雑誌『おきなわ』第2号に「ハガキ回答ー出郷の日」に宮城聡と共にレッドパージ①直前の松本三益の回答がある「1、大正10年4月頃/1、多分大球丸/1、出稼のため/1、とにかく勉強したい/失業少年」。

雑誌『おきなわ』第3号には松本の親族の真栄田勝朗「琉球芝居の思い出(中座の巻)」が載っている。私は註に「著に『琉球芝居物語』(青磁社、1981)。戦前、大阪で『大阪球陽新報』発行、伊波冬子は妹」と記した。

①レッドパージ(red purge)ー1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日に徳田球一ほか日本共産党中央委員24人、及び機関紙「アカハタ」幹部といわれた人物を公職追放、アカハタを停刊処分にした。同年7月には9人の共産党幹部について団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出た(逮捕状が出た9人の共産党幹部は地下潜行し、一部は中国に亡命した)。こうした流れのなかで、7月以降はGHQの勧告及び、9月の日本政府の閣議決定により、報道機関や官公庁や教育機関や大企業などでも共産系の追放(退職)が行われていった(なお、銀行業界では共産系の追放が最小限度に留まった例や、大学では共産系の追放が殆ど行われなかった例もあった)。

当時の日本共産党は1月のコミンフォルム批判(平和革命論を否定)により、徳田を中心とする「所感派」と宮本顕治を中心とする「国際派」に分裂した状態だったこともあり、組織的な抵抗もほとんどみられなかった。この間の6月25日には朝鮮戦争が勃発し、「共産主義の脅威」が公然と語られるようになった。→ウィキペディア


1954年4月 雑誌『おきなわ』表紙写真(谷茶前の平良リエ子さん)

2015年4月13日、ジュンク堂に行くと宮﨑義敬『繚乱の人』展望社が3、4冊あった。「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した美」の基礎資料の一つだ。


石野径一郎『ひめゆり部隊』より上は乙姫劇団。下4枚が平良リエ子さん







2015年3月15日午後2時 沖縄県立芸術大学「戦後沖縄のはじまりのトライアングル・コンタクト」