島袋百恵・画「仲吉良光」

1912年ー大隈重信を囲む早稲田大学沖縄県人会

中央の大隈重信の左が仲吉良光、右二人目が尚秀。その後ろが新崎盛珍


1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「嘉手川重利」


前列右から池宮城積宝、山口全恭、渡久地政憑、野村安茂 後列右から末吉麦門冬、嘉手川重利、当真嗣合、屋嘉宗恭、仲吉良光

仲吉良光 なかよし-りょうこう
1887-1974 大正-昭和時代のジャーナリスト,政治家。
明治20年5月23日生まれ。大正4年創刊の「沖縄朝日新聞」編集長。アメリカでの邦字紙記者などをへて,昭和15年首里市長となる。戦後,沖縄諸島日本復帰期成会を結成,「沖縄復帰の父」といわれた。昭和49年3月1日死去。86歳。沖縄県出身。早大卒。著作に「沖縄祖国復帰運動記」など。→コトバンク


那覇市識名にある仲吉家の墓2015-9-21
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「仲吉良光関係文書」那覇市歴史博物館所蔵

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1971年4月29日『沖縄タイムス』仲吉良光「組踊恩河本は小禄御殿本なり」




1914年11月には嘉手川重利、山城正忠、仲吉良光、末吉麦門冬と『五人』を創刊。写真左からー仲吉良光、末吉麦門冬、嘉手川重利、山城正忠、山田有幹

1924年12月21日『沖縄タイムス』山田有幹「末吉安恭君を悼む(8)」
○雑文の大家ー麦門冬君を始めて知ったのは、僕が「沖縄新聞」と云う今は廃刊してなくなっている新聞の、記者を勤めていた頃だから、彼是20年も前のことであろう。ある夜今の青山書店で新着雑誌か何かを素見しての帰途、そこの角で、是も故人となった高江洲三念君かそれとも山城翠香君かに偶然に遭遇したと記憶する。その三念君か翠香君かであった人は、一人の無骨な色の黒い青年と一緒であった。その時、その三念君か、翠香君かに紹介されて知ったのが、麦門冬君を知った初めである。こんな小さな些細な事をどうして20年もたった今日迄、僕は記憶しているのか。考えてもわからない。当時既に麦門冬君が、学者として一部青年間に尊敬されていた為めか、それとも、当時の文学青年間に、憧憬の的となっていた「明星」といふ雑誌の同人として尊敬されていた弟の詩華君の令兄としての尊敬からか、何れにしても、僕は麦門冬君に紹介されたのを、一種の光栄と云ふ様な或る喜びを感じたからではなかろうかと、考えてみる。その前後の頃のこと「辞林」の編者として有名な、あの金澤博士が来県して各所で講演会を開いて博士を招聘した。各新聞には、博士の講演筆記が出ると云ふ騒ぎの最中、麦門冬君は「金澤博士に質す」といふ意味の原稿を「沖縄新聞」に投書して「辞林」のうちにある誤謬を指摘してあった。その原稿は佐々木といふ主筆のために、没書されて発表されなかったが、同君の好事家(といふ言葉は少しく妥当を失するが)的性格が、君をして歴史家たらしむると同時に、俳人たらしめ、歌人たらしめた。その性格は、又同時に、あれ丈けの精力を持ち合わせながら、歴史家としても詩歌人としても大成せしめず、遂に雑文家として大成せしめた一因ではなかろうかと考える。此の性格を脱出して、開発していったら、君の事業は更に一段の光輝を増したであろうが。


山田有幹(1888年1月20日~1975年10月11日)
那覇東町に生まれる。沖縄県立中学校卒業後、代用教員を経て、1912年6月に嘉手川重利、山城正忠と同人雑誌『アソビ』創刊。1914年11月には嘉手川重利、山城正忠、仲吉良光、末吉麦門冬と『五人』を創刊。1920年、『沖縄日日新聞』主筆。1921年、那覇市第一回市会議員選挙で当選。1926年3月、沖縄青年同盟を結成しその責任者となる。
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那覇市中央図書館にある「山田有幹文庫」