沖縄県立博物館・美術館エントランスホール 沖縄県立芸術大学琉球芸能専攻学生有志「新春の舞」




 野球(山田有登と石垣長夫)
 写真家の山田實さんの所で『沖縄県高校野球五十年史』(沖縄県高校学校野球連盟1972年5月)を見た。沖縄に「野球が伝わったのは」のところに1894年に沖縄中学の学生たちが京都に就学旅行したおり、京都三高の学生から野球の遊び方の説明」を受け、野球用具も土産にもちかえった話がある。また山田有登氏(山田實さんの父)がアメリカの水兵たちと野球をしたこと、昭和3年の二中の山田有勝(山田實さんの兄)左翼、国場幸輝三塁の名前も出て来る。→1995年6月ー『沖縄野球100年』琉球新報社
□1964年、沖縄で山田有登追悼会(日本基督教会・比嘉盛仁牧師)の香奠返しを、沖縄タイムス運動部長・国場幸輝を通じて沖縄社会人野球会に毎年打撃優秀賞に5万円贈った。10年間続いた。香奠は愛楽園にも贈られた。



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写真左ー米水兵と対戦した沖縄中学チーム。右端のバットを持っているのが山田有登選手/写真右ー石垣長夫氏(初枝夫人は末吉麦門冬の娘である)と新城栄徳

石垣 長夫(八重山野球の父)
本郡野球の父である石垣長夫氏は大正2年8月8日、石垣市新川287番地で産声を上げる。学生時代は大阪の浪速商業高校で野球部に籍を置き青春の全てを野球に注ぎ込んだ。その後社会人時代は台湾へと渡り昭和6年、台湾高雄州屏東税務署に就職、野球部で活躍し東京六大学の明治大学との対戦等を通して近代野球の基礎を八重山に持ち帰り、昭和8年八重山体育協会創立に参画。以来昭和63年享年76才で没するまで八重山野球界の普及、発展に務めた。昭和60年全日本軟式野球連盟より軟式野球の普及で表彰されるなど表彰歴は多数。没後、遺族が故人の遺志を継ぎ八重山野球連盟に大優勝旗を寄贈。野球競技の更なる発展と後継者育成を目的に石垣長夫旗争奪なる大会が催されている。





2001年10月ー沖縄県写真協会『おきなわ写真の歩み』□新城栄徳ー沖縄写真史散歩ー前に写真家・山田實さんから、父山田有登とその沖縄県立中学校同窓の山川文信、翁長助成、山城正好、宮里良貞、????宮城宗倫が写っている1907(明治40)年の識名園園遊会での写真①を見せてもらった。中のひとり????宮城宗倫の息子が????宮城昇である。他に1904年の同窓生は川平朝令、志喜屋孝信、比嘉徳、久高将旺が居る。昇は東京写真専門学校在学中の1927(昭和2)年に東京写真研究会主催の展覧会に応募、入選するなど意欲的に写真に取り組んだ。沖縄に帰り写真館・昇スタジオを那覇市上之蔵に開業。明視堂写真部と共催で写真展を開いたり、新聞に作品を発表したり、短編小説を<時計の宣告>と題し「今日は昨日の連続である。人生は瞬間の連続である。その瞬間をいかに朗らかに楽しむか」などを発表した。とにかくいろいろな表現を試み写真も芸術写真を志向したー。

①識名園遊会での写真

 1937年10月の『月刊琉球』の葉書回答に山田有登の返事がある。「子供たちの名をお尋ねですが、夫々生まれた土地とも関係します。長女は石川県金沢市で宿し三州田原町の生まれ、女は貞操が第一と貞子、長男は三河武士家内の里が勝の通り名ゆえ有勝。次女は兵庫県鳴尾生まれ信子、次男も鳴尾(現・西宮市鳴尾町)で10月生まれ宅の前が一面稲田が實っていたので實。


山田有勝は詩集『残照』で「我が家の明治大正期の古い本は既に色あせ 古い辞書の皮革はボロボロとなる/岩本修蔵さんのロイドメガネ イナガキタルホさんの鼻メガネ」と足穂が出てくる。また過ぎた日と題し「六十三年前の思い出 阪神電車の鳴尾駅を降りて 右へつきあたり 左へ折れて 一町先の左側 白壁の四軒長屋 その端のガチョウが二羽いた家」が山田實さんの出生地である。

□阪神甲子園駅と鳴尾駅のほぼ中間に西宮図書館鳴尾図書館がある。電話:0798-45-5003