09/02: 世相ジャパン 2024
コメントはメールにお願いします→shinjo8109@yahoo.co.jp
9月14日 那覇市職員厚生会厚生会館「シンポジウム首里城と沖縄神社一資料に見る近代の変遷」/後田多敦神奈川大学非文字資料研究センター、友知政樹沖縄国際大学教授/伊良波賢弥神奈川大学非文字資料研究センター研究員、加藤里織神奈川大学非文字資料研究センター客員研究員、前田孝和神奈川大学非文字資料研究センター客員研究員、田場裕規沖縄国際大学教授、伊佐眞一琉球近現代史家/加藤里織神奈川大学非文字資料研究センター客員研究員、前田孝和神奈川大学非文字資料研究センター客員研究員
会場周辺は後田多神大教授が関わった沖縄タイムス社や沖縄県立博物館・美術館がある場所で未来社2010『未来』に「今も続くシュガーローフの戦い」で思い出を書いている。後田多教授の新聞記者のときは私は新聞や雑誌は文化の両輪と言うことで2003年「うちなー書の森 人の網」を連載、2005年には『琉球弧の雑誌展』発行に協力した。
2024年9月『琉球』(隔月刊)№102 RyuKyu企画〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947 下地ヒロユキ「表紙絵」/後田多敦「【上海訪問記】古と新」、西洋と東洋、デジタルとアナログの交差する光景」/島袋マカト陽子「東京琉球館便り】私の父はウチナーンチュ」/高良勉「イリチリ」
2024年7月 狩俣恵一/田場裕樹 編著『火難の首里城 大龍柱と琉球伝統文化の継承』インパクト出版会☆狩俣恵一「琉球伝統文化の継承について・・・現在の首里城復元は『首里城復元に向けた技術検討委員会』と沖縄総合事務局が中心になって進めているが、技術者の立場は著しく弱い。学識経験者の歴史中心主義が技能者を指導するという構図である」/田場裕規「伝統文化の継承と技能」/西里喜行「首里城正殿の大龍柱論争についての論評と問題提起・・・要するに、首里城正殿の向きが創建以来一貫して『西面』(西向き)のままであったのと同様に、正殿大龍柱の向きも十八世紀初頭から十九世紀七十年代に至るまで、一貫して『正面向き』のままであったということである」
大濱 聡 9-4■神奈川県相模原市のプロ・アマの写真家を対象にした総合写真祭「フォトシティさがみはら2024」で、プロの部最高賞の「さがみはら写真賞」に故阿波根昌鴻さん(1901-2002)が選ばれた、と地元二紙が伝えていた。■22年前に亡くなった阿波根さんがなぜ?と思ったが、埼玉県にある「原爆の図丸木美術館」で2/23~5/6に開催された写真「写真と抵抗、そして島の人々」が評価され、ノミネートされた26人の中から選出されたという。■私が取材で伊江島の団結道場を訪ねたのは44年前の1980年、阿波根さん79歳(私32歳)の時だった。米軍相手に「無抵抗の抵抗」で一歩もひるまずに島民のリーダーとして闘い続けた闘士とは思えない好々爺のおじぃであった。
■阿波根さんは決してプロではないが、写真は当事者にしか撮れないプロ級の写真(記録)が多い。20年以上前に亡くなった故人に対して、プロの部の最高賞に選んだ主催者の慧眼、英断に敬意を表したい。
大濱 聡■9.1放送 BS日テレ「ドキュメント‘24」55分拡大版〈戦前リアル〉を見る。■アメリカの外交防衛政策に影響を与えるとされる有力な米シンクタンクが去年、台湾有事のシミュレーション(160頁)を公表。もしも2026年に台湾有事が起こったら、日本にあるアメリカ軍基地(嘉手納・岩国・横田・三沢)は真っ先に攻撃を受ける可能性が高いという。■嘉手納基地については、「嘉手納基地に応援部隊が到着した時には、破壊された航空機の残骸が積み重ねられ、犠牲者は数百人に上っているだろう」と想定。続けてナレーションは言う。「一方で、基地を取り囲む町の被害についてはまったく記されていません」――軍隊は住民を守らないから必要ない?
■住民12万人の山口・九州への避難計画がある先島――「(先の大戦の)教訓が顧みられずに、同じことが起ころうとしている」「島が先の大戦の状況と似てきていると感じている。石垣島はまた有事の時は『捨て石』になってしまう可能性は大」シミュレーションより、住民の懸念にはリアリティがある。米軍基地のある本土の皆さんも決して他人事ではありませんよ。■番組のラストコメント「戦後79年、私たちが生きているのは本当に戦後なのでしょうか」が心に刺さった。
『沖縄の軌跡』発行人・島袋和幸 携帯090-4920-6952)
2021年11月22日 那覇市歴史博物館、左が外間政明氏、島袋和幸氏/11月23日 沖縄県立博物館・美術館民家/金城美奈子さん、島袋和幸氏/左が大城辰彦氏、島袋和幸氏
11月17日14時半 ジュンク堂で上原美紀男氏と遭遇。古本屋anmo堂に同行。店主の嘉陽安茂氏
11月17日10時 我が家の屋上にて、島袋和幸氏(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
2021年10月『沖縄の軌跡』第231号「震災時 千葉県:朝鮮人・日本人虐殺事件」
1990年5月19日『琉球新報』「近代沖縄の美術家一堂に 東京の島袋和幸氏 浦添美術館に写真寄贈」
2016年7月21日『沖縄タイムス』島袋和幸「検見川事件の真相 関東大震災~沖縄県民の虐殺」
関東大震災絵葉書
「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)氏が全国の烽火跡などを訪ねた折に出会った蘇鉄。
長崎県南島原市<原城跡>の蘇鉄
沖永良部島の世之主の墓、墓の入口と左側に蘇鉄が自生。
沖永良部 西郷神社
沖永良部島の遠見台・ウブス
沖縄・烽火のネットワーク
2010年6月、東京の島袋和幸氏が息子さんと西銘生楽の孫娘の幸子さんを同行し来宅された。島袋氏は「沖縄・烽火ネットワーク連絡会」(〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10/携帯090-4920-6952)なるものを立ち上げ烽火をあげている。私も琉球国の守礼門(中山門)の年表を作成中なので、かつて琉球国の通信手段であった烽火なるものに興味を持った。わが粟国島にもかつて番屋原というところに「遠見台」があって遠見番が居たという。
6月9日ー黒島などの烽火跡の調査から帰ってきた島袋和幸氏と烽火ネットワークの烽火をあげるため『琉球新報』『沖縄タイムス』に行った。両社とも仁記者が興味深く対応してくれた。タイムスでは与那嶺功記者にも会った。島袋氏には『烽火手帖』なるものを提案した。東京で島袋氏の刊行物の印刷を引き受けているのは大和印刷(大城盛和代表・〒東京都千代田区岩本町2-5-2電話03-3863-3236)で、大城氏は沖縄では琉球新報の印刷会社に勤めたことがある。
島袋和幸氏の20歳頃は、奈良の大和高田に住み、<大和三山>などを見て、斑鳩の里あたりを散策。その頃は、大阪上本町の写真学校、京都の学校にも通っていた。22歳頃は暑い京都で数年過ごし、周辺の寺院も訪ねた。この寺院巡りは、東京に定住しても妻や幼い子供を連れての家族サービスになった。その後は岐阜の大垣、木曽川駅あたりに住んでいた。以後、東京で伯母の飲食店を手伝い、調理師免許も取った。(続く)
島袋和幸『関東大震災・虐殺事件ー{秋田・三重・沖縄県人虐殺}/<検見川事件>.の真相』大和印刷
『沖縄の軌跡』発行人・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
2023年8月17日 『中日新聞』「関東大震災直後『検見川事件』」
秋田県人殺害ー殺人集団と化した[自警団]の妻沼町殺人・傷害事件の事件現場ー国宝・妻沼聖天山の真ん前で起きた事件。
9月14日 那覇市職員厚生会厚生会館「シンポジウム首里城と沖縄神社一資料に見る近代の変遷」/後田多敦神奈川大学非文字資料研究センター、友知政樹沖縄国際大学教授/伊良波賢弥神奈川大学非文字資料研究センター研究員、加藤里織神奈川大学非文字資料研究センター客員研究員、前田孝和神奈川大学非文字資料研究センター客員研究員、田場裕規沖縄国際大学教授、伊佐眞一琉球近現代史家/加藤里織神奈川大学非文字資料研究センター客員研究員、前田孝和神奈川大学非文字資料研究センター客員研究員
会場周辺は後田多神大教授が関わった沖縄タイムス社や沖縄県立博物館・美術館がある場所で未来社2010『未来』に「今も続くシュガーローフの戦い」で思い出を書いている。後田多教授の新聞記者のときは私は新聞や雑誌は文化の両輪と言うことで2003年「うちなー書の森 人の網」を連載、2005年には『琉球弧の雑誌展』発行に協力した。
2024年9月『琉球』(隔月刊)№102 RyuKyu企画〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947 下地ヒロユキ「表紙絵」/後田多敦「【上海訪問記】古と新」、西洋と東洋、デジタルとアナログの交差する光景」/島袋マカト陽子「東京琉球館便り】私の父はウチナーンチュ」/高良勉「イリチリ」
2024年7月 狩俣恵一/田場裕樹 編著『火難の首里城 大龍柱と琉球伝統文化の継承』インパクト出版会☆狩俣恵一「琉球伝統文化の継承について・・・現在の首里城復元は『首里城復元に向けた技術検討委員会』と沖縄総合事務局が中心になって進めているが、技術者の立場は著しく弱い。学識経験者の歴史中心主義が技能者を指導するという構図である」/田場裕規「伝統文化の継承と技能」/西里喜行「首里城正殿の大龍柱論争についての論評と問題提起・・・要するに、首里城正殿の向きが創建以来一貫して『西面』(西向き)のままであったのと同様に、正殿大龍柱の向きも十八世紀初頭から十九世紀七十年代に至るまで、一貫して『正面向き』のままであったということである」
大濱 聡 9-4■神奈川県相模原市のプロ・アマの写真家を対象にした総合写真祭「フォトシティさがみはら2024」で、プロの部最高賞の「さがみはら写真賞」に故阿波根昌鴻さん(1901-2002)が選ばれた、と地元二紙が伝えていた。■22年前に亡くなった阿波根さんがなぜ?と思ったが、埼玉県にある「原爆の図丸木美術館」で2/23~5/6に開催された写真「写真と抵抗、そして島の人々」が評価され、ノミネートされた26人の中から選出されたという。■私が取材で伊江島の団結道場を訪ねたのは44年前の1980年、阿波根さん79歳(私32歳)の時だった。米軍相手に「無抵抗の抵抗」で一歩もひるまずに島民のリーダーとして闘い続けた闘士とは思えない好々爺のおじぃであった。
■阿波根さんは決してプロではないが、写真は当事者にしか撮れないプロ級の写真(記録)が多い。20年以上前に亡くなった故人に対して、プロの部の最高賞に選んだ主催者の慧眼、英断に敬意を表したい。
大濱 聡■9.1放送 BS日テレ「ドキュメント‘24」55分拡大版〈戦前リアル〉を見る。■アメリカの外交防衛政策に影響を与えるとされる有力な米シンクタンクが去年、台湾有事のシミュレーション(160頁)を公表。もしも2026年に台湾有事が起こったら、日本にあるアメリカ軍基地(嘉手納・岩国・横田・三沢)は真っ先に攻撃を受ける可能性が高いという。■嘉手納基地については、「嘉手納基地に応援部隊が到着した時には、破壊された航空機の残骸が積み重ねられ、犠牲者は数百人に上っているだろう」と想定。続けてナレーションは言う。「一方で、基地を取り囲む町の被害についてはまったく記されていません」――軍隊は住民を守らないから必要ない?
■住民12万人の山口・九州への避難計画がある先島――「(先の大戦の)教訓が顧みられずに、同じことが起ころうとしている」「島が先の大戦の状況と似てきていると感じている。石垣島はまた有事の時は『捨て石』になってしまう可能性は大」シミュレーションより、住民の懸念にはリアリティがある。米軍基地のある本土の皆さんも決して他人事ではありませんよ。■番組のラストコメント「戦後79年、私たちが生きているのは本当に戦後なのでしょうか」が心に刺さった。
『沖縄の軌跡』発行人・島袋和幸 携帯090-4920-6952)
2021年11月22日 那覇市歴史博物館、左が外間政明氏、島袋和幸氏/11月23日 沖縄県立博物館・美術館民家/金城美奈子さん、島袋和幸氏/左が大城辰彦氏、島袋和幸氏
11月17日14時半 ジュンク堂で上原美紀男氏と遭遇。古本屋anmo堂に同行。店主の嘉陽安茂氏
11月17日10時 我が家の屋上にて、島袋和幸氏(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
2021年10月『沖縄の軌跡』第231号「震災時 千葉県:朝鮮人・日本人虐殺事件」
1990年5月19日『琉球新報』「近代沖縄の美術家一堂に 東京の島袋和幸氏 浦添美術館に写真寄贈」
2016年7月21日『沖縄タイムス』島袋和幸「検見川事件の真相 関東大震災~沖縄県民の虐殺」
関東大震災絵葉書
「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)氏が全国の烽火跡などを訪ねた折に出会った蘇鉄。
長崎県南島原市<原城跡>の蘇鉄
沖永良部島の世之主の墓、墓の入口と左側に蘇鉄が自生。
沖永良部 西郷神社
沖永良部島の遠見台・ウブス
沖縄・烽火のネットワーク
2010年6月、東京の島袋和幸氏が息子さんと西銘生楽の孫娘の幸子さんを同行し来宅された。島袋氏は「沖縄・烽火ネットワーク連絡会」(〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10/携帯090-4920-6952)なるものを立ち上げ烽火をあげている。私も琉球国の守礼門(中山門)の年表を作成中なので、かつて琉球国の通信手段であった烽火なるものに興味を持った。わが粟国島にもかつて番屋原というところに「遠見台」があって遠見番が居たという。
6月9日ー黒島などの烽火跡の調査から帰ってきた島袋和幸氏と烽火ネットワークの烽火をあげるため『琉球新報』『沖縄タイムス』に行った。両社とも仁記者が興味深く対応してくれた。タイムスでは与那嶺功記者にも会った。島袋氏には『烽火手帖』なるものを提案した。東京で島袋氏の刊行物の印刷を引き受けているのは大和印刷(大城盛和代表・〒東京都千代田区岩本町2-5-2電話03-3863-3236)で、大城氏は沖縄では琉球新報の印刷会社に勤めたことがある。
島袋和幸氏の20歳頃は、奈良の大和高田に住み、<大和三山>などを見て、斑鳩の里あたりを散策。その頃は、大阪上本町の写真学校、京都の学校にも通っていた。22歳頃は暑い京都で数年過ごし、周辺の寺院も訪ねた。この寺院巡りは、東京に定住しても妻や幼い子供を連れての家族サービスになった。その後は岐阜の大垣、木曽川駅あたりに住んでいた。以後、東京で伯母の飲食店を手伝い、調理師免許も取った。(続く)
島袋和幸『関東大震災・虐殺事件ー{秋田・三重・沖縄県人虐殺}/<検見川事件>.の真相』大和印刷
『沖縄の軌跡』発行人・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
2023年8月17日 『中日新聞』「関東大震災直後『検見川事件』」
秋田県人殺害ー殺人集団と化した[自警団]の妻沼町殺人・傷害事件の事件現場ー国宝・妻沼聖天山の真ん前で起きた事件。