉球新報』に山城正忠「旅塵抄」の連載がある。その16回に「東京も琉球」と題し、東京の石川正通を訪ねたときのことが書かれている。☆山城です。と名乗りを上げると、矢庭に襖が放いて、見知り越しの奥さんが顔を見せる。上がれといふので、遠慮無しにあがった。小ざっぱりとした、八畳の間である。(略)額が二面、襖の上にかかっている。ひとつは、英文で斎藤秀三郎先生の毛筆揮毫だとすぐ判った。勿論、私にそれが読める筈もないが、かねて此家の主人から、その事をきいて居たからである。今ひとつは、巻紙に書いた手紙を表装したもので、おしまひの処に、短歌が一首、書かれて有ったやうに覚えて居る。能くこなされた筆づかひで、酒悦な風格を偲ばせる迫力があった。何人の心憎い業であらうかと、態々立上ってみると「晩翠」といふ署名が鮮やかに、私の網膜に映った。それと同時に、これが、その昔、有名な「天地有情」によって、一代の詩名を謳はれた、土井先生の筆蹟だといふ事を知ったので、一しほ、懐かしく仰がれた。(略)こんな閑寂な処にいて、常住心を落ちつけていたら、きっとそのうちには、自然の脈搏が聴かれるだらう。そしたら、思ふ存分に、自分の貧しい想も練られて行くにちがいない。などと、空想してる所へ「ハイサイ。イチメンソウチャガ」と、例の開けっ放しな聲で、斯う云ひ乍らはいって来たのは、紛れもない、あるじの石川正通君であった。
1973年6月 雑誌『青い海』通巻24号 「インタビュー/中野好夫ー沖縄と私」
法政大学の沖縄文化研究所は中野好夫の沖縄資料センターが核になって設立された。□1961年8月『資料ニュース』№1「沖縄問題に関する資料の展示と懇談の会参考資料」。1963年12月『沖縄資料ニュース』№15「沖縄資料センター資料目録」。1964年6月、島田叡氏事跡顕彰会『沖縄の島守島田叡』中野好夫「最後の沖縄県知事」。1972年3月、中野好夫『沖縄と私』時事通信社。1982年3月、『沖縄資料センター目録』法政大学沖縄文化研究所。1982年7月『法政』№324・外間守善「中野好夫記念文庫について」。1985年4月『マスコミ市民』№201「追悼・中野好夫先生」、6月『新沖縄文学』第64号「追悼特集・中野好夫と沖縄」。1985年、屋宜宣仁『沖縄の日本復帰闘争あのころ』。
□6月10日ーモノレール美栄橋駅で屋宜宣仁氏と出会う。元気そうで何よりだ。
2005年1月『世界』中野利子「漢那憲和のこと」
新星出版で左上から新城栄徳、松島弘明社長、下左・松居州子さん(漢那憲和の孫)、中野利子さん
中野利子
1938年東京生、慶應義塾大学文学部卒。父は中野好夫、母方の祖父は土井晩翠。私立高校教員、公立中学校教員、定時制高校教員、産休補助教員等を経て、フリーライター。著書は「君が代通信」「教育が生まれる-<草の根>の教師像」「教師たちの悩み唄-10の人生ドキュメント」「H・ノーマン-あるデモクラットのたどった運命」等。93年「父中野好夫のこと」により日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
写真ー伊江邸で外間守善氏(右)、新城栄徳/1990年10月ー外間守善(文)・桑原重美(写真)『沖縄の祖神アマミク』築地書館
2007年3月ー外間守善『回想80年 沖縄学への道』沖縄タイムス社
息子。小学校入学前に、左は麻布にあった法政大学沖縄文化研究所玄関で、初めて外間守善氏、比嘉実氏と談。/右は渋谷区の早川図書前。
奥が比嘉実氏、新城栄徳、崎浜秀明氏、明治新聞雑誌文庫の北根豊氏/中央が比嘉実氏、右が新城栄徳