05/27: あぐに/浦崎春雄(1921年3月10日~1999年6月6日)作成「粟国地図」
2024-6-27 粟国教育委員会で浦崎順子さんから「偉人顕彰碑」資料を貰う。
浦崎春雄・美代子御夫妻
琉球国由来記による嶽名並に殿名の村呼称
九嶽
嶽名 地域 村呼称 備考
ガダノコ御嶽 西 ウガン ウガン、クバムイと同体
八重の御イベ 西 八重大中 エーウフナカ(通称イビガナシー)
テラチ御嶽 西 マチュー
ヲノコ御嶽 浜 ウフタキ
中ノ御嶽 浜 ナカタキ
ハイノ御嶽 浜 ヘータキ
シマイ御嶽 西 アナガー
アラバ御嶽 西
ヤカン御嶽 西 スイミチ
五殿
殿名 地域 村呼称 備考
八重ノ殿 西 エーヌ殿
泊リノ殿 西 トゥマイヌ殿 トゥマンナー殿ともいふ
安次冨ノ殿 西 アサトゥヌ殿 安次冨はアストと読む
垣奴殿 東 ガーチヌ殿
浜奴殿 浜 アダンナヌ殿
ババノ殿(由来記にはない)
私は1983年、母の兄・玉寄貞夫が仲里秀雄元粟国村長と『粟国民謡集』を出すというので編集協力した。その過程で久茂地の浦崎春雄氏宅にも同行した。
1987年9月ー高阪薫『沖縄の祭祀ー事例と課題』三弥井書店
1988年4月、尼崎市の中沢章浩氏から高阪薫編の『沖縄の祭祀』が贈られてきた。以前に甲南大学地域文化研究会のメンバーが粟国の民俗調査に行くというので、那覇の浦崎春雄氏を紹介したことがある。本書の目次は第1章・渡名喜島「島直シ祭祀/第2章・粟国島ヤカンウユミ/第3章・八重山の豊年祭/第4章・シヌグとウンジャミ/調査活動年誌となっている。また、那覇市の国際通りで、夏休み家族で散策していた中沢氏親子にも偶然出会ったこともある。那覇市議会議会史の小渡清孝氏と尼崎の中沢宅(尼崎市常光寺1-18-10)を訪ねたこともある。尼崎には沖縄県人会兵庫県本部がある。
1991年12月 比嘉康雄『異界の神ヤガンの来訪「ヤガンウユミ・粟国島」』二ライ社
□浦崎春雄氏(68歳)の話では、ヤガンウユミは明治か大正ごろまでは連綿として続けられていたが、神職者不在などの理由でいったんとだえてしまった。祈願だけの行事は昭和7、8年ごろまでハナグシクヌルがおこなっていた。しかし、これもヌル没後とだえた。戦後になって祈願だけは区長などによって再びおこなうようになった。
昭和23年ごろ、当時村長だった仲里秀雄氏の「ヤガンウユミを復活せよ」の命を受けて、そのころ役所に勤めていた浦崎春雄氏がヤガンウユミを覚えていた照喜名ウシさん、当時80代(ユナンサー家の娘)から数カ月にわたって祭祀の内容を聞き書きし、それを当時の神職者に教えて復活した。
あぐに/浦崎春雄「粟国島の畳語」
浦崎春雄氏宅前(屋号ティグヮー)。粟国島には自動車が8台。馬が人や貨物を運ぶ、180頭の馬がいる。
畳語とは特色語であり一語句でたたみ込んで言ふ言葉でありいわゆる類似語又は反復する語句を以て一つの言葉を強調するに使ふ場合に言ふ又二語句言はないと表現出来ないことがある。
粟国村で昔からよく使はれた言葉であるが単語的であり現代余り使はれてなく死語になりつつある。50音別に拾って見たが日常余り使はない言葉である為に忘れてあるのもあり探せばまだまだあると思ふ。
語句 意(表現)
アマユミ クマユミ 方々で物事をしゃべってあるくこと
アン言イ カン言イ ああ云ったりこう言ったりはっきりしないこと
アマ走イ クマ走イ 忙しくあっち、こっち走りまわること
アマ行チ クマ行チ あっち行ったり、こっち行ったり
アマナイ クマナイ あっちになったり、こっちになったり
アマナシ クマナシ 物をあっちにやったり、こっちになったり
アマウチ クマウチ 物をあっちに置いたり、こっちに置いたり
アマサーイ クマサーイ あっちさわったり、こっちさわったり
アマ見ー クマ見ー あっち見たり、こっち見たりしてきょろきょろすること
アンナイ カンナイ あれこれすること
浦崎春雄氏自筆
ンサブイ カーブイ あれもいや これもいやいやすること
ンチャイ チチャイ 交際、お互い助け合ふこと
語句の意を共通語で表記し難いのもある為それに近い釈をした。尚一つの語句に対し違った釈もあるが一語句に一語の意を記した。
浦崎春雄・美代子御夫妻
琉球国由来記による嶽名並に殿名の村呼称
九嶽
嶽名 地域 村呼称 備考
ガダノコ御嶽 西 ウガン ウガン、クバムイと同体
八重の御イベ 西 八重大中 エーウフナカ(通称イビガナシー)
テラチ御嶽 西 マチュー
ヲノコ御嶽 浜 ウフタキ
中ノ御嶽 浜 ナカタキ
ハイノ御嶽 浜 ヘータキ
シマイ御嶽 西 アナガー
アラバ御嶽 西
ヤカン御嶽 西 スイミチ
五殿
殿名 地域 村呼称 備考
八重ノ殿 西 エーヌ殿
泊リノ殿 西 トゥマイヌ殿 トゥマンナー殿ともいふ
安次冨ノ殿 西 アサトゥヌ殿 安次冨はアストと読む
垣奴殿 東 ガーチヌ殿
浜奴殿 浜 アダンナヌ殿
ババノ殿(由来記にはない)
私は1983年、母の兄・玉寄貞夫が仲里秀雄元粟国村長と『粟国民謡集』を出すというので編集協力した。その過程で久茂地の浦崎春雄氏宅にも同行した。
1987年9月ー高阪薫『沖縄の祭祀ー事例と課題』三弥井書店
1988年4月、尼崎市の中沢章浩氏から高阪薫編の『沖縄の祭祀』が贈られてきた。以前に甲南大学地域文化研究会のメンバーが粟国の民俗調査に行くというので、那覇の浦崎春雄氏を紹介したことがある。本書の目次は第1章・渡名喜島「島直シ祭祀/第2章・粟国島ヤカンウユミ/第3章・八重山の豊年祭/第4章・シヌグとウンジャミ/調査活動年誌となっている。また、那覇市の国際通りで、夏休み家族で散策していた中沢氏親子にも偶然出会ったこともある。那覇市議会議会史の小渡清孝氏と尼崎の中沢宅(尼崎市常光寺1-18-10)を訪ねたこともある。尼崎には沖縄県人会兵庫県本部がある。
1991年12月 比嘉康雄『異界の神ヤガンの来訪「ヤガンウユミ・粟国島」』二ライ社
□浦崎春雄氏(68歳)の話では、ヤガンウユミは明治か大正ごろまでは連綿として続けられていたが、神職者不在などの理由でいったんとだえてしまった。祈願だけの行事は昭和7、8年ごろまでハナグシクヌルがおこなっていた。しかし、これもヌル没後とだえた。戦後になって祈願だけは区長などによって再びおこなうようになった。
昭和23年ごろ、当時村長だった仲里秀雄氏の「ヤガンウユミを復活せよ」の命を受けて、そのころ役所に勤めていた浦崎春雄氏がヤガンウユミを覚えていた照喜名ウシさん、当時80代(ユナンサー家の娘)から数カ月にわたって祭祀の内容を聞き書きし、それを当時の神職者に教えて復活した。
あぐに/浦崎春雄「粟国島の畳語」
浦崎春雄氏宅前(屋号ティグヮー)。粟国島には自動車が8台。馬が人や貨物を運ぶ、180頭の馬がいる。
畳語とは特色語であり一語句でたたみ込んで言ふ言葉でありいわゆる類似語又は反復する語句を以て一つの言葉を強調するに使ふ場合に言ふ又二語句言はないと表現出来ないことがある。
粟国村で昔からよく使はれた言葉であるが単語的であり現代余り使はれてなく死語になりつつある。50音別に拾って見たが日常余り使はない言葉である為に忘れてあるのもあり探せばまだまだあると思ふ。
語句 意(表現)
アマユミ クマユミ 方々で物事をしゃべってあるくこと
アン言イ カン言イ ああ云ったりこう言ったりはっきりしないこと
アマ走イ クマ走イ 忙しくあっち、こっち走りまわること
アマ行チ クマ行チ あっち行ったり、こっち行ったり
アマナイ クマナイ あっちになったり、こっちになったり
アマナシ クマナシ 物をあっちにやったり、こっちになったり
アマウチ クマウチ 物をあっちに置いたり、こっちに置いたり
アマサーイ クマサーイ あっちさわったり、こっちさわったり
アマ見ー クマ見ー あっち見たり、こっち見たりしてきょろきょろすること
アンナイ カンナイ あれこれすること
浦崎春雄氏自筆
ンサブイ カーブイ あれもいや これもいやいやすること
ンチャイ チチャイ 交際、お互い助け合ふこと
語句の意を共通語で表記し難いのもある為それに近い釈をした。尚一つの語句に対し違った釈もあるが一語句に一語の意を記した。