05/26: 1911(明治44)年1月1日 『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖(1)」
末吉麦門冬/2002年2月27日『沖縄タイムス』
林修 の「ことば検定【テレビ朝日】」よく見ているが、26日は「愚公山を移す(ぐこうやまをうつす)」であった。これは昨日『毛主席語録』1966年北京・外文出版社を読んでいたからすぐ分かった。語録には「いま、中国人民の頭上には、やはり帝国主義と封建主義という二つの大きな山がのしかかっている。(略)この上帝とはほかならぬ全中国の人民大衆である」としている。
1911(明治44)年1月1日 『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖(1)」
○古手帖ー冬篭り独り凡に侍つかかつて渋茶に咽を濕し乍暮るる●の早きを惜しみフト垢擦れた古手帖の眼につくままに抽き出して彼処此処拾ひ読みをして見ると僕も随分物数奇であったと見えて能くもこんな色んな物を書き取ったもんだ。此等はいづれ雑書類を繙読してその当時は少なくとも興味を以てしたもんだから今から見ると余りドットしないけれど紙屑買に渡す気でこう原稿紙の四角い物に入れて見ようといふ気になる。右は蜀山人の仮名世説にある大平の逸民の状態はこんなものであった。この超波①は作家として左程●い物ではなかったろうが兎に角、蕪村七部集②にも出ている「五車反古」に載っているのは下の四句だ、早乙女や先づひいやりと庭の先/祇園会や胡瓜花さく所まで/我屋根をはつれてゆかし天川・・・
①清水超波 しみず-ちょうは
1702-1740 江戸時代中期の俳人。
元禄(げんろく)15年生まれ。江戸の人。味噌(みそ)商だったが,家業をきらい,桑岡貞佐(ていさ)の門人となる。のち点者となり,独歩庵超波を名のった。元文5年7月27日死去。39歳。通称は長兵衛。初号は長巴。編著に「紙蚕(かみかいこ)」「落葉合(おちばあわせ)」など。→コトバンク
②蕪村七部集ぶそんしちぶしゅう
江戸時代後期の俳諧撰集。菊屋太兵衛らの編。文化5 (1808) 年刊。与謝蕪村関係の代表的俳書『其雪影』『明烏』『一夜四歌仙』『花鳥編』『続一夜四歌仙』『桃李 (ももすもも) 』『続明烏』『五車反古』の8部を収めたもの。
1月7日 『沖縄毎日新聞』安元碧海「沖縄の人物地理」
1月10日 『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖ー緑雨の『おぼへ帳』に・・・」
1939年8月 斎藤緑雨『あられ酒』岩波文庫/1991年7月 斎藤緑雨(編・中野三敏)『緑雨警語』冨山房百科文庫
三人冗語ー森鷗外主宰の雑誌《めさまし草》第3~7号(1896年3月~7月)において,鷗外,幸田露伴,斎藤緑雨の3人が行った作品合評。〈頭取(とうどり)〉(鷗外)による作品紹介に続いて,〈ひいき〉〈さし出〉などの変名の人物が批評する形式をとる,最初の匿名座談会形式の文芸時評。当時の批評界の権威として,多くの作品を辛辣に批判したなかで,樋口一葉の《たけくらべ》に対する批評(第4号)は,この小説を絶賛し,彼女の文名を一躍高めたことで有名である。 /1957年12月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書7』「尾崎紅葉 落合直文 齋藤緑雨 原抱一庵 小泉八雲」昭和女子大学光葉会
1939年12月3日『沖縄日報』「憧れの那覇の一夜 父・鴎外を語る 空の珍客、森於菟博士」
森於菟 もり-おと
1890-1967 大正-昭和時代の解剖学者,随筆家。
明治23年9月13日生まれ。森鴎外の長男。東京帝大助教授をへて台北帝大教授となり,解剖学を担当。のち東邦大医学部長などをつとめた。「解剖台に凭(よ)りて」「森鴎外」「父親としての鴎外」などの著作がある。昭和42年12月21日死去。77歳。東京出身。東京帝大卒。→コトバンク
2014年9月26日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー宮良當壮」
宮良當壮日記
□1924年6月17日ー今日の『沖縄日乃出新聞』に「3ヶ年連続で言語の研究をする宮良當壮氏、主に宮古、八重山」として書き立てていた。沖縄図書館へ行き、伊波普猷氏及真境名安興氏に会った。それから県庁へ行って視学島袋源一郎氏及上席視学の有馬氏に会い、更に琉球新報社を訪ねた。午後は師範学校で第二回採集を始めた。今日は校長、渡嘉敷唯功氏と中学の2教師の4人が席に付いて下さった。僕はノートを出して昨日の続きを始めた。6時に終えて那覇の泉崎で末吉麦門冬氏を訪れた。座敷中に書冊を堆積して調べ物のようであった。どっしりと落ちついた態度、深刻なる研究の様子が談笑の間にも充分窺われて、良き学友を得たような感じがした。話が興に入って時の過ぎるのを惜しみ、電車のなくなるのを恐れて失礼した。帰宅して信雄を起こすと、鎌倉芳太郎様が来訪あり、是非会いたいとの事であったという。
2014年12月26日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー毛氏末吉殿内墓 文化人3兄弟輩出」
2014年11月3日 毛氏末吉殿内墓で仲村顕氏
2014年11月27日 麦門冬の墓前で左が新城栄徳、伊佐眞一氏
2014年12月25日沖縄県立博物館・美術館近く
宮良当壮 みやなが-まさもり
1893-1964 大正-昭和時代の国語学者。
明治26年12月1日生まれ。宮内省図書寮につとめ,全国の方言を調査・研究。昭和18年日本方言研究所を創設。「琉球文学」を編集発行し,戦後の琉球文学研究に影響をあたえた。昭和39年3月1日死去。70歳。沖縄県出身。国学院大卒。著作に「八重山語彙(ごい)」「沖縄の人形芝居」など。(コトバンク)
☆池田光穂のサイト「金関丈夫と琉球の人骨について Dr. Takeo Kanaseki and Ryukyuan Remains」