04/14: 新城栄徳「神坂次郎『南方熊楠の宇宙: 末吉安恭との交流』」
著者の三十年間にわたる博物学の巨人と称われた南方熊楠への取材と資料渉猟のなかで明らかにされた、沖縄の民俗学の異才、末吉安恭の存在。南方熊楠が強い興味を示し、また海の彼方から反骨の熊楠に熱い眼差しを向けていた末吉安恭その人の、知られざる人生に光をあてる。
神坂次郎の本(文庫本)
神坂次郎
2005年2月13日『琉球新報』新城栄徳(書評)ー神坂次郎『南方熊楠の宇宙』(四季社)/今や、世界遺産「熊野」の顔ともなった和歌山在住の作家・神坂次郎さんから特急便で本書が送られてきた。そして「啓、ずいぶん長い時間がかかりましたが、ようやく、ほんとうにようやく『安恭さんの本』が出来ました。まず最初の一冊を新城さんに献じます」の文もそえられ、かつ、感極まられたのか「待ち待ちし麦門冬の花咲きにけり/次郎(印)」と揮ごう社主催の講演で麦門冬・末吉安恭を紹介された。
出版した『南方熊楠の宇宙: 末吉安恭との交流』四季社と、熊楠直筆の手紙を持つ神坂さん
2010年7月 神坂次郎・福富太郎・河田明久・丹尾安典『画家たちの「戦争」』新潮社〇神坂次郎ー昭和元年(1926年)というのは七日間で終わっているから、昭和二年三月生まれの私などは、六十四年間の”昭和〟という日本史始まって以来の激動の地獄と、飽食の世をたっぷり味わってきたことになる。もともと昭和の年号は、中国最古の経典で、天下泰平を絵に描いたような尭・舜の治世を記した『書経』の尭典<百姓昭明・協和万邦>からきたのだというが、「何が万国協和か」と破顔(わら)ってしまう。
莫夢忌/『日本及日本人』誌上での末吉麦門冬と南方熊楠②
吹田市の吉田芳輝氏や飯倉照平氏から送られた『日本及日本人』の安恭資料
1918年6月 『日本及日本人』南方熊楠「右から左」/麥生「琉球の鬼餅」
1918年9月 『日本及日本人』麥生「琉球王子飴餅の詩」
1918年12月 『日本及日本人』麥生「東洋の死刑に弓矢を用ひし事」/「天蓋」
1920年3月 『日本及日本人』麥生「石蒜の歌」/「酒迎」
1920年11月 『日本及日本人』南方熊楠「大本といふ神號」/麥生「薩人の虐殺」〇雪嶺先生の著「大塊一塵」の中に露國人は我が薩摩人と其の性格類似の點があると云はれた。私も其の卓見に当時敬服」した一人である。尼港事件で露人の残虐性を知った私は薩人にも又似たやうな残虐性をその過去の歴史から発見した。薩摩人には少々憚ることだが雪嶺先生も嘗て言はれたことだから参考の為めに引張出さう。それは慶長14年島津氏が琉球を討った時薩摩の兵が非戦闘員なる琉球の土民を虐殺したことである。その虐殺を試みた当人の書いたものだからこれ程慥かなことはあるまい。中山國幷大島徳之島永良部島喜界島責取日記と云ふににある。曰く「御手之士6人7島勢240人那覇之方へ御超被成候3月の事なれば老若男女麥畠の草取に集り居り候が此人々之風情を見て驚ふるひはなき麥畠の中に随居候を美濃守殿(樺山資高)より7島詰船頭之内願作へあの者引出し一々切捨可被仰付候に付皆引出し切捨申候。私刀は前方被ト候備前にて候が十二三人程切候得共少も痛不申候與申候」云々。薩摩バルチザンの得意想ふべきである。
1922年6月 『日本及日本人』麥生「大琉球國」
神坂次郎の本(文庫本)
神坂次郎
2005年2月13日『琉球新報』新城栄徳(書評)ー神坂次郎『南方熊楠の宇宙』(四季社)/今や、世界遺産「熊野」の顔ともなった和歌山在住の作家・神坂次郎さんから特急便で本書が送られてきた。そして「啓、ずいぶん長い時間がかかりましたが、ようやく、ほんとうにようやく『安恭さんの本』が出来ました。まず最初の一冊を新城さんに献じます」の文もそえられ、かつ、感極まられたのか「待ち待ちし麦門冬の花咲きにけり/次郎(印)」と揮ごう社主催の講演で麦門冬・末吉安恭を紹介された。
出版した『南方熊楠の宇宙: 末吉安恭との交流』四季社と、熊楠直筆の手紙を持つ神坂さん
2010年7月 神坂次郎・福富太郎・河田明久・丹尾安典『画家たちの「戦争」』新潮社〇神坂次郎ー昭和元年(1926年)というのは七日間で終わっているから、昭和二年三月生まれの私などは、六十四年間の”昭和〟という日本史始まって以来の激動の地獄と、飽食の世をたっぷり味わってきたことになる。もともと昭和の年号は、中国最古の経典で、天下泰平を絵に描いたような尭・舜の治世を記した『書経』の尭典<百姓昭明・協和万邦>からきたのだというが、「何が万国協和か」と破顔(わら)ってしまう。
莫夢忌/『日本及日本人』誌上での末吉麦門冬と南方熊楠②
吹田市の吉田芳輝氏や飯倉照平氏から送られた『日本及日本人』の安恭資料
1918年6月 『日本及日本人』南方熊楠「右から左」/麥生「琉球の鬼餅」
1918年9月 『日本及日本人』麥生「琉球王子飴餅の詩」
1918年12月 『日本及日本人』麥生「東洋の死刑に弓矢を用ひし事」/「天蓋」
1920年3月 『日本及日本人』麥生「石蒜の歌」/「酒迎」
1920年11月 『日本及日本人』南方熊楠「大本といふ神號」/麥生「薩人の虐殺」〇雪嶺先生の著「大塊一塵」の中に露國人は我が薩摩人と其の性格類似の點があると云はれた。私も其の卓見に当時敬服」した一人である。尼港事件で露人の残虐性を知った私は薩人にも又似たやうな残虐性をその過去の歴史から発見した。薩摩人には少々憚ることだが雪嶺先生も嘗て言はれたことだから参考の為めに引張出さう。それは慶長14年島津氏が琉球を討った時薩摩の兵が非戦闘員なる琉球の土民を虐殺したことである。その虐殺を試みた当人の書いたものだからこれ程慥かなことはあるまい。中山國幷大島徳之島永良部島喜界島責取日記と云ふににある。曰く「御手之士6人7島勢240人那覇之方へ御超被成候3月の事なれば老若男女麥畠の草取に集り居り候が此人々之風情を見て驚ふるひはなき麥畠の中に随居候を美濃守殿(樺山資高)より7島詰船頭之内願作へあの者引出し一々切捨可被仰付候に付皆引出し切捨申候。私刀は前方被ト候備前にて候が十二三人程切候得共少も痛不申候與申候」云々。薩摩バルチザンの得意想ふべきである。
1922年6月 『日本及日本人』麥生「大琉球國」