null
元祖の守忠は、南山王汪応祖の二男で、尚巴志に滅ぼされた他魯毎王の弟。南山城が攻撃されたとき城から脱出して具志頭間切の安里大親に助けられ、のちに大親の嗣子になったことが家譜にある。二世守知(守忠の長男)は首里に上り、偶然に世子尚真の養父を命ぜられる。長女真嘉戸樽は知念間切謝氏知名親雲上成良に嫁した。その女子がのちに尚真王夫人となった華后。三世守庸(守知の二男)。四世守良(守庸の長男)は柳姓元祖・摩文仁掟親雲上康長の父。下の「王位継承」陰謀には南山王統系阿氏一門が関わっているのは間違いない。→「柳姓・真喜志」
大阪・沖縄関係資料室で『阿姓家譜』(阿姓南風原按司守忠 7世西平親雲上守安4男)の原本を見たことがある。元祖の守忠は、南山王汪応祖の二男で、尚巴志に滅ぼされた他魯毎王の弟。南山城が攻撃されたとき城から脱出して具志頭間切の安里大親に助けられ、のちに大親の嗣子になったことが家譜にある。二世守知(守忠の長男)は首里に上り、偶然に世子尚真の養父を命ぜられる。長女真嘉戸樽は知念間切謝氏知名親雲上成良に嫁した。その女子がのちに尚真王夫人となった華后。
 三世守庸(守知の二男)。四世守良(守庸の長男)は柳姓元祖・摩文仁掟親雲上康長の父、複製本が那覇市歴史博物館にある。『氏集』を見ると、阿氏には前川、渡名喜、西平、小濱、渡嘉敷、宮平、瀬良垣、伊舎堂、與儀、喜瀬、山元、安和、佐久田、眞謝、江田、金城、照屋の諸家がある。
 名古屋の渡久地政司(とぐち まさしー1937(昭和12)年6月2日、大阪市で生れる。豊田市で育つ。73歳、第3の人生のスタート。体と思考を「解す」だけでなく鍛える。)氏のブログに氏の調査で「太田守松 父渡名喜守重、母なべの長男として沖縄県那覇市東町1丁目20番地で明治35年(1902)生まれる。泉崎小学校、沖縄1中卒、神戸高等商業学校卒。滋賀県立彦根商業学校教諭(大正14年4月)。昭和3年短歌会『国民文学』に入社・植松寿樹に師事。以後、短歌運動。昭和22年3月、日本キリスト教団彦根教会で洗礼。1947年(昭和22年10月)、渡名喜姓を先祖が使用していた太田姓に改名。昭和23年、彦根市立西中学校校長。昭和27年、彦根YWCA創立理事長。昭和34年、井伊大老開国百年祭奉賛会事務局次長。昭和38年、原水爆禁止彦根市協議会会長。昭和45年1月、脳溢血で逝去(67)。
○ 太田菊子  父豊見山安健、母オト(1882年生まれ)の長女として 1905年(明治38)沖縄県那覇市で生まれる。沖縄県立第1高等女学校卒業1921年(大正10)、東京山脇高等女学校卒業1924年(大正13)。大正14年12月、渡名喜守松と結婚。平成5年(1993)逝去(88)・1962年(昭和37年2月)。長年同居の母オト逝去(80歳)。」と太田守松と夫人が紹介されている。守松氏も阿氏である。

2012年の12月発行の『週刊新潮』に岸朝子さんが「私は来年で90歳。祖先のルーツを探ってみたくなりました。大宜味尋常小学校校長で教育者だった私の母方の祖父、親泊朝擢は琉球王国第二尚氏3代尚真王の長男・尚維衡(浦添王子朝満)の後裔にあたります。」と情報を提供してほしいと書いている。与並岳生氏は『新 琉球王統史⑦尚寧王』などに、「おそらく、尚維衡の”追放”が、明らかに誤りであったことが、”陰謀”によって生まれた尚清王系尚永王の死去、そして嗣子がなかったことにより、公然と主張され、この機会にその”復権”をはかり、かつ正統に戻そうと至った」と書いている。続けて「つまり、尚元王の妃(尚永王の母)真和志聞得大君加那志(号・梅岳)は、尚維衡の長男、尚弘業(広徳寺浦添親方ともいった)の娘であり、尚弘業の息子尚懿の妻は尚元王の長女・首里大君加那志(尚永王の姉で、真和志聞得大君加那志の子)で、つまりいとこ同士で結婚したわけであり、その子が尚寧です。」と記す。



null