05/31: 1954年 10月19日 『琉球新報』石川正通「ふりむん随筆 未完成公共学(一)」~12月27日①
「ふりむん随筆 未完成公共学(一)」□私は自由の月である。フリームーンである。現在は順天堂大学医科大学教授で英語と文学(国語漢文を含む)の主任教授であるが、学生はわたしのことを「シュセキキョウジュ」と呼んで親しんだりこわがったりしているが「首席教授」の意味だが「酒席狂需」の意味だか、忙しくて辞書を引く暇がないので自分でもよくわからない。どんな辞書を引いたらよいか沖縄隋一の学聖否全日本でも無類の碩学 東恩納寛惇(有名人敬称略、御免)に質してからゆっくり調べることにする。
昔から「金持ち暇無し」と言う通り、事実私は暇がないのである。アルバイトとして桐葉予備校、文京予備校、国際予備校の3校の英語主任も兼務して居り、日本英学院で英文学も講じて居り、丁度目下那覇の大宝館で上映中のグレイアム・グリーンの「落ちた偶像」の原作を英語で講義中である。ささやかながら自分の石川英語学院も手離せない。二つの出版会社の編集顧問も引き受けている関係で原稿依頼も多い。
「ありが英語小や、ゆくしぬうふさぬ、わー英語小けんそーれー」と日夜歌っている身になってごらんなさい。英語ニコヨンはつらいです。ウランダ口アチョールドウは悲しいです。「大和口使て、ウランダ口ならーち、唐書物読むる沖縄二才我身や」と大日本帝国はなやかなりし頃、那覇の一角、中島小掘のほとりでき門の望に明け暮れる母に琉歌を送ってなぐさめた、我が厚顔の青年の日が、昨日や今日のように思い出されて胸がうずく。「日本語も英語も知らぬアンマーはワッター次郎を故郷に待つ」と涙ながらに和琉ちゃんぼの忍び泣きに異郷滞在の不孝の罪を心にわびたのもその頃である。
「ふりむん随筆 未完成公共学(七)」□「大傷繃帯日」も私の予言である。大東亜戦争が天皇の名で宣せられ「大詔奉載日」が制定されるや、私が愛国の至情から国難を予言した)「大傷繃帯日」は物の見事に的中した敗戦直後(終戦という言葉でごまかすな)伊波普猷の家で会ったとき松本三益に「石川先生は徹底的に敗戦論者でしたね」と妙なことを覚えられていて、比嘉春潮も「そうだったか」と私を見直した。「そてつ(蘇鉄)地獄」と沖縄の窮乏をなげき、「ブーサー極楽」と故郷の退廃を憂えていたとき「人口過剰の無人島」と人物缺乏を痛嘆した40年前の私の寸鉄は今日の日本に対する予言となって実現している。「天ぴ大和口」という奇語も私の発明だったかどうか忘れたが、今沖縄ではどんな標準はずれの標準語を使って金をもうけ、恋を語って居るであろうか。
キヤメルを鹿小と呼び、ラッキー・ストライキを旗小と称し、フィリップモリスを黒ん坊と唱えている由、私はふるさと人の語感を頼もしく思い、既に天下をのんでいるその意気に敬意を表して頭を下げる。パチンコと競輪にうつつをぬかして夢中になっている知性の無い今の大和民族にはそんな意気やゆとりのかけらも無い。一度は政治的に亡んだこの国は、今精神的亡国の寸前にある。だからいつまでもまずい煙草をのまされているのだ。煙草から立ち登る煙にすらレジスタンスをしめす気力がないのである。
「竹島は明らかに韓国領土だ。その証拠にはあの島にはパチンコ屋は一軒も無い」と李承晩大統領にすらなめられているていたらくである。日本の大学生はパチンコをしたついでに学校に通う。李承晩ラインの故智にならったわけでもあるまいが、沖縄の周囲に精神的愛郷の比嘉秀平ラインを張りめぐらして人生冒涜の亡国遊戯パチンコの神聖なる沖縄侵入を断固排していると聞く我が同僚沖縄民政府主席比嘉秀平の明智と良しきと勇気に対して在京沖縄人全体ではなく私一人を代表して厚く謝辞を述べて益々その健闘を祈らずには居られない。
「ふりむん随筆 未完成公共学(九)」□(略)当間重剛を語る門外不出の材料も一中、三高、京大、司法官時代と沢山ある。唯彼に一つの欠点がある。それは私に話しかけるとき、パリー語や那覇語を使わないで最初大和口を使うことである。それはよろしくない。今度彼が東京に出て来たら、大いに叱ってやろうと思っている。飲む前に叱るのだ。「石川正通 当間重剛を叱るの図」これは素敵な画題だ。山田真山の麗筆に触れれば雪舟、応挙の塁を摩し、金城安太郎の絹布に上れば、歌麿、写楽を彷彿させ、嘉数能愛のパレットに踊っては関屋敬次の風格と画風を再現し大城皓也のカンバスに現れては曽太郎、龍三郎の域に迫り、渡嘉敷唯夫の画用紙に捕らわれは、近藤日出造、池部均をしのぐ傑作となr山里永吉の画板に乗ればピカソかマチスかマボーあたりを顔色なからしめる旋風を起こすであろう。更にまた瀬名波良持の紅型に染めぬかれれば鳥羽僧正の遺風を伝えて永久に博物館を飾る国宝に指定されるであろう。
波之上神社の鳥居と那覇市役所の馬鹿塔と当間重禄の医者の看板を那覇の三大不用物と指摘したのは崎山嗣朝の余りにも有名な警句で政争の激しかった大正末期の名残を留めて如何にも泊人らしい気概に満ちている。和辻哲郎の「偶像再建」を読むまでもなくヨーロッパの中世思想に抗して興った近代ヨーロッパのアイコノクラズム(偶像破壊)の思想も今日では思想史の数頁をかろうじて占める哲学の足跡に過ぎない。わがふるさとも偶像再建の機運に近づきつつあることと思う。波之上神社の鳥居はカンプーサバチでどうなったか知らないが、前よりも大きな鳥居を建てたらどうだろう。もし神社が残っていたら。それは神の家の門として建ててもやがては那覇の風物詩の一つとなるであろうから。
1954年 10月19日 『琉球新報』石川正通「ふりむん随筆 未完成公共学(一)」~12月27日②
「ふりむん随筆 未完成公共学(11)」□「新戸部稲造博士が私の真似ををしたことがある。(或は逆かも知れない)。「英国人は植民地で10人寄ればクラブを作り、百人集まれば教会を建てる。日本人は植民地で10人寄れば風呂屋を作り、百人寄れば女郎屋を建てる」と有名な警句を吐いた新戸部稲造は戦前の私同様非常な蔵書家であった。或る人が問うた。「先生はこのおびただしい御蔵書を全部御読みになりましたか」稲造は「はい」と簡単に答えた。客更に曰く「先生はそれを全部覚えておいでになりますか」 「あなたは食べた物を体外に出さないで全部腹の中にしまっておかれますか」と当意即妙に答えたこの雄弁家で学徳一世に鳴り響いた稲造も晩年、按摩を呼んで時々体をもませる度に、「外人と結婚するなよ。外人の妻を持つなよ」と、按摩の一もみ一もみのリズムに合わせて、いつまでもいつまでも言い続けて居たと言う。外国婦人と一生連れ添うて、最も理想的な数少ない国際結婚成功者の一人と言われる新戸部稲造にして、晩年この語あり、右参考までに。
「ふりむん随筆 未完成公共学(14)」□「今日まで随分さがしましたが神様はどこにもいませんでした」と小石川戸崎町の伊波普猷のコスモスの家に来て正直に告白した沖縄の有名な某金持クリスチャンもあったが、次は尾崎行雄の晩年の懺悔(ざんげ)である。「神様がほんとに存在するならば、誰か一人位は神様の写真を一枚持っている者があるはずだ」と、どうしても世間なみの信仰の道に入れなかった尾崎行雄はまだ日本の新聞雑誌には彼の死後の今日でも発表されていない秘話だが、戦時中人間ならぬ神様天皇を、明治天皇なら今回の戦争を起されなかったであろうが今の天皇は三代目だからなあと演説して、軍部の大弾圧に会い生命まで危険にひんした昔からよく口禍を引起す脱線政客(政治家ではない)であった。
「ふりむん随筆 未完成公共学(37)」□外国の新聞記者には笑顔で接し日本報道陣にはコップの水をかけていた吉田茂首相は探偵物の中でも野村胡堂の「銭形平次」が最も御気に召して居るという。道理で「がらっ八」のような子分ばかりに取り囲まれていた。「現代の日本で最も危険なのはマルクスのタダブツ(唯物)論であります。それを無くすには教育をネモト(根本)的に改める必要があります。しかし研究費が足りないから、もっとオイカ(追加)予算を計上してもらいたい」と、国会で大演説をぶつ大政治家の中では、田中、吉田、鳩山首相等は読書家の方であるかも知れない。
吉田首相はサンフランシスコから日本向け放送のとき3回も「フギョウフクツ(ふとうふくつ、が正しい)」と言っていたし、日比谷公会堂における、比島大統領への戦犯釈放感謝演説でも「フィリピン大統領の寛大なる処置に対してアイシン感謝の意を申し述べ度い」と言っていた。チュウシンでなくアイシンでは釈放されて悲しいと言うことになる。「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」を「ドウガミネ」と言い、国会で昭和を明治と読み違えて平気だから、一々取り上げる方がどうかしていると言はれるかも知れない。松村謙三は、よく「ザンサイ」という熟語を使いたがる。残滓(ざんし)と言うべきだ。
水谷長三郎は二言目には、「カレンチユウキュウ」と言ふ難しい熟語を使うくせがある。これは正しいが、政治家はもっと平易な言葉で、同じ意味を持つ表現法を勉強すべきである。岸幹事長までが鳩山内閣成立の声明文朗読の最後で「ツイコウ(遂行)」と言っていたのには驚いた。東大の学生時代には我妻栄教授と首席を争っていた秀才が政事家になると、こうだからたまらない。しかし大抵の人は「ツイコウ」と言ふ。私が好きで聴いて歩く演説で、正しく「すいこう」と発音したのは鳩山一郎一人であった。「今月号の文芸ハルアキ(春秋)」はまだ出ませんか」と、書店に雑誌を買いに行く東京の名士はまだ良い方である。
つまらないあげ足取りをするなと怒ってはならない。国語教育は大臣になったら、踏みにじってもよいといふ法律は無いはずだ。
不自由党に怪進党 恐産党に斜会党 憲法破る剣法に 民主の春の遠いこと
これは1953年の私の年賀状の第二節であるが、離合集散を常として、言葉には敏感慎重であるはずの新聞人出身の緒方竹虎まで、総裁就任の挨拶に「党の為、国家の為」と党を先にして録音に集る街頭子にまでその不用意に依る本心を指摘されるように、勉強を忘れた政治家は、歌を忘れたカナリヤよりもあわれである。
「ふりむん随筆 未完成公共学(35)」□「今年の北海道御巡幸の時にも、御召列車が17分停車する駅に50万円かけて新しい御便所を新築したり、珍魚の名を御下問になったのに対して、クシロ市長が直接御答えしようとしたのに、「それは御日程に無いから、後に文書を以って御奉答申し上げるように」と宮内官が、さえぎったりして報道陣を驚かした。文壇の悪風潮をなげいて「誰だ、花園を荒らす者は」と叫んだのは中村武羅夫であった。「誰だ、天皇を私する者は」と私は叫び度い。天皇は断じて側近者だけの天皇ではない。天皇はあくまで国民の天皇である。ワッター天皇である。
ここまで書いていると、今度はキーナンの訃に接した。ジョウジフ・ビー・キーナン①逝く。東京裁判首席検事わが友キーナン、1954年12月8日、アメリカ、ノースカロライナ州アシュボロで心臓マヒで逝く。享年66.地球は回り、歴史は進む。事は運び人は動く。キーナンハウスとなっていた三井男爵邸で、夜の大統領と言われたカポネを検挙してルーズベルト大統領に認められて東京裁判に臨んだキーナンと起居を共にした和意談を語り合うほど親しくなった私は極東軍事裁判翻訳官通訳官調査官としての当時の思い出を史実を忠実にたどって東京裁判物語を書かなければならないが余り長くなるから、それは来春以後の読み物にしよう。未だ世界に公表されていない幾多の法廷秘話やまだまだ発表出来そうもない私の特種もある。
①キーナン【Joseph Berry Keenan】 1888‐1954
アメリカの法律家,極東国際軍事裁判(東京裁判)の首席検察官。ロード・アイランド州生れ。ハーバード大卒。1914年オハイオ州で弁護士開業。33年連邦政府の司法長官特別補佐官に任命され,暴力犯罪,とりわけギャングや誘拐犯の一掃に努めた。次いで同省刑事部長,司法長官補に昇進。45年(昭和20)11月,トルーマン大統領の特命で,日本の戦争指導者の戦争犯罪捜査訴追のためのアメリカ法律顧問団団長に任命されて来日。→ウィキペディア
重光全権に依るミズリー艦上の降伏調印以後、日本陸軍の通訳として憲兵司令官飯村穣中将②を援けて、アイゲルバーガー八軍司令官③の代表キャドウェル憲兵司令官と、日本軍人の復員、武器返納その他に関する日本軍通訳は私であり、米軍側通訳は小野寺二世であった。アイゲルバーガー司令官が、、日本の武器は全部、国宝の刀剣類までも一振り残さず破棄すると強硬に主張して一歩も譲らないのを、東京の憲兵司令部本部から横浜の米軍司令部まで朝に夕に自動車を飛ばして御百度を踏んで、やっとのことで日本の名刀古刀の を美術として救って今日に伝えたのも飯村司令官を励ましてねばった私の通訳の力であった。(以下略)
②飯村 穣(いいむら じょう、1888年(明治21年)5月20日 - 1976年(昭和51年)2月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。茨城県出身。
総力戦研究所において研究生とともに「総力戦机上演習」という日米開戦となった場合のシミュレーションをおこない、日本の敗北という結論を出した。この演習では船舶の喪失が生産量を上回り、戦争遂行が困難になること、ソ連とアメリカが軍事的に協力する(演習ではソ連極東地方の米軍の軍事利用という設定)ことなど実際の太平洋戦争をかなり正確に予測した。この演習の結果は当時の第3次近衛内閣の閣僚にも報告され陸軍大臣だった東条英機も聞いていたが、「机上の空論」と評され、無視された。→ウィキペディア
③ロバート・ローレンス・アイケルバーガー(Robert Lawrence Eichelberger, 1886年3月9日 - 1961年9月25日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。退役後に大将まで進む。太平洋戦争において設置された合衆国陸軍第8軍の初代司令官となり、第8軍による対日戦および日本占領を指揮する。離任前には日本の再武装を主張し、民政局や極東委員会と対立。在任中には再武装には至らなかったものの、海上保安庁の設置を実現させる。直属上官である最高司令官ダグラス・マッカーサーと表立っては対立しなかったものの、マッカーサーを辛辣に批判する日記が遺されている。1947年、地方巡幸中の昭和天皇を乗せたお召し列車と、アイケルバーガー中将を乗せた連合軍専用列車が碓氷峠で行き違いをすることになり、RTO(Railway Transportation Office)の命令により、お召し列車側が5分間退避させられたというエピソードがある。→ウィキペディア
昔から「金持ち暇無し」と言う通り、事実私は暇がないのである。アルバイトとして桐葉予備校、文京予備校、国際予備校の3校の英語主任も兼務して居り、日本英学院で英文学も講じて居り、丁度目下那覇の大宝館で上映中のグレイアム・グリーンの「落ちた偶像」の原作を英語で講義中である。ささやかながら自分の石川英語学院も手離せない。二つの出版会社の編集顧問も引き受けている関係で原稿依頼も多い。
「ありが英語小や、ゆくしぬうふさぬ、わー英語小けんそーれー」と日夜歌っている身になってごらんなさい。英語ニコヨンはつらいです。ウランダ口アチョールドウは悲しいです。「大和口使て、ウランダ口ならーち、唐書物読むる沖縄二才我身や」と大日本帝国はなやかなりし頃、那覇の一角、中島小掘のほとりでき門の望に明け暮れる母に琉歌を送ってなぐさめた、我が厚顔の青年の日が、昨日や今日のように思い出されて胸がうずく。「日本語も英語も知らぬアンマーはワッター次郎を故郷に待つ」と涙ながらに和琉ちゃんぼの忍び泣きに異郷滞在の不孝の罪を心にわびたのもその頃である。
「ふりむん随筆 未完成公共学(七)」□「大傷繃帯日」も私の予言である。大東亜戦争が天皇の名で宣せられ「大詔奉載日」が制定されるや、私が愛国の至情から国難を予言した)「大傷繃帯日」は物の見事に的中した敗戦直後(終戦という言葉でごまかすな)伊波普猷の家で会ったとき松本三益に「石川先生は徹底的に敗戦論者でしたね」と妙なことを覚えられていて、比嘉春潮も「そうだったか」と私を見直した。「そてつ(蘇鉄)地獄」と沖縄の窮乏をなげき、「ブーサー極楽」と故郷の退廃を憂えていたとき「人口過剰の無人島」と人物缺乏を痛嘆した40年前の私の寸鉄は今日の日本に対する予言となって実現している。「天ぴ大和口」という奇語も私の発明だったかどうか忘れたが、今沖縄ではどんな標準はずれの標準語を使って金をもうけ、恋を語って居るであろうか。
キヤメルを鹿小と呼び、ラッキー・ストライキを旗小と称し、フィリップモリスを黒ん坊と唱えている由、私はふるさと人の語感を頼もしく思い、既に天下をのんでいるその意気に敬意を表して頭を下げる。パチンコと競輪にうつつをぬかして夢中になっている知性の無い今の大和民族にはそんな意気やゆとりのかけらも無い。一度は政治的に亡んだこの国は、今精神的亡国の寸前にある。だからいつまでもまずい煙草をのまされているのだ。煙草から立ち登る煙にすらレジスタンスをしめす気力がないのである。
「竹島は明らかに韓国領土だ。その証拠にはあの島にはパチンコ屋は一軒も無い」と李承晩大統領にすらなめられているていたらくである。日本の大学生はパチンコをしたついでに学校に通う。李承晩ラインの故智にならったわけでもあるまいが、沖縄の周囲に精神的愛郷の比嘉秀平ラインを張りめぐらして人生冒涜の亡国遊戯パチンコの神聖なる沖縄侵入を断固排していると聞く我が同僚沖縄民政府主席比嘉秀平の明智と良しきと勇気に対して在京沖縄人全体ではなく私一人を代表して厚く謝辞を述べて益々その健闘を祈らずには居られない。
「ふりむん随筆 未完成公共学(九)」□(略)当間重剛を語る門外不出の材料も一中、三高、京大、司法官時代と沢山ある。唯彼に一つの欠点がある。それは私に話しかけるとき、パリー語や那覇語を使わないで最初大和口を使うことである。それはよろしくない。今度彼が東京に出て来たら、大いに叱ってやろうと思っている。飲む前に叱るのだ。「石川正通 当間重剛を叱るの図」これは素敵な画題だ。山田真山の麗筆に触れれば雪舟、応挙の塁を摩し、金城安太郎の絹布に上れば、歌麿、写楽を彷彿させ、嘉数能愛のパレットに踊っては関屋敬次の風格と画風を再現し大城皓也のカンバスに現れては曽太郎、龍三郎の域に迫り、渡嘉敷唯夫の画用紙に捕らわれは、近藤日出造、池部均をしのぐ傑作となr山里永吉の画板に乗ればピカソかマチスかマボーあたりを顔色なからしめる旋風を起こすであろう。更にまた瀬名波良持の紅型に染めぬかれれば鳥羽僧正の遺風を伝えて永久に博物館を飾る国宝に指定されるであろう。
波之上神社の鳥居と那覇市役所の馬鹿塔と当間重禄の医者の看板を那覇の三大不用物と指摘したのは崎山嗣朝の余りにも有名な警句で政争の激しかった大正末期の名残を留めて如何にも泊人らしい気概に満ちている。和辻哲郎の「偶像再建」を読むまでもなくヨーロッパの中世思想に抗して興った近代ヨーロッパのアイコノクラズム(偶像破壊)の思想も今日では思想史の数頁をかろうじて占める哲学の足跡に過ぎない。わがふるさとも偶像再建の機運に近づきつつあることと思う。波之上神社の鳥居はカンプーサバチでどうなったか知らないが、前よりも大きな鳥居を建てたらどうだろう。もし神社が残っていたら。それは神の家の門として建ててもやがては那覇の風物詩の一つとなるであろうから。
1954年 10月19日 『琉球新報』石川正通「ふりむん随筆 未完成公共学(一)」~12月27日②
「ふりむん随筆 未完成公共学(11)」□「新戸部稲造博士が私の真似ををしたことがある。(或は逆かも知れない)。「英国人は植民地で10人寄ればクラブを作り、百人集まれば教会を建てる。日本人は植民地で10人寄れば風呂屋を作り、百人寄れば女郎屋を建てる」と有名な警句を吐いた新戸部稲造は戦前の私同様非常な蔵書家であった。或る人が問うた。「先生はこのおびただしい御蔵書を全部御読みになりましたか」稲造は「はい」と簡単に答えた。客更に曰く「先生はそれを全部覚えておいでになりますか」 「あなたは食べた物を体外に出さないで全部腹の中にしまっておかれますか」と当意即妙に答えたこの雄弁家で学徳一世に鳴り響いた稲造も晩年、按摩を呼んで時々体をもませる度に、「外人と結婚するなよ。外人の妻を持つなよ」と、按摩の一もみ一もみのリズムに合わせて、いつまでもいつまでも言い続けて居たと言う。外国婦人と一生連れ添うて、最も理想的な数少ない国際結婚成功者の一人と言われる新戸部稲造にして、晩年この語あり、右参考までに。
「ふりむん随筆 未完成公共学(14)」□「今日まで随分さがしましたが神様はどこにもいませんでした」と小石川戸崎町の伊波普猷のコスモスの家に来て正直に告白した沖縄の有名な某金持クリスチャンもあったが、次は尾崎行雄の晩年の懺悔(ざんげ)である。「神様がほんとに存在するならば、誰か一人位は神様の写真を一枚持っている者があるはずだ」と、どうしても世間なみの信仰の道に入れなかった尾崎行雄はまだ日本の新聞雑誌には彼の死後の今日でも発表されていない秘話だが、戦時中人間ならぬ神様天皇を、明治天皇なら今回の戦争を起されなかったであろうが今の天皇は三代目だからなあと演説して、軍部の大弾圧に会い生命まで危険にひんした昔からよく口禍を引起す脱線政客(政治家ではない)であった。
「ふりむん随筆 未完成公共学(37)」□外国の新聞記者には笑顔で接し日本報道陣にはコップの水をかけていた吉田茂首相は探偵物の中でも野村胡堂の「銭形平次」が最も御気に召して居るという。道理で「がらっ八」のような子分ばかりに取り囲まれていた。「現代の日本で最も危険なのはマルクスのタダブツ(唯物)論であります。それを無くすには教育をネモト(根本)的に改める必要があります。しかし研究費が足りないから、もっとオイカ(追加)予算を計上してもらいたい」と、国会で大演説をぶつ大政治家の中では、田中、吉田、鳩山首相等は読書家の方であるかも知れない。
吉田首相はサンフランシスコから日本向け放送のとき3回も「フギョウフクツ(ふとうふくつ、が正しい)」と言っていたし、日比谷公会堂における、比島大統領への戦犯釈放感謝演説でも「フィリピン大統領の寛大なる処置に対してアイシン感謝の意を申し述べ度い」と言っていた。チュウシンでなくアイシンでは釈放されて悲しいと言うことになる。「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」を「ドウガミネ」と言い、国会で昭和を明治と読み違えて平気だから、一々取り上げる方がどうかしていると言はれるかも知れない。松村謙三は、よく「ザンサイ」という熟語を使いたがる。残滓(ざんし)と言うべきだ。
水谷長三郎は二言目には、「カレンチユウキュウ」と言ふ難しい熟語を使うくせがある。これは正しいが、政治家はもっと平易な言葉で、同じ意味を持つ表現法を勉強すべきである。岸幹事長までが鳩山内閣成立の声明文朗読の最後で「ツイコウ(遂行)」と言っていたのには驚いた。東大の学生時代には我妻栄教授と首席を争っていた秀才が政事家になると、こうだからたまらない。しかし大抵の人は「ツイコウ」と言ふ。私が好きで聴いて歩く演説で、正しく「すいこう」と発音したのは鳩山一郎一人であった。「今月号の文芸ハルアキ(春秋)」はまだ出ませんか」と、書店に雑誌を買いに行く東京の名士はまだ良い方である。
つまらないあげ足取りをするなと怒ってはならない。国語教育は大臣になったら、踏みにじってもよいといふ法律は無いはずだ。
不自由党に怪進党 恐産党に斜会党 憲法破る剣法に 民主の春の遠いこと
これは1953年の私の年賀状の第二節であるが、離合集散を常として、言葉には敏感慎重であるはずの新聞人出身の緒方竹虎まで、総裁就任の挨拶に「党の為、国家の為」と党を先にして録音に集る街頭子にまでその不用意に依る本心を指摘されるように、勉強を忘れた政治家は、歌を忘れたカナリヤよりもあわれである。
「ふりむん随筆 未完成公共学(35)」□「今年の北海道御巡幸の時にも、御召列車が17分停車する駅に50万円かけて新しい御便所を新築したり、珍魚の名を御下問になったのに対して、クシロ市長が直接御答えしようとしたのに、「それは御日程に無いから、後に文書を以って御奉答申し上げるように」と宮内官が、さえぎったりして報道陣を驚かした。文壇の悪風潮をなげいて「誰だ、花園を荒らす者は」と叫んだのは中村武羅夫であった。「誰だ、天皇を私する者は」と私は叫び度い。天皇は断じて側近者だけの天皇ではない。天皇はあくまで国民の天皇である。ワッター天皇である。
ここまで書いていると、今度はキーナンの訃に接した。ジョウジフ・ビー・キーナン①逝く。東京裁判首席検事わが友キーナン、1954年12月8日、アメリカ、ノースカロライナ州アシュボロで心臓マヒで逝く。享年66.地球は回り、歴史は進む。事は運び人は動く。キーナンハウスとなっていた三井男爵邸で、夜の大統領と言われたカポネを検挙してルーズベルト大統領に認められて東京裁判に臨んだキーナンと起居を共にした和意談を語り合うほど親しくなった私は極東軍事裁判翻訳官通訳官調査官としての当時の思い出を史実を忠実にたどって東京裁判物語を書かなければならないが余り長くなるから、それは来春以後の読み物にしよう。未だ世界に公表されていない幾多の法廷秘話やまだまだ発表出来そうもない私の特種もある。
①キーナン【Joseph Berry Keenan】 1888‐1954
アメリカの法律家,極東国際軍事裁判(東京裁判)の首席検察官。ロード・アイランド州生れ。ハーバード大卒。1914年オハイオ州で弁護士開業。33年連邦政府の司法長官特別補佐官に任命され,暴力犯罪,とりわけギャングや誘拐犯の一掃に努めた。次いで同省刑事部長,司法長官補に昇進。45年(昭和20)11月,トルーマン大統領の特命で,日本の戦争指導者の戦争犯罪捜査訴追のためのアメリカ法律顧問団団長に任命されて来日。→ウィキペディア
重光全権に依るミズリー艦上の降伏調印以後、日本陸軍の通訳として憲兵司令官飯村穣中将②を援けて、アイゲルバーガー八軍司令官③の代表キャドウェル憲兵司令官と、日本軍人の復員、武器返納その他に関する日本軍通訳は私であり、米軍側通訳は小野寺二世であった。アイゲルバーガー司令官が、、日本の武器は全部、国宝の刀剣類までも一振り残さず破棄すると強硬に主張して一歩も譲らないのを、東京の憲兵司令部本部から横浜の米軍司令部まで朝に夕に自動車を飛ばして御百度を踏んで、やっとのことで日本の名刀古刀の を美術として救って今日に伝えたのも飯村司令官を励ましてねばった私の通訳の力であった。(以下略)
②飯村 穣(いいむら じょう、1888年(明治21年)5月20日 - 1976年(昭和51年)2月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。茨城県出身。
総力戦研究所において研究生とともに「総力戦机上演習」という日米開戦となった場合のシミュレーションをおこない、日本の敗北という結論を出した。この演習では船舶の喪失が生産量を上回り、戦争遂行が困難になること、ソ連とアメリカが軍事的に協力する(演習ではソ連極東地方の米軍の軍事利用という設定)ことなど実際の太平洋戦争をかなり正確に予測した。この演習の結果は当時の第3次近衛内閣の閣僚にも報告され陸軍大臣だった東条英機も聞いていたが、「机上の空論」と評され、無視された。→ウィキペディア
③ロバート・ローレンス・アイケルバーガー(Robert Lawrence Eichelberger, 1886年3月9日 - 1961年9月25日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。退役後に大将まで進む。太平洋戦争において設置された合衆国陸軍第8軍の初代司令官となり、第8軍による対日戦および日本占領を指揮する。離任前には日本の再武装を主張し、民政局や極東委員会と対立。在任中には再武装には至らなかったものの、海上保安庁の設置を実現させる。直属上官である最高司令官ダグラス・マッカーサーと表立っては対立しなかったものの、マッカーサーを辛辣に批判する日記が遺されている。1947年、地方巡幸中の昭和天皇を乗せたお召し列車と、アイケルバーガー中将を乗せた連合軍専用列車が碓氷峠で行き違いをすることになり、RTO(Railway Transportation Office)の命令により、お召し列車側が5分間退避させられたというエピソードがある。→ウィキペディア