□先ず歌によって彼の性格を想像すると面白い熱烈奔刹那的心熱主義の若い美しい女で彼はあったらしい。気の荒い大胆な粗大朴茂の元始的美人を想像すればやがて彼であらう。恩納の山間に育って山姫の如く天真にして露骨なざっくばらんな豪放な女であったらしく彼は思われる。人為的束縛習慣的桎桔に身を煩はれない自由なる自然児として鳥の如く歌い獣の如く眺ぬ廻る境界に彼は仲間と共にあった。そして其仲間中の代表者として彼は随分権力を振るったであろう。彼は仲間の男女間に尊信と畏怖とを有たれていたであろう。それは紫式部や清少納言が平安時代の宮廷の男女間に尊信と畏怖を維持していた彼らの勢力と同じ勢力であったらう、女じゃと軽蔑されるような世界にあんな偉い女は育たない。

□波の聲もとまれ風の聲もとまれ首里天加那志美御機拝ま ナミヌ クィン トゥマリ カジヌ クィン トゥマリ シュユイティンガナシ ミウンチ ヲゥガマ
の作のあるのも偶然ではない。波の聲も友達の聲の如く彼の耳には響く。それ程彼は自然と親しい、そのかわり又彼は首里天加那を尊崇することの深き忠誠の念に富んだやさしい無邪気な女性でもあったけでども彼の勝気な性質は時に反抗的精神を注溢せしめて
□恩納松下に禁止の牌の建ちゅす戀ひ忍ぶまでの禁止やないさめ ウンナ マツィシタニ チジヌ フェヌ タチュスィ クイシヌブ マディヌ チジヤ ネサミ
などと云って時の内務省を嘲奔したりした。丁度与謝野晶子が文藝取締に就いて今の内務省の処置に不平して妙な歌を作ったのと同じ格である。

□僕は岩野泡鳴氏①の「半獣主義」の中に紹介してあるエマーソン②の自然論を瞥見して或る暗示を与えられた其れにこんな事が云ってある「天才が一たび高尚な情操を潜って叫び出せば山河も鳴動する草木も感泣するこういう力を得てから初めて人心を制服することも出来るまた慰籍することも出来る」云々と僕は恩納なべの名を以て伝誦さるる歌の一々にこの天才の高尚な情操より来る叫びを聞きこれらの歌に山河も鳴動せしめ本草も感泣せしめる底の力を感することが出来る

①岩野泡鳴 【いわの・ほうめい】
生年: 明治6.1.20 (1873) 没年: 大正9.5.9 (1920)
明治大正時代の詩人,作家。本名美衛。他の筆名に白滴子,阿波寺鳴門左衛門など。父直夫は阿波藩蜂須賀家の江戸詰めの直参岩野家の婿養子。母はサト。淡路島の洲本生まれ。洲本小学校,私塾を経て,明治20(1887)年大阪の泰西学館に入学。伝道師にならんとして洗礼を受けるが,21年に父と共に上京し,明治学院に入学。22年専修学校(専修大学)入学,24年には押川方義を頼って仙台神学校(東北学院)に赴き,同校教師になろうとしたが,試験の結果1年に編入させられ,26年まで在籍。27年に帰京,「魂迷月中刃」を発表するがあまり反響はなく,28年竹腰こうと結婚。31年肺結核にかかり,療養をかねて32年に滋賀県大津市に移る。英語教師をしつつ,34年詩集『露じも』を自費出版。35年東京に戻り『明星』に参加して創作活動を展開,36年には『明星』を出て相馬御風らと東京純文社を興して『白百合』を創刊。詩人として活躍するが,39年から小説に主力を注ぎ,「耽溺」(1909)で自然主義作家としての地歩を確立。しかし40年の父の没後,下宿屋を継いでから私生活に問題がおこり,42年樺太で蟹缶詰事業を始め失敗。その後,青踏社の遠藤清子との同棲,再婚,さらに青踏社の蒲原英枝との同棲,2度目の再婚などで世間の注目をあびる。<著作>『復刻版泡鳴全集』全18巻<参考文献>舟橋聖一『岩野泡鳴伝』,伴悦『岩野泡鳴―「五部作」の世界』 (コトバンク)

②ラルフ・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson、1803年5月25日 - 1882年4月27日)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。無教会主義の先導者。ラルフ・ウォルド・エマーソン、ラルフ・ウォルドー・エマーソン、ラルフ・ワルド・エマソン、とも呼ばれる。 英語では、エマーソンのエにアクセントがあり、エマソン、またはエマスンに近くなる。アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。 18歳でハーバード大学を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。 その後ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、牧師になる。 自由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個人主義を唱え、アメリカの文化の独自性を主張した。(ウィキペディア)








1991年8月2日『沖縄タイムス』「魚眼レンズー探し当てた小波の来県時期(新城栄徳)」