12/22: 世相ジャパン(53)/伊波伊波普猷「おもろ・飛行機」
伊波普猷「おもろ・飛行機ー沖縄御間切心一つならば、苦世す甘世なさめ。直り世は実に是からど始まる」
伊波普猷
1929年2月ー伊波普猷、山城亀雄飛行士が操縦する飛行機でロサンゼルス上空を飛ぶ。カリフォルニア各地を巡遊、宮城与徳、屋部憲伝らと交流。
8月ー『科学画報』13巻2号□伊波普猷「布哇の自然と人」、伊波普猷、帰沖(折口信夫と同行予定が折口体調不良のため伊波一人の帰沖となった)。10日ー真境名安興と共催で「琉球古典劇研究座談会」、19日『琉球新報』伊波普猷「孟蘭盆の新意義」、25日ー『琉球新報』伊波普猷「五ツ組の用語と詩形」、30日ー伊波普猷、上里朝秀ら台中丸で帰京(途次、喜界島で講演)。11月23日ー京浜沖縄県学生会秋季総会で「方言に現れたる土俗」と題し講演
伊波普猷のよく知られた言説に「・・・さて、沖縄の帰属問題は、近く開かれる講和会議で決定されるが、沖縄人はそ
れまでに、それに関する希望を述べる自由を有するとしても、現在の世界情勢から推すと、自分の運命を自分で決定することの出来ない境遇におかれてゐることを知らなければならない。彼等はその子孫に対して斯くありたいと希望することは出来ても、斯くあるべしと命令すること出来ないはずだ。といふのは、廃藩置県後僅々七十年間における人心の変化を見ても、うなづかれよう。否、伝統さへも他の伝統にすげかへられることを覚悟しておく必要がある。すべては後に来たる者の意志にに委ねるほか道がない。それはともあれ、どんな政治の下に生活した時、沖縄人は幸福になれるかといふ問題は、沖縄史の範囲外にあるがゆゑに、それには一切触れないことにして、ここにはただ地球上で帝国主義が終わりを告げる時、沖縄人は『にが世』から開放されて、『あま世』を楽しみ十分にその個性を生かして、世界の文化に貢献することが出来る、との一言を附記して筆を擱く。」(1947年11月『沖縄歴史物語』沖縄青年同盟)がある。
沖縄歴史物語(右がハワイ版)
<あま世>の言葉は、1933年1月15日、琉球新報主催「航空大ページェント」で瀬長島上空を関口飛行士操縦の複葉機から色白の美人・宮森美代子嬢がパラシュートで飛び降りる。それを万余の沖縄県民が見物という新報記事を東京で見た伊波が自身のロサンゼルス上空を飛んだ感動と重ね合わし「おもろ・飛行機」と題し「・・・紫の綾雲、おし分けて出ぢへたる、ふへの鳥の舞ひ、如何し来る鳥が、常世の大ぬしの御使者は有らにゃ、・・・大和世は物事変て、殊に工学のひろましや、珍しや算知らぬー沖縄御間切心一つならば、苦世す甘世なさめ。直り世は実に是からど始まる」とよんだことが初出である。
異国船研究も、やはり沖縄学(伊波の学問を沖縄学と称したのは折口信夫)の礎を築いた伊波普猷に立ち戻らないといけない。『東恩納寛惇全集』「伊波君の想出」に寛惇は「日清役の頃か、伊波君が在京沖縄青年会雑誌に『爛額雑記』とか云った表題の随筆で、ヴィクトリヤの僧正の琉球訪問記を紹介した。(略)伊波君が『ヴィクトリヤの僧正』を取上げたのは、琉球語聖書の著者ベッテルハイムや、通事板良敷等に興味を有ったからであったらしい」と記している。1904年6月、伊波は鳥居龍蔵の沖縄調査に同行し横浜から尚家の汽船で帰省。鳥居は伊波宅に投宿。伊波は鳥居を沖縄各地に案内、記念にチェンバレンの『琉球文典』を鳥居より贈られる。
飛び安里研究会
1913年11月 素人飛行家、渡辺又一、勢理客鍋(佐敷村出身)両氏は渡辺氏の作成に係わるカーチス式複葉飛行機の滑走を試みるべく、両氏は数日前よりこれが組立に従事し、いよいよ飛行の当日は、先ず渡辺氏が滑走を試みたる後、勢理客氏又滑走を試みる筈にて行く行くは渡辺氏の飛行機に、勢理客氏の所有にかかるインジン(機関)を据えつけ、佐村氏の監督の下に天晴れ飛行家とならんとの決心を抱き居りたり。然るにピンカム知事は、これら飛行家の苦心を無視し、ハワイ軍区長官カーター少将の命によれりとて、遂に飛行を差し止むるに至りたり。『新聞にみるハワイの沖縄人90年』比嘉武信/編著 1990/10/01 若夏社
台風7号が接近中の6月30日 なは市民活動支援センター 飛び安里研究会「沖縄の花火師〔飛び安里〕世界で最も早く空を飛んだ」
島袋和幸氏、島袋宗一氏
島袋宗一氏
1943年9月 月刊『文化沖縄』新垣源蔵「琉球の火術雑考」
○「頂姓系図」支流(越来村字越来の安里家の系図)によると、この内の一人安里筑登之は、安里家六世の祖安里周英と云ふ者で、この人の父が周當で、有名な火花師である。沖縄で始めて焰硝製出に成功した人である。宮里良保氏の発表された飛行機の発明者も、安里周祥でなくこの周當だと自分は考へている。何故なら周祥はこの人の四男であり、系図には事跡は明らかでない。・・・
1943年10月 月刊『文化沖縄』与那国善三「飛び安里の話」
琉球の「飛び安里」を世界に紹介した宮里良保
自動車の知識(誠文堂十銭文庫 33) 宮里良保 著
宮里の本や資料については島袋和幸に問い合わせてください。〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10 ☎03-3695-9276 島袋携帯090-4920-6952
2015年6月 島袋恒政・島袋和幸『鳥人・飛び安里考』大和印刷(電話 03-3862-3236)定価・送料共1000円
発行ー『沖縄の軌跡』発行人・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
島袋和幸「沖縄の鳥人<飛び安里・花火師>」
沖縄の鳥人<飛び安里・花火師ヒハナジ>は、ことに沖縄では偉人と言われている。それは、約二百年前に<飛行>、つまり空を飛ぶ事について試行錯誤していた可能性があるからだ。その<飛び安里>について、彼が研究したであろう<飛ぶ>という事と、<沖縄の偉人>としてのロマンから、飛び安里について多くの方々が新聞や雑誌。書物などで言及されている。一方マスコミで取り上げられたことも数多いのである。しかし、こうした取り組みの中にあって、決定的な文献が無いとか、実際に飛んだ<飛び安里>とは一体誰なのかとか、又、飛んだ場所等についても諸説があったりで、実際には多くの方々を巻き込んで議論が尽きないのである。
こうした中で島袋恒政氏は、「二百年前の初飛翔/コンピューターで性能解明へ」(『沖縄タイムス』昭和62年2月14日)、「<跳び安里>のロマン再び/資料から模型製作/二百年前に精巧な設計」」(『沖縄タイムス』昭和62年5月10日)という新聞記事になる、<想像図>を国立国会図書館で発見している。それは約30年も前のことで、これ以降、地元新聞紙上や雑誌などで盛んに取り上げられた。その後も、同氏は各種資料や書物に真実を求めて追求してきた。安里家の遺族関係者や、貴重な証言、珍しい資料などが埋もれてしまう前に記録しておきたいという強い思いがある。
私は、約20年前に<飛び安里>研究に緒をつけた『科学画報』の記者、宮里良保について人となりを記録していた。さらに、15年前ほど前から民間航空の始祖である奈良原三次(奈良原繁沖縄県知事の嗣子)についても記録を行っていた。そして、いがいにも沖縄人の飛行機研究者が明治・大正期の早い時期から多かった事を知る。こうした事情等を島袋恒政氏の<飛び安里>についての博識な知識と、資料の記録をお手伝いしたいと思った次第である。
1999年3月28日『琉球新報』【南風原・玉城】「飛び安里の夢、再び」。南風原町の町おこしグループ「すきです南風原・夢・未来委員会」(島袋宗一会長)が、琉球王朝時代に空を飛んだ「飛び安里」の羽ばたき機をこのほど復元させ、27日午後、玉城村前川の丘陵地で初フライトにチャレンジした。想像図を基に約半年がかりで製作した復元機は、絶好の北風を受け、ふわりと空へ。伝説の翼が時を超えてよみがえった。 「町おこしのため、皆で何かできることはないか」と「飛び安里」の復元飛行を発案したのが、同委員会を立ち上げた8年前。島袋さんが会長に就任した2年前から本格的な作業に取り組み、昨年9月に復元機の製作に着手。試行錯誤を繰り返しながら、延べ60人がかりで完成にこぎつけた。
機体は、メンバーの島袋恒政さんが国会図書館から見つけてきた「飛び安里の羽ばたき機」の想像図を基に設計。主翼の幅が8・6メートル、長さ4・6メートル、高さ1・6メートル、重量25キロ。竹の骨組みで、翼はパラグライダーの素材を活用。一部に南風原町特産の絣(かすり)も取り入れた。初フライトのこの日、本番直前まで豪雨に見舞われたが、関係者の祈りが通じたのか雨も上がり、風速約5メートルの絶好のコンディションに。パイロット役としてパラグライダーインストラクターの仲里裕和さん(44)=佐敷町=が、機体に乗り込み準備が整った。
城間俊安町長をはじめ、多くの関係者が見守る中、タイミングを見計らって助走を開始。ハンググライダーの離陸の要領で斜面を駆け降りると、風を受けた機体はふわりと空中へ。高さ二メートルほどで、約15メートル飛行し、わずか数秒ながら初フライトは無事成功した。飛行を見守っていた島袋会長は「やった。すごい」と感激の第一声。「次はもっと飛べると確信した。これで目的は達成した。230年前の飛び安里の話も、これで実証された」と笑顔を見せた。ぶっつけ本番で緊張ぎみだった仲里さんは「思ったより難しかった。しかし、これでコツはつかめた。この機体で飛ばせてもらっただけで満足です」と話した。
伊波普益
儀間版画カレンダー「南西航空1980」
田園書房 南風原店「儀間比呂志先生サイン会」/儀間版画カレンダー「琉球銀行1991・沖縄銀行2002」
沖縄烽火考・・・・・・・・・島袋和幸
日本烽火考・・・・・・・・・島袋和幸
近代沖縄を駆け抜けた東北人・福島県人・・・・・・・・・島袋和幸
関東大震災・・・・・・・・・島袋和幸
明治期沖縄の黎明 弁護士・前島清三郎・・・・・・・・・島袋和幸
2016年9月 在野史論編集委員会 編『在野史論<第15集>』歴研
2015年12月『歴史研究』島袋和幸「わが著書を語る 『鳥人・飛び安里考』<飛び安里・花火師安里>のなぞを追う」
東京の島袋氏が福島へ行ったということで焼菓子「じゃんがら」と資料を送ってきた。
故郷伊江島でのオスプレイ(一機100億円①)飛行にわじぃわじぃーして、大日本の中心で「辺野古新基地NO」「命どぅ宝」を叫ぶ島袋氏
2018年5月27日『沖縄の軌跡』第196号《伊江島と核》 /6月10日『沖縄の軌跡』第197号《NHKスペシャル・基地の島沖縄はこうして生まれた》編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
伊波普猷
1929年2月ー伊波普猷、山城亀雄飛行士が操縦する飛行機でロサンゼルス上空を飛ぶ。カリフォルニア各地を巡遊、宮城与徳、屋部憲伝らと交流。
8月ー『科学画報』13巻2号□伊波普猷「布哇の自然と人」、伊波普猷、帰沖(折口信夫と同行予定が折口体調不良のため伊波一人の帰沖となった)。10日ー真境名安興と共催で「琉球古典劇研究座談会」、19日『琉球新報』伊波普猷「孟蘭盆の新意義」、25日ー『琉球新報』伊波普猷「五ツ組の用語と詩形」、30日ー伊波普猷、上里朝秀ら台中丸で帰京(途次、喜界島で講演)。11月23日ー京浜沖縄県学生会秋季総会で「方言に現れたる土俗」と題し講演
伊波普猷のよく知られた言説に「・・・さて、沖縄の帰属問題は、近く開かれる講和会議で決定されるが、沖縄人はそ
れまでに、それに関する希望を述べる自由を有するとしても、現在の世界情勢から推すと、自分の運命を自分で決定することの出来ない境遇におかれてゐることを知らなければならない。彼等はその子孫に対して斯くありたいと希望することは出来ても、斯くあるべしと命令すること出来ないはずだ。といふのは、廃藩置県後僅々七十年間における人心の変化を見ても、うなづかれよう。否、伝統さへも他の伝統にすげかへられることを覚悟しておく必要がある。すべては後に来たる者の意志にに委ねるほか道がない。それはともあれ、どんな政治の下に生活した時、沖縄人は幸福になれるかといふ問題は、沖縄史の範囲外にあるがゆゑに、それには一切触れないことにして、ここにはただ地球上で帝国主義が終わりを告げる時、沖縄人は『にが世』から開放されて、『あま世』を楽しみ十分にその個性を生かして、世界の文化に貢献することが出来る、との一言を附記して筆を擱く。」(1947年11月『沖縄歴史物語』沖縄青年同盟)がある。
沖縄歴史物語(右がハワイ版)
<あま世>の言葉は、1933年1月15日、琉球新報主催「航空大ページェント」で瀬長島上空を関口飛行士操縦の複葉機から色白の美人・宮森美代子嬢がパラシュートで飛び降りる。それを万余の沖縄県民が見物という新報記事を東京で見た伊波が自身のロサンゼルス上空を飛んだ感動と重ね合わし「おもろ・飛行機」と題し「・・・紫の綾雲、おし分けて出ぢへたる、ふへの鳥の舞ひ、如何し来る鳥が、常世の大ぬしの御使者は有らにゃ、・・・大和世は物事変て、殊に工学のひろましや、珍しや算知らぬー沖縄御間切心一つならば、苦世す甘世なさめ。直り世は実に是からど始まる」とよんだことが初出である。
異国船研究も、やはり沖縄学(伊波の学問を沖縄学と称したのは折口信夫)の礎を築いた伊波普猷に立ち戻らないといけない。『東恩納寛惇全集』「伊波君の想出」に寛惇は「日清役の頃か、伊波君が在京沖縄青年会雑誌に『爛額雑記』とか云った表題の随筆で、ヴィクトリヤの僧正の琉球訪問記を紹介した。(略)伊波君が『ヴィクトリヤの僧正』を取上げたのは、琉球語聖書の著者ベッテルハイムや、通事板良敷等に興味を有ったからであったらしい」と記している。1904年6月、伊波は鳥居龍蔵の沖縄調査に同行し横浜から尚家の汽船で帰省。鳥居は伊波宅に投宿。伊波は鳥居を沖縄各地に案内、記念にチェンバレンの『琉球文典』を鳥居より贈られる。
飛び安里研究会
1913年11月 素人飛行家、渡辺又一、勢理客鍋(佐敷村出身)両氏は渡辺氏の作成に係わるカーチス式複葉飛行機の滑走を試みるべく、両氏は数日前よりこれが組立に従事し、いよいよ飛行の当日は、先ず渡辺氏が滑走を試みたる後、勢理客氏又滑走を試みる筈にて行く行くは渡辺氏の飛行機に、勢理客氏の所有にかかるインジン(機関)を据えつけ、佐村氏の監督の下に天晴れ飛行家とならんとの決心を抱き居りたり。然るにピンカム知事は、これら飛行家の苦心を無視し、ハワイ軍区長官カーター少将の命によれりとて、遂に飛行を差し止むるに至りたり。『新聞にみるハワイの沖縄人90年』比嘉武信/編著 1990/10/01 若夏社
台風7号が接近中の6月30日 なは市民活動支援センター 飛び安里研究会「沖縄の花火師〔飛び安里〕世界で最も早く空を飛んだ」
島袋和幸氏、島袋宗一氏
島袋宗一氏
1943年9月 月刊『文化沖縄』新垣源蔵「琉球の火術雑考」
○「頂姓系図」支流(越来村字越来の安里家の系図)によると、この内の一人安里筑登之は、安里家六世の祖安里周英と云ふ者で、この人の父が周當で、有名な火花師である。沖縄で始めて焰硝製出に成功した人である。宮里良保氏の発表された飛行機の発明者も、安里周祥でなくこの周當だと自分は考へている。何故なら周祥はこの人の四男であり、系図には事跡は明らかでない。・・・
1943年10月 月刊『文化沖縄』与那国善三「飛び安里の話」
琉球の「飛び安里」を世界に紹介した宮里良保
自動車の知識(誠文堂十銭文庫 33) 宮里良保 著
宮里の本や資料については島袋和幸に問い合わせてください。〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10 ☎03-3695-9276 島袋携帯090-4920-6952
2015年6月 島袋恒政・島袋和幸『鳥人・飛び安里考』大和印刷(電話 03-3862-3236)定価・送料共1000円
発行ー『沖縄の軌跡』発行人・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
島袋和幸「沖縄の鳥人<飛び安里・花火師>」
沖縄の鳥人<飛び安里・花火師ヒハナジ>は、ことに沖縄では偉人と言われている。それは、約二百年前に<飛行>、つまり空を飛ぶ事について試行錯誤していた可能性があるからだ。その<飛び安里>について、彼が研究したであろう<飛ぶ>という事と、<沖縄の偉人>としてのロマンから、飛び安里について多くの方々が新聞や雑誌。書物などで言及されている。一方マスコミで取り上げられたことも数多いのである。しかし、こうした取り組みの中にあって、決定的な文献が無いとか、実際に飛んだ<飛び安里>とは一体誰なのかとか、又、飛んだ場所等についても諸説があったりで、実際には多くの方々を巻き込んで議論が尽きないのである。
こうした中で島袋恒政氏は、「二百年前の初飛翔/コンピューターで性能解明へ」(『沖縄タイムス』昭和62年2月14日)、「<跳び安里>のロマン再び/資料から模型製作/二百年前に精巧な設計」」(『沖縄タイムス』昭和62年5月10日)という新聞記事になる、<想像図>を国立国会図書館で発見している。それは約30年も前のことで、これ以降、地元新聞紙上や雑誌などで盛んに取り上げられた。その後も、同氏は各種資料や書物に真実を求めて追求してきた。安里家の遺族関係者や、貴重な証言、珍しい資料などが埋もれてしまう前に記録しておきたいという強い思いがある。
私は、約20年前に<飛び安里>研究に緒をつけた『科学画報』の記者、宮里良保について人となりを記録していた。さらに、15年前ほど前から民間航空の始祖である奈良原三次(奈良原繁沖縄県知事の嗣子)についても記録を行っていた。そして、いがいにも沖縄人の飛行機研究者が明治・大正期の早い時期から多かった事を知る。こうした事情等を島袋恒政氏の<飛び安里>についての博識な知識と、資料の記録をお手伝いしたいと思った次第である。
1999年3月28日『琉球新報』【南風原・玉城】「飛び安里の夢、再び」。南風原町の町おこしグループ「すきです南風原・夢・未来委員会」(島袋宗一会長)が、琉球王朝時代に空を飛んだ「飛び安里」の羽ばたき機をこのほど復元させ、27日午後、玉城村前川の丘陵地で初フライトにチャレンジした。想像図を基に約半年がかりで製作した復元機は、絶好の北風を受け、ふわりと空へ。伝説の翼が時を超えてよみがえった。 「町おこしのため、皆で何かできることはないか」と「飛び安里」の復元飛行を発案したのが、同委員会を立ち上げた8年前。島袋さんが会長に就任した2年前から本格的な作業に取り組み、昨年9月に復元機の製作に着手。試行錯誤を繰り返しながら、延べ60人がかりで完成にこぎつけた。
機体は、メンバーの島袋恒政さんが国会図書館から見つけてきた「飛び安里の羽ばたき機」の想像図を基に設計。主翼の幅が8・6メートル、長さ4・6メートル、高さ1・6メートル、重量25キロ。竹の骨組みで、翼はパラグライダーの素材を活用。一部に南風原町特産の絣(かすり)も取り入れた。初フライトのこの日、本番直前まで豪雨に見舞われたが、関係者の祈りが通じたのか雨も上がり、風速約5メートルの絶好のコンディションに。パイロット役としてパラグライダーインストラクターの仲里裕和さん(44)=佐敷町=が、機体に乗り込み準備が整った。
城間俊安町長をはじめ、多くの関係者が見守る中、タイミングを見計らって助走を開始。ハンググライダーの離陸の要領で斜面を駆け降りると、風を受けた機体はふわりと空中へ。高さ二メートルほどで、約15メートル飛行し、わずか数秒ながら初フライトは無事成功した。飛行を見守っていた島袋会長は「やった。すごい」と感激の第一声。「次はもっと飛べると確信した。これで目的は達成した。230年前の飛び安里の話も、これで実証された」と笑顔を見せた。ぶっつけ本番で緊張ぎみだった仲里さんは「思ったより難しかった。しかし、これでコツはつかめた。この機体で飛ばせてもらっただけで満足です」と話した。
伊波普益
儀間版画カレンダー「南西航空1980」
田園書房 南風原店「儀間比呂志先生サイン会」/儀間版画カレンダー「琉球銀行1991・沖縄銀行2002」
沖縄烽火考・・・・・・・・・島袋和幸
日本烽火考・・・・・・・・・島袋和幸
近代沖縄を駆け抜けた東北人・福島県人・・・・・・・・・島袋和幸
関東大震災・・・・・・・・・島袋和幸
明治期沖縄の黎明 弁護士・前島清三郎・・・・・・・・・島袋和幸
2016年9月 在野史論編集委員会 編『在野史論<第15集>』歴研
2015年12月『歴史研究』島袋和幸「わが著書を語る 『鳥人・飛び安里考』<飛び安里・花火師安里>のなぞを追う」
東京の島袋氏が福島へ行ったということで焼菓子「じゃんがら」と資料を送ってきた。
故郷伊江島でのオスプレイ(一機100億円①)飛行にわじぃわじぃーして、大日本の中心で「辺野古新基地NO」「命どぅ宝」を叫ぶ島袋氏
2018年5月27日『沖縄の軌跡』第196号《伊江島と核》 /6月10日『沖縄の軌跡』第197号《NHKスペシャル・基地の島沖縄はこうして生まれた》編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)