1909年3月19日ー『沖縄毎日新聞』伊波月城「誓閑寺時代の回顧」(以って入社の辞に代ふ)9年前のことである。家兄が京都に行った後で、迷子同様になった自分は、当時國光社に居られた恩師田島隋々庵氏の京橋南小田原町の僑居に這入り込むことになった所が、元来閑静な所が好きな自分は、間もなく牛込は喜久井なる誓閑寺に、今の甲辰の校長東恩納氏と同居して自炊することになった。お寺に引越したのは8月の上旬である。日はよくは覚えていないが、恰度同郷の友人を誓閑寺の隣なる大龍寺の墓地に葬ってから2日目の夕暮れであった。お寺は浄土宗で、住職の外に、小学校に通う子供と仙台辺の田舎者だと云う婆さんがいた。その婆さんが住職の梵妻なので、住職より10歳も老けて見えた。自分は三畳の室をあてがわれた。室は南向きで風通しはよかったが、戸端から一間先に、墳墓が並んでいたのには、聊か閉口した。併し後では墳墓と親しむようになった。自分が今日墓畔を逍遥するを一種の快楽とするようになったのは詩人イプセンの感化ばかりでもないのである。10日位たつと当間浮鷗氏が其の親戚の外間氏と共に引越して来て仲間になった。それから間もなく諸見里南香氏が上京された。沖縄時論が解散したので、この10年間は郷里には帰れないといって居られた。南香氏は10日ばかりすると日本新聞の記者となられた。誓閑時は俄かに賑わったのである。
 8月中は、学校が休みなので、何れものんきに法螺を吹いて暮らしていた。朝は木魚の音と読経の声に目が覚める。総がかりで朝飯の支度をする。朝飯がすむと銘々で散歩に出かける。散歩から帰って来ると昼飯の用意に取りかかる。昼飯がすむと、下町の方に出かけるものもあれば、華胥の國に遊ぶのもいた。共同生活の快楽は一つ釜から飯を食べるということである。併し社会主義というものが、到底地上で行われるべきでないと思ったのはこの時である。一番戦闘力が強かったのは東恩納氏で、一番戦闘力が弱かったのは外間氏であった。外間氏は列強の略奪に遭って泣き出したこともある。浮鷗氏は此頃からの潔癖家である。東恩納氏は有名な無精者で、自分が座っていた2尺平方の掃除も碌にしなかった位である。南香氏は郷里で奮闘した結果、意気消沈してしまって、何らの特色も発揮しなかった。自分は其時からの酔漢で、5名のうちで酒屋の信用が一番重かった方である。
 木魚の音と読経の声は聞きなれると心持のよいものである。浮鷗氏が禅味を帯び始めたのもこの頃からであろう。自分が耶蘇に帰依したのも此頃である。誓閑寺時代は自分に取っては忘れることの出来ない時代である。今から考えて見ると誓閑寺の一隅は沖縄の社会の或る一部の縮図であった。9月になって皆下町の方に引越した。思えば昨今のことのようであるが、足かけた年になる。自分は依然たる呉下の旧阿の蒙である。
 毎日紙の発刊当時、自分は社友となって、いかがわしい翻訳物を出して世の物笑となって居る所に、去る15日の朝、當間氏から来て呉れとの手紙を受けて、早速いって見ると記者にするつもりであるが如何かとのことであった。自分は一人で決定が出来ないので、帰ってきて家兄と相談した後で承諾と云う意味の手紙を出した。所が文章一つ書けけない自分がどうして記者などになれる。家兄に聞くと君が平常使用している普通語で、君の思想感情を飾りなく、、偽りなくせんじつめて吐き出せ。形容詞も知らなければ知らないでいい。漢字も知らなければ知らなくてもいい。只だ耳障りにならないように書け、10年も書いたらいくらか物になるとのことである。自分は此教訓に遵って書くつもりである。
 新聞を起こして見ようということは誓閑寺時代から先輩諸氏が口ぐせのようにいっていたことであるが、10年後の今日この小理想は漸く実現せられて、自分までが編集室の一椅子を占めるようになった。さアこれから自分は、どういう方面に、どう働いたらよかろう?心配でたまらない。(をはり)
 ◇新宿区喜久井町61 亀鶴山易行院誓閑寺 深川靈嚴寺末
寛永七年靈岸嶋に起立、明暦大火後宗参寺領の内庚申塚に借地移轉。寛文六年七月喜久井町に移る。開山重蓮社本譽上人誓閑和尚、寛永二年五月十五日卒。舊境内借地二千百八十一坪、古跡年貢地済松寺領百三十三坪。境内に直径二尺六寸の大鐘があり、元和二年二月藤原兼長の作で、鐘銘に『荏原郡』と記入してあるので、史家の間に注意されたものである。書上に『境内小川あり、荏原郡と豊島郡との境なり、本堂のある方を荏原と云』とある。(「牛込區史」より)/夏目漱石は自宅すぐ近くの誓閑寺の鉦の音について、随筆「硝子戸の中」でふれている。今は近くに漱石山房記念館、草間彌生美術館。

1900年4月8日「東京・沖縄青年会ー平良保一君卒業記念」
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 〇伊江朝助、伊波普猷、伊波普成、當間重慎、渡久地政瑚、東恩納寛文ら後に沖縄の新聞界で活躍する面々が居並ぶ。ちなみに外間現徳は前列左端、この写真は沖縄県立図書館の東恩納洋資料にあるもの。この写真の時代背景は伊波普成が1909年3月19日『沖縄毎日新聞』に書いた入社の辞「誓閑寺時代の回顧」でよく分かる。私が最初にこの写真を紹介したのは1994年『沖縄タイムス』粟国恭子「末吉麦門冬」の8月8日。次いで1997年、那覇市文化局資料室の『おもろと沖縄学の父・伊波普猷ー没後50年』に収録した。





1924年12月15日ー『沖縄タイムス』「末吉安恭君を悼む」(2)
□伊波月城「麦門冬君を弔ふ」
おお死ー死の旅路よ
理知の為めに瞬間の静けく
我を愛し失はしむる死の接触よ。
自ら、うつろになれ 體を
解き焚かれ粉にされ又 葬らる。
されどわが眞の體は
疑いもなく他界に行く為我と共に残る。
うつろになれるなきがら。
用なきなきがらは大 のとご いの用 他の必要
の為に、聖化の為に大地に帰り行く
             ホイットマン

 12月11日長途の旅から帰って旅装を解く間も待たずして耳にした事は先ず麦門冬末吉君の死であった。その日僕は自働車上 ロイス博士の宗教哲学をひもときつつ人生問題を考えつつ沖縄の更生期の曙に際して自分達は如何して生きて行く可きかを切実に考究せざるを得なかったのに麦門冬君の訃音は実に大能の神が僕の為 述べられ給うた無言の説教としか思われなかったのだ。ああ君は死んだ。然し死は第二の出産である。いで僕も亦君と共に新たな更生しよう。
 麦門冬君が東京にいた頃、僕も又東京にいた。その時代飯田町のユニバーサリスト教会では自由神学の増野悦興師が土曜講演を開いて天下の思想家をここに招待して多くの新しい青年を此処ににひきつけていたのであるが此の会合に於いて僕は何時も麦門冬君の顔を見出さざるを得なかった。しかしお互いに口をきいた事はなかった。明治35年の頃君は故桃原君と共に小石川竹町の下宿に居住していて、僕も亦彼等と同じ下宿に住むようになった。其の時君は杉浦重剛先生の日本中学校に籍を置き、何処かの英語の塾にも通っていたが、学校には熱心の方ではなく、何時もすきな本を読んでいたようではあった。話をしたこともなければ勿論君の室に出入りした事もなかったので何ういう本を読んでいたかわからないが、新しい智識を求めていた事は確かであった。
 君と接近したのは僕が沖縄毎日新聞の論壇を根拠とした時、互いに共鳴し合うようになってからの事であった。其の後彼は僕と共に沖縄毎日新聞の一記者として活動した事もあった。君は郷土研究に指を染めるようになったのは、時代の要求の然らしむ所であって、語を換えて言へば、彼がジアナリストとして出産した時代は、所謂琉球文化のルネサンス時代 其の朝夕友とする所の者は、凡て新時代の使徒等であったことに起因すると僕は思惟するのだ。
 麦門冬君は人格の人であった。あらゆる方面に於いてあっさりしている。殊に性欲の問題などに関しては少しも悩みなどというものを知らないようであった。この点に関して彼は解脱していた。未だ春秋に富める身を持ちつつ突然として他界の人となった事は惜しむ可きである。然し彼の死が永遠に終わりであるとは僕には信じられない。