1951年2月 雑誌『おきなわ』遠山寛賢(1888年~1966年)「琉洋両楽の発展史」
遠山寛賢(1888年~1966年)は、旧姓を親泊といい、1888年(明治21年)、沖縄県首里市に生まれた。幼少の頃から、板良敷某、糸洲安恒、東恩納寛量らに師事した。それぞれ、どの時期に師事したかは不明であるが、糸洲に師事したのは、遠山が沖縄県師範学校へ入学(1906年)してからであると考えられる。当時の師範学校の唐手師範は糸洲安恒、師範代は屋部憲通が務めていた。在校中の1908年(明治41年)から3年間、遠山は糸洲、屋部の助手を務めた。1911年(明治44年)、師範学校を卒業した。遠山は、徳田安文、真喜屋某らとともに、俗に「糸洲安恒の三羽烏」と呼ばれた。遠山は、ほかに大城某から棒術、釵術を、初代首里区長を務めた知花朝章(知花朝信の本家叔父)から「知花公相君」の型を教わった。1924年(大正13年)には台湾へ渡り、台北の陳仏済、台中の林献堂から中国拳法を学んだ。(→ウィキペディア)
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1956年4月 遠山寛賢『空手道』鶴書房
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1962年6月 沖縄興信所『琉球紳士録』


1960年1月『オキナワグラフ』

沖縄空手の首里手系の流派、小林流をつくった知花朝信氏(1885~1969年)の没後50周年を記念した「小林流開祖拳聖知花朝信顕彰碑」の除幕式が29日、那覇市首里山川町公民館であった。沖縄小林流空手道協会の宮城驍(たけし)会長をはじめ、門弟代表の上原耕作錬士六段ら国内外約80人が新たな空手の聖地誕生を祝った。
 知花朝信は1918年ごろ道場を開設。33年に小林流を命名したとされ、戦後一時期、山川公民館を道場としていたという。宮城会長は「山川公民館は小林流の発祥地。知花先生が指導した門弟らが国内外で活躍している。その功績をたたえたい」と喜んだ。式では知花氏の門下生らが「松村のパッサイ」「クーサンクー大」など伝統の型を演武。山川町自治会の島袋正則会長は「山川町に新たな名所ができた」と歓迎した。→沖縄タイムス2018-7-30
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洲安恒の墓。正面右手に「糸洲安恒先生顕彰碑」が建つ

糸洲安恒の墓。正面右手に「糸洲安恒先生顕彰碑」が建つ


松村宗棍も眠る武氏墓


 花城家(花城長茂)の墓、その造りは、内部にアーチ型の石室を有する亀甲型の墓であり、琉球の文化を今に伝える貴重な建造物あった。道元年間より以前(西暦千七百九十年・西暦千八百年頃)琉球王より拝領し、以来第二次世界大戦の中で最も激しい地上戦が行われた真嘉比に存していたにも拘わらず、破壊されることなく二百年余の年月を経過し現在(平成十四年五月)に至ったものである。しかし、真嘉比古島地区に区画整理事業計画が策定され、花城家の墓も其の取り壊しを那覇市から求められた。
 那覇市からの取り壊しの要求に対し、由緒ある花城家の墓を残すよう十年余に渡り交渉を続けたが入れられず、平成十四年四月に其の取り壊しに同意し、此処に新たな墓を建立した。花城家の墓には、初代真和志村村長であり、明治三十八年に初めて空手の文字を世に顕し、現在の「空手」の隆盛の基礎を築いた、花城のバッサイの創案者、拳聖と称された花城長茂(西暦千八百六十九年ー西暦千九百四十五年)の遺骨も納められている。            平成十四年五月一日記            花城長允


フランスの空手人と新城三郎




1960年1月『オキナワグラフ』1960年1月『オキナワグラフ』「ジンバリストをめざしてー帰朝した鳩山寛氏」

2014年6月2日『琉球新報』

2012年10月3日ー沖縄県産本フェア特別イベント「沖縄空手ー過去から未来へ」リウボウホール


写真左から新城栄徳、盧姜威氏、武石和実氏、ミゲール・ダルース氏

船越義珍旧蔵資料

12:00~13:00 映写(船越義珍)
13:00~16:00 トークショー(宮城篤正/嘉手苅徹/盧姜威/ミゲール・ダルース)
16:00~       空手本の電子書籍・動画による型演武

特別展示ー船越義珍旧蔵・空手武具・書道具ら

琉球弧に関わる文人肉筆展
肉筆原稿ー濱谷浩(写真家)/中野好夫/島尾敏雄・ミホ/本田安次/きだみのる/石野径一郎/伊波南哲/柳田國男/柳宗悦/大浜信泉
ハガキ・書簡類ー伊波普猷/山之口貘/昇曙夢/馬渕東一/柳宗悦/島尾敏雄/一色次郎/バジル・ホール
色紙・短冊ー山之口貘/津軽照子/井伊文子/中野重治/島尾敏雄/大城立裕/刈干あがた/寒川哲人/胡桃沢耕史/古波蔵保好/尾崎三良/瀬長亀次郎/鎌倉芳太郎/石川文洋