04/22: アメリカ軍統治下の「オキナワ」1950年
1950年1月1日『沖縄タイムス』「シーツ長官年頭の辞ー繁栄と平和」「終戦直後約32万といわれ、49年末までの4ヵ年に約24万の驚くべき増加」
1950年1月1日『沖縄タイムス』「日米防衛同盟協議かー講和締結後・考慮される在日兵力の沖縄移動」
1950年1月7日『沖縄タイムス』仲宗根源和「軍政下の政党活動(1)」
1950年1月11日『沖縄タイムス』「シ長官政党代表会見内容詳報(1)軍の施策を充分に理解せよ」
1950年1月11日『うるま新報』「政党との会談内容(1)ーシーツ少将」
1950年1月12日『うるま新報』「政党との会談内容(2)ーシーツ少将」
1950年1月13日『うるま新報』「政党との会談内容(3)ーシーツ少将」
1950年1月14日『うるま新報』「シーツ長官 農民に告ぐ 肥料の大幅値下げ・卸値発表さる」、せきほう「心音ー風雨やみ」』「政党との会談内容(4)ーシーツ少将」
1950年1月15日『うるま新報』「政党との会談内容5)ーシーツ少将」「原子力軍艦数年内に実現か」
1950年1月17日『うるま新報』大宜味朝徳「沖縄と観光施設(1)」
1950年1月18日『うるま新報』「シーツ長官談/住民よ元気出せ、待望の食糧値下げ実現!」
1950年1月19日『うるま新報』大宜味朝徳「沖縄と観光施設(2)」「シ政策はこうして生まれる」
1950年1月20日午後2時 安里・沖縄劇場で沖縄興行連盟主催/沖縄タイムス後援「シーツ長官に贈る興連芸能大会」
1950年1月21日『沖縄タイムス』「水素爆弾ートルーマン大統領製造に同意か」「沖縄反共同盟設立準備会(島袋紀成)ー反共宣言」
1950年1月21日『うるま新報』「今度は商業面の本格的復興へ=シ政策・矢つぎ早に朗報=写真「シーツ軍政長官」
1950年1月22日『沖縄タイムス』「シ長官ステージより・住民へ・・皆の力でよい島に、自立を助けるのが私の使命」
1950年1月25日『沖縄タイムス』「亡夫の遺志つぎ大海にいどむ沖縄女性・照屋敏子」
1950年1月25日『うるま新報』「水素爆弾 ソ連も作るか」
1950年1月27日『沖縄タイムス』「全島の名所案内、ハワイの『お客』を迎える観光コース案決る」
1950年1月28日『沖縄タイムス』「盛り場を荒らすチンピラ組/全島各地で百余名も」
1950年2月1日『うるま新報』「シ長官、市町村長代表と初会見ー農は国の本」
1950年2月1日『沖縄タイムス』「シ長官・村長代表へ語るー篤農家育て新しい農法をひろめよ」
写真左がシーツ軍政長官、志喜屋孝信
写真左から2人目がシーツ軍政長官
1950年2月8日『うるま新報』「嘉手納さん母娘へーシ長官から伝達 愛情こもるケア小包授与式」
1950年2月9日『うるま新報』「シーツ長官談話ー那覇旧市内その他開放」
2月12日『琉球日報』第一号
1950年2月19日『うるま新報』「シ長官が奮起を要望『海運こそ全琉復興の基礎』」
1950年2月21日『沖縄タイムス』「ハワイの郷土訪問、シ長官も自ら乗り出す。二世会の厚生園慰問、シ長官も踊る」
1950年2月23日『沖縄タイムス』「米、ブルガリアと断交、外交官を引揚げる。ハンガリーとも断絶」
1950年3月5日午後1時 中城公園開き、シーツさんが感慨の挨拶、5年前の暗い丘に今訪れる復興のあけぼの」
1950年3月14日『うるま新報』「ハワイ訪問団第一陣きのう上陸/シーツ長官挨拶『意義深き訪問』」
1950年3月19日『うるま新報』「いすゞバス5台、消防車6台引渡式、シ長官から知事へ」
1950年3月21日『うるま新報』「沖縄の軍工事 第一期建設を指令」「沖縄基地(1)ー港湾改修、兵舎建築など」
1950年3月22日『うるま新報』「沖縄基地(下)ー工事の早期着手は重要」
1950年4月1日『うるま新報』「ハワイ訪問団、姫百合塔に感無量ー死を賛美する教育追放せねばならぬ」
1950年4月13日『うるま新報』「シーツ長官、待望の為替比率を改定 B円120対1弗」
1950年4月14日『うるま新報』「那覇都計案、シーツ長官も承認」「読谷高校独立」
1950年4月18日『うるま新報』「アニーパイル慰霊祭、きよう伊江島で」
1950年4月20日『うるま新報』「所有権の認定布告きのう発布式、軍政府からシーツ長官、ハインズ副長官らが列席」
1950年4月28日『沖縄タイムス』「AP記者トム・ラムバート『シーツ治下の沖縄(1)』」
1950年4月29日『うるま新報』「AP記者の眼に映じた沖縄ーシーツ少将の下に復興進捗」
1950年5月3日『沖縄タイムス』「原子力時代、米海軍近代化」「米琉親善日、三ヶ所で式典挙行」」
1950年5月6日『沖縄タイムス』「本社座安専務マ元帥と会見ーシ政策に協力せよ」
1950年5月11日『うるま新報』「援助を惜しまない胡差の商店街(ビジネスセンター)シ長官が城間村長を激励」
1950年5月12日『うるま新報』「シ長官が説く 琉球経済の復興に鍵を握るは農民だ」
1950年5月16日『うるま新報』「琉球文化研究会、ゆうどれ陵調査」
1950年5月20日『沖縄タイムス』「わが生涯最良の日、中城公園内記念碑除幕式に参列するシーツ長官」『鉄の暴風』ちかく朝日社より出版」
1950年5月26日『沖縄タイムス』「きよう初の米琉親善日ーシーツ少将挨拶『相互の友愛と理解で築く復興の礎』」
1950年5月26日『うるま新報』「きよう意義深き米琉親善日ー相互に深き理解こそ琉球復興への道!シーツ長官住民へ協力要望」
1950年6月7日『うるま新報』「徳田氏等中央委員24名マ元帥の指令に基づき政治活動一切を禁止」
1950年6月23日『うるま新報』「ジョンソン国防長官、プラトレー統合参謀本部議長きのう沖縄を視察ー沖縄を難攻不落の要塞化、米軍は長期駐屯。一切の攻撃に堪える施設建設」
1950年6月23日『沖縄タイムス』「天久、上之屋一帯軍用地で立退き」
1950年6月27日『沖縄タイムス』「北鮮、南鮮に宣戦布告、三八度線を越境し全線に亘って進撃」
1950年6月29日『沖縄タイムス』「米軍遂に出動ー空・海軍韓国を支援」
1950年6月30日『沖縄タイムス』「マ元帥韓国前線へ」
1950年7月1日『うるま新報』「マ元帥遂に三八度線以北の北鮮基地攻撃命令を発す」「アーモンド総司令部参謀長声明/平壤に爆弾の雨」
1950年7月4日『沖縄タイムス』「シ長官ー琉球は平常な状態=不当な憂慮に警告」
1950年7月28日『沖縄タイムス』「シーツ長官去るーマ指令に沿い親しく住民と復興へ」
1950年7月28日『うるま新報』「シ長官病気で離任、後任はマクローア少将」
1950年7月30日『うるま新報』「シーツ少将 新長官を讃う」 各団体代表者別れの辞」
1950年8月1日『うるま新報』屋宜憲三「戦後の沖縄経済に就いて(上)」「漢那憲和氏29日死去」、山里永吉「法隆寺と金閣寺」
1950年8月2日『うるま新報』南風原朝保「医療制度についてーアメリカの医療制度の紹介かねての感想」
1950年8月4日『うるま新報』「英国 原子計画進む」「水爆生産に着手」米原子委、デュポン会社と契約」
1950年8月25日 沖縄タイムス社『鉄の暴風』(装丁・末吉安久 挿絵・牧港篤三)朝日新聞社
1950年11月15日『沖縄新民報』「10月31日、首里市西森で沖縄美術連盟総会。沖縄美術家協会(屋部憲会長)沖縄美術連盟(山田眞山会長)の両団体を発展的に解消、新たに沖縄美術協会を結成した。」
アメリカ軍統治下の「オキナワ」1949年
1949年1月3日『うるま新報』「我が世の春謳う繁栄の徳元八一一家、曾孫邦子さんで52名」
1949年4月18日『うるま新報』「プロフィルー国場幸太郎」「心音ー春尚之介」
1949年4月24日『沖縄タイムス』「物故新聞人の追悼会」
1949年6月5日『沖縄タイムス』第56号から活字印刷
1949年7月3日『沖縄タイムス』「にぎわう沖展、入賞・大村徳恵氏」
1949年9月24日『沖縄タイムス』「中華人民共和国ー北京でも主席宣言」
1949年9月27日『沖縄タイムス』「ソ連で原子爆発ート米大統領特別声明/原子兵器独占は不可能だ」
1949年9月27日『うるま新報』「ソ連原爆を有す、ト大統領特別声明」「歓楽街ーあなたはどう思う」
1949年9月29日『沖縄タイムス』「姫百合塔がまきおこす西岡一義氏の排斥問題」
1949年10月4日『うるま新報』「翁長助成ー移民に就いて」
1949年10月11日『沖縄タイムス』「広島・長崎の原爆、沖縄基地を出発ー当時を語る搭乗員」
1949年10月14日『うるま新報』「シ長官、北谷の司令部で志喜屋知事と会談ー能う限り土地も解放」
1949年10月18日『沖縄タイムス』「ヘラルド紙発行許可」「松劇団ーしのべ!一高女の自決を!ああ!沖縄戦の最大悲劇!上間朝久作・千原繁子演出『戯曲・姫百合塔悲歌』全3幕」
1949年10月28日『うるま新報』石野径一郎「ひめゆりの塔(1)」
1949年11月11日『うるま新報』「沖縄住民の協力を得て復興計画を極力推進ーシーツ長官①初めて記者団と長時間会談」
①ジョセフ・ロバート・シーツ(Josef Robert Sheetz、1895年 - 1992年)1939年から1941年までアメリカ陸軍指揮幕僚大学で教鞭を取り、太平洋戦争が勃発した1941年、陸軍省副参謀長に転任した。1944年には陸軍准将・第二十四軍団砲兵指揮官となり、1945年には沖縄戦の戦場に赴き、この部隊を指揮した。
終戦後は韓国に転任したが、1949年10月、ウィリアム・イーグルスの後任として琉球軍司令官・琉球列島米国軍政府の軍政長官として沖縄に戻った。シーツは終戦後4年を経てなお経済・治安の混乱が続き、米軍の軍規も乱れていた沖縄において、経済復興、政治体制の確立、治安改善などの復興策に組織的に取り組んだ占領後初の軍政長官となった。具体的には那覇市街地の首都としての再建、琉球・奄美・宮古・群島民政府の設立とその知事・議員の公選、米軍部隊の再編成と待遇改善・綱紀粛正などを行い、その施政は当時の沖縄住民によって「シーツ善政」と称えられた。
こうした占領政策の転換は、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争勃発直前の緊迫した国際情勢を反映し、アメリカにとって沖縄の軍事基地としての戦略的重要性が高まり、単なる軍事占領から恒久的な統治へと方針が変わってきたために行われたものである。(略)しかし翌1950年末、シーツは病を得て退役することとなり、「善政」は一年余りで幕を閉じた。その後は朝鮮戦争の膠着化や東西冷戦の深刻化などを背景に、沖縄を除く本土のみを独立させるサンフランシスコ講和条約の調印、主席任命制が復活する琉球政府への再改組、アメリカ軍による強制的な土地収用など、島民の希望を裏切る出来事が続き、沖縄における反米感情は再び高まる運命にあった。→Wikipedia
1949年11月12日『うるま新報』「シ長官の施策発表は市況にどう響いたか!住民は笑顔・業者は静観」
1949年11月13日『うるま新報』「売れ行きはどうかーシーツ長官再び売店視察」「にせ軍票現る」
1949年11月15日『うるま新報』「食糧増配・物価値下ーシ長官に感謝」
1949年11月20日『うるま新報』「シ長官に贈る感謝の花束」
1949年11月22日『うるま新報』「シ長官、きのう警察関係を視察ー取締陣を激励」
1949年11月24日『うるま新報』「山城正忠氏、知念病院に入院中22日永眠、享年65才」
1949年11月27日『うるま新報』「米軍のスローガン『太平洋の庭園沖縄』
1949年12月2日『うるま新報』「シ長官民政府を初巡視ー那覇をビジネスセンターに 都市計画で軍も委員任命」「シ長官再び知事と会談”忘れられた島”沖縄の復興に世論を喚起」「米陸軍参謀総長談ー猛獣的日本軍、再建する計画はない」
1949年12月3日『うるま新報』タイム誌記者の見た占領下四年後の沖縄□(略)その軍紀は世界中の他の米駐屯軍のどれよりもわるく、その1万5千の沖縄駐屯米軍部隊が絶望的貧困の中に暮らしている60万の住民を統治して来た。この夏のグロリア台風が沖縄をおそって甚大な被害を与えた時、陸軍ではついにその状況を調査した。琉球司令部は改組され、朝鮮の軍隊で立派な仕事をした明朗で精力家のジョセフ・Rシーツ少将がイーグルス准将に代った。更に、空軍司令官も細心で物静かなキンカイド少将に代ったが、司令官が変わってから沖縄駐屯米軍の志気は大いに是正された。(略)沖縄は米国陸軍の才能のない者や除者の態のよい掃きだめになっていた。去る9月に終わる過去6ヶ月間に米軍兵士は殺人29、強姦18、強盗16、殺傷33というおどろくべき数の犯罪を犯した。シーツ准将は直ちに志気高揚の講座を設置して「諸君は米国政府の無任所外交使節である」と将士にきびしく訓諭した。沖縄人はその苦しい生活を闘牛の如き簡単な娯楽でまぎらわす暢気な国民である。彼等は米国人が好きで、沖縄が米国の属領になることをはっきりと望んでいる。沖縄人は60年以上の長い間沖縄人を田舎者としてべつ視した日本軍や日本商人によって搾取されていた。米軍が上陸して来て沖縄人に食糧と仮小屋を与えた時、彼等は驚き且つ喜んだ。(略)シーツ少将は米国は沖縄に対して作戦上の関心よりも一層多くの関心をもっていると信じており「それはキリスト教国民の他国民に対する道義的責任である」といった。
1949年12月6日『うるま新報』「シ長官夫妻、孤児達を激励、早く大きくなって沖縄のため働くんですね」
1949年12月8日『うるま新報』「サンタクローズの爺さんはシ長官とシャーマン副長官」「開校迫る琉球大学」
12月12日『沖縄ヘラルド』第一号
□2005年4月 山川文康『走即人生』「11月22日から一ヶ月間くらい(社長が出張から帰られるまで)沖縄ヘラルドの記者として手伝うことになった。ヘラルド社は社長・西銘順治、専務・玉城勝信、営業部長・当銘茂夫、編集局長・比嘉憲蔵、大城毅も役員で事務所は国際通り沿いの大城組の建物(トタン屋)を借用していた。みんな当銘君と二中の同期生とのことだが、私は誰も知らなかった。私は暇だったので手伝う事にしたが、記者は誰々かと聞いたら我々二人だけだという。・・・」
1949年12月15日『うるま新報』「シーツ軍政長官、當間重民那覇市長と懇談」「泊、前島の開放は1年半か2年後に」
1949年12月24日『うるま新報』「ワシントンポスト紙 記者の視察記ーアメリカは極東の重要基地として沖縄を確保しようとしている。米国の共産主義防衛の第一線に」
1949年12月30日『うるま新報』「シーツ長官、こども版愛読者代表と会見」
1949年12月31日『うるま新報』「シーツ長官、政党代表と会見」
1950年1月1日『沖縄タイムス』「日米防衛同盟協議かー講和締結後・考慮される在日兵力の沖縄移動」
1950年1月7日『沖縄タイムス』仲宗根源和「軍政下の政党活動(1)」
1950年1月11日『沖縄タイムス』「シ長官政党代表会見内容詳報(1)軍の施策を充分に理解せよ」
1950年1月11日『うるま新報』「政党との会談内容(1)ーシーツ少将」
1950年1月12日『うるま新報』「政党との会談内容(2)ーシーツ少将」
1950年1月13日『うるま新報』「政党との会談内容(3)ーシーツ少将」
1950年1月14日『うるま新報』「シーツ長官 農民に告ぐ 肥料の大幅値下げ・卸値発表さる」、せきほう「心音ー風雨やみ」』「政党との会談内容(4)ーシーツ少将」
1950年1月15日『うるま新報』「政党との会談内容5)ーシーツ少将」「原子力軍艦数年内に実現か」
1950年1月17日『うるま新報』大宜味朝徳「沖縄と観光施設(1)」
1950年1月18日『うるま新報』「シーツ長官談/住民よ元気出せ、待望の食糧値下げ実現!」
1950年1月19日『うるま新報』大宜味朝徳「沖縄と観光施設(2)」「シ政策はこうして生まれる」
1950年1月20日午後2時 安里・沖縄劇場で沖縄興行連盟主催/沖縄タイムス後援「シーツ長官に贈る興連芸能大会」
1950年1月21日『沖縄タイムス』「水素爆弾ートルーマン大統領製造に同意か」「沖縄反共同盟設立準備会(島袋紀成)ー反共宣言」
1950年1月21日『うるま新報』「今度は商業面の本格的復興へ=シ政策・矢つぎ早に朗報=写真「シーツ軍政長官」
1950年1月22日『沖縄タイムス』「シ長官ステージより・住民へ・・皆の力でよい島に、自立を助けるのが私の使命」
1950年1月25日『沖縄タイムス』「亡夫の遺志つぎ大海にいどむ沖縄女性・照屋敏子」
1950年1月25日『うるま新報』「水素爆弾 ソ連も作るか」
1950年1月27日『沖縄タイムス』「全島の名所案内、ハワイの『お客』を迎える観光コース案決る」
1950年1月28日『沖縄タイムス』「盛り場を荒らすチンピラ組/全島各地で百余名も」
1950年2月1日『うるま新報』「シ長官、市町村長代表と初会見ー農は国の本」
1950年2月1日『沖縄タイムス』「シ長官・村長代表へ語るー篤農家育て新しい農法をひろめよ」
写真左がシーツ軍政長官、志喜屋孝信
写真左から2人目がシーツ軍政長官
1950年2月8日『うるま新報』「嘉手納さん母娘へーシ長官から伝達 愛情こもるケア小包授与式」
1950年2月9日『うるま新報』「シーツ長官談話ー那覇旧市内その他開放」
2月12日『琉球日報』第一号
1950年2月19日『うるま新報』「シ長官が奮起を要望『海運こそ全琉復興の基礎』」
1950年2月21日『沖縄タイムス』「ハワイの郷土訪問、シ長官も自ら乗り出す。二世会の厚生園慰問、シ長官も踊る」
1950年2月23日『沖縄タイムス』「米、ブルガリアと断交、外交官を引揚げる。ハンガリーとも断絶」
1950年3月5日午後1時 中城公園開き、シーツさんが感慨の挨拶、5年前の暗い丘に今訪れる復興のあけぼの」
1950年3月14日『うるま新報』「ハワイ訪問団第一陣きのう上陸/シーツ長官挨拶『意義深き訪問』」
1950年3月19日『うるま新報』「いすゞバス5台、消防車6台引渡式、シ長官から知事へ」
1950年3月21日『うるま新報』「沖縄の軍工事 第一期建設を指令」「沖縄基地(1)ー港湾改修、兵舎建築など」
1950年3月22日『うるま新報』「沖縄基地(下)ー工事の早期着手は重要」
1950年4月1日『うるま新報』「ハワイ訪問団、姫百合塔に感無量ー死を賛美する教育追放せねばならぬ」
1950年4月13日『うるま新報』「シーツ長官、待望の為替比率を改定 B円120対1弗」
1950年4月14日『うるま新報』「那覇都計案、シーツ長官も承認」「読谷高校独立」
1950年4月18日『うるま新報』「アニーパイル慰霊祭、きよう伊江島で」
1950年4月20日『うるま新報』「所有権の認定布告きのう発布式、軍政府からシーツ長官、ハインズ副長官らが列席」
1950年4月28日『沖縄タイムス』「AP記者トム・ラムバート『シーツ治下の沖縄(1)』」
1950年4月29日『うるま新報』「AP記者の眼に映じた沖縄ーシーツ少将の下に復興進捗」
1950年5月3日『沖縄タイムス』「原子力時代、米海軍近代化」「米琉親善日、三ヶ所で式典挙行」」
1950年5月6日『沖縄タイムス』「本社座安専務マ元帥と会見ーシ政策に協力せよ」
1950年5月11日『うるま新報』「援助を惜しまない胡差の商店街(ビジネスセンター)シ長官が城間村長を激励」
1950年5月12日『うるま新報』「シ長官が説く 琉球経済の復興に鍵を握るは農民だ」
1950年5月16日『うるま新報』「琉球文化研究会、ゆうどれ陵調査」
1950年5月20日『沖縄タイムス』「わが生涯最良の日、中城公園内記念碑除幕式に参列するシーツ長官」『鉄の暴風』ちかく朝日社より出版」
1950年5月26日『沖縄タイムス』「きよう初の米琉親善日ーシーツ少将挨拶『相互の友愛と理解で築く復興の礎』」
1950年5月26日『うるま新報』「きよう意義深き米琉親善日ー相互に深き理解こそ琉球復興への道!シーツ長官住民へ協力要望」
1950年6月7日『うるま新報』「徳田氏等中央委員24名マ元帥の指令に基づき政治活動一切を禁止」
1950年6月23日『うるま新報』「ジョンソン国防長官、プラトレー統合参謀本部議長きのう沖縄を視察ー沖縄を難攻不落の要塞化、米軍は長期駐屯。一切の攻撃に堪える施設建設」
1950年6月23日『沖縄タイムス』「天久、上之屋一帯軍用地で立退き」
1950年6月27日『沖縄タイムス』「北鮮、南鮮に宣戦布告、三八度線を越境し全線に亘って進撃」
1950年6月29日『沖縄タイムス』「米軍遂に出動ー空・海軍韓国を支援」
1950年6月30日『沖縄タイムス』「マ元帥韓国前線へ」
1950年7月1日『うるま新報』「マ元帥遂に三八度線以北の北鮮基地攻撃命令を発す」「アーモンド総司令部参謀長声明/平壤に爆弾の雨」
1950年7月4日『沖縄タイムス』「シ長官ー琉球は平常な状態=不当な憂慮に警告」
1950年7月28日『沖縄タイムス』「シーツ長官去るーマ指令に沿い親しく住民と復興へ」
1950年7月28日『うるま新報』「シ長官病気で離任、後任はマクローア少将」
1950年7月30日『うるま新報』「シーツ少将 新長官を讃う」 各団体代表者別れの辞」
1950年8月1日『うるま新報』屋宜憲三「戦後の沖縄経済に就いて(上)」「漢那憲和氏29日死去」、山里永吉「法隆寺と金閣寺」
1950年8月2日『うるま新報』南風原朝保「医療制度についてーアメリカの医療制度の紹介かねての感想」
1950年8月4日『うるま新報』「英国 原子計画進む」「水爆生産に着手」米原子委、デュポン会社と契約」
1950年8月25日 沖縄タイムス社『鉄の暴風』(装丁・末吉安久 挿絵・牧港篤三)朝日新聞社
1950年11月15日『沖縄新民報』「10月31日、首里市西森で沖縄美術連盟総会。沖縄美術家協会(屋部憲会長)沖縄美術連盟(山田眞山会長)の両団体を発展的に解消、新たに沖縄美術協会を結成した。」
アメリカ軍統治下の「オキナワ」1949年
1949年1月3日『うるま新報』「我が世の春謳う繁栄の徳元八一一家、曾孫邦子さんで52名」
1949年4月18日『うるま新報』「プロフィルー国場幸太郎」「心音ー春尚之介」
1949年4月24日『沖縄タイムス』「物故新聞人の追悼会」
1949年6月5日『沖縄タイムス』第56号から活字印刷
1949年7月3日『沖縄タイムス』「にぎわう沖展、入賞・大村徳恵氏」
1949年9月24日『沖縄タイムス』「中華人民共和国ー北京でも主席宣言」
1949年9月27日『沖縄タイムス』「ソ連で原子爆発ート米大統領特別声明/原子兵器独占は不可能だ」
1949年9月27日『うるま新報』「ソ連原爆を有す、ト大統領特別声明」「歓楽街ーあなたはどう思う」
1949年9月29日『沖縄タイムス』「姫百合塔がまきおこす西岡一義氏の排斥問題」
1949年10月4日『うるま新報』「翁長助成ー移民に就いて」
1949年10月11日『沖縄タイムス』「広島・長崎の原爆、沖縄基地を出発ー当時を語る搭乗員」
1949年10月14日『うるま新報』「シ長官、北谷の司令部で志喜屋知事と会談ー能う限り土地も解放」
1949年10月18日『沖縄タイムス』「ヘラルド紙発行許可」「松劇団ーしのべ!一高女の自決を!ああ!沖縄戦の最大悲劇!上間朝久作・千原繁子演出『戯曲・姫百合塔悲歌』全3幕」
1949年10月28日『うるま新報』石野径一郎「ひめゆりの塔(1)」
1949年11月11日『うるま新報』「沖縄住民の協力を得て復興計画を極力推進ーシーツ長官①初めて記者団と長時間会談」
①ジョセフ・ロバート・シーツ(Josef Robert Sheetz、1895年 - 1992年)1939年から1941年までアメリカ陸軍指揮幕僚大学で教鞭を取り、太平洋戦争が勃発した1941年、陸軍省副参謀長に転任した。1944年には陸軍准将・第二十四軍団砲兵指揮官となり、1945年には沖縄戦の戦場に赴き、この部隊を指揮した。
終戦後は韓国に転任したが、1949年10月、ウィリアム・イーグルスの後任として琉球軍司令官・琉球列島米国軍政府の軍政長官として沖縄に戻った。シーツは終戦後4年を経てなお経済・治安の混乱が続き、米軍の軍規も乱れていた沖縄において、経済復興、政治体制の確立、治安改善などの復興策に組織的に取り組んだ占領後初の軍政長官となった。具体的には那覇市街地の首都としての再建、琉球・奄美・宮古・群島民政府の設立とその知事・議員の公選、米軍部隊の再編成と待遇改善・綱紀粛正などを行い、その施政は当時の沖縄住民によって「シーツ善政」と称えられた。
こうした占領政策の転換は、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争勃発直前の緊迫した国際情勢を反映し、アメリカにとって沖縄の軍事基地としての戦略的重要性が高まり、単なる軍事占領から恒久的な統治へと方針が変わってきたために行われたものである。(略)しかし翌1950年末、シーツは病を得て退役することとなり、「善政」は一年余りで幕を閉じた。その後は朝鮮戦争の膠着化や東西冷戦の深刻化などを背景に、沖縄を除く本土のみを独立させるサンフランシスコ講和条約の調印、主席任命制が復活する琉球政府への再改組、アメリカ軍による強制的な土地収用など、島民の希望を裏切る出来事が続き、沖縄における反米感情は再び高まる運命にあった。→Wikipedia
1949年11月12日『うるま新報』「シ長官の施策発表は市況にどう響いたか!住民は笑顔・業者は静観」
1949年11月13日『うるま新報』「売れ行きはどうかーシーツ長官再び売店視察」「にせ軍票現る」
1949年11月15日『うるま新報』「食糧増配・物価値下ーシ長官に感謝」
1949年11月20日『うるま新報』「シ長官に贈る感謝の花束」
1949年11月22日『うるま新報』「シ長官、きのう警察関係を視察ー取締陣を激励」
1949年11月24日『うるま新報』「山城正忠氏、知念病院に入院中22日永眠、享年65才」
1949年11月27日『うるま新報』「米軍のスローガン『太平洋の庭園沖縄』
1949年12月2日『うるま新報』「シ長官民政府を初巡視ー那覇をビジネスセンターに 都市計画で軍も委員任命」「シ長官再び知事と会談”忘れられた島”沖縄の復興に世論を喚起」「米陸軍参謀総長談ー猛獣的日本軍、再建する計画はない」
1949年12月3日『うるま新報』タイム誌記者の見た占領下四年後の沖縄□(略)その軍紀は世界中の他の米駐屯軍のどれよりもわるく、その1万5千の沖縄駐屯米軍部隊が絶望的貧困の中に暮らしている60万の住民を統治して来た。この夏のグロリア台風が沖縄をおそって甚大な被害を与えた時、陸軍ではついにその状況を調査した。琉球司令部は改組され、朝鮮の軍隊で立派な仕事をした明朗で精力家のジョセフ・Rシーツ少将がイーグルス准将に代った。更に、空軍司令官も細心で物静かなキンカイド少将に代ったが、司令官が変わってから沖縄駐屯米軍の志気は大いに是正された。(略)沖縄は米国陸軍の才能のない者や除者の態のよい掃きだめになっていた。去る9月に終わる過去6ヶ月間に米軍兵士は殺人29、強姦18、強盗16、殺傷33というおどろくべき数の犯罪を犯した。シーツ准将は直ちに志気高揚の講座を設置して「諸君は米国政府の無任所外交使節である」と将士にきびしく訓諭した。沖縄人はその苦しい生活を闘牛の如き簡単な娯楽でまぎらわす暢気な国民である。彼等は米国人が好きで、沖縄が米国の属領になることをはっきりと望んでいる。沖縄人は60年以上の長い間沖縄人を田舎者としてべつ視した日本軍や日本商人によって搾取されていた。米軍が上陸して来て沖縄人に食糧と仮小屋を与えた時、彼等は驚き且つ喜んだ。(略)シーツ少将は米国は沖縄に対して作戦上の関心よりも一層多くの関心をもっていると信じており「それはキリスト教国民の他国民に対する道義的責任である」といった。
1949年12月6日『うるま新報』「シ長官夫妻、孤児達を激励、早く大きくなって沖縄のため働くんですね」
1949年12月8日『うるま新報』「サンタクローズの爺さんはシ長官とシャーマン副長官」「開校迫る琉球大学」
12月12日『沖縄ヘラルド』第一号
□2005年4月 山川文康『走即人生』「11月22日から一ヶ月間くらい(社長が出張から帰られるまで)沖縄ヘラルドの記者として手伝うことになった。ヘラルド社は社長・西銘順治、専務・玉城勝信、営業部長・当銘茂夫、編集局長・比嘉憲蔵、大城毅も役員で事務所は国際通り沿いの大城組の建物(トタン屋)を借用していた。みんな当銘君と二中の同期生とのことだが、私は誰も知らなかった。私は暇だったので手伝う事にしたが、記者は誰々かと聞いたら我々二人だけだという。・・・」
1949年12月15日『うるま新報』「シーツ軍政長官、當間重民那覇市長と懇談」「泊、前島の開放は1年半か2年後に」
1949年12月24日『うるま新報』「ワシントンポスト紙 記者の視察記ーアメリカは極東の重要基地として沖縄を確保しようとしている。米国の共産主義防衛の第一線に」
1949年12月30日『うるま新報』「シーツ長官、こども版愛読者代表と会見」
1949年12月31日『うるま新報』「シーツ長官、政党代表と会見」