06/04: 琉米誌/ハワイ①
ハワイ州は、太平洋に位置するハワイ諸島にあるアメリカ合衆国の州である。漢字では「布哇」と書く。州都はオアフ島のホノルル市である。アメリカ合衆国50州の中で最後に加盟した州である。 ウィキペディア
1878年 孫文ーハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り、オアフ島ホノルルに移住、後に同地のイオラニ・スクールを卒業。→ウィキペディア
1909年 大城剛(白銀)がホノルルで雑誌『沖縄同胞』創刊。1年で廃刊。その後、ヒロ市で『雷新聞』を発刊(1918年廃刊)。
1910年9月ー与儀喜照、山城徳助、渡名喜守章、屋部憲伝の発起で「球陽倶楽部」設立。
1911年6月2日ーハワイ「望月」で「尚侯爵令嗣尚昌歓迎会」。
1912年7月ー遠山哲夫(当山亀)は雑誌『実業之布哇』発刊。
1912年7月28日ー仲嶺真助(麻氏)、ハワイのオアフ島ワイアナエで生まれる。父三良、母マツ
1915年8月ー前暁鐘社長野里朝淳はマウイ島カフルイ港にて写真屋開業。
1917年2月ーハワイ沖縄県人同志会結成、当山善真(常務理事)、田島朝明、平良牛助、仲間銀造、上里由明、上里良温、上江洲智倫、野里朝淳、小那覇三郎、山里勇善、山城徳助、山城秀正、山入端松正、小波津幸秀、宮里貞寛(会計)。/11月ー上里由明、朝鮮人旅館を譲り受けキング街リバー街近くに上里旅館開業。
1919年3月ー小那覇三郎の「沖縄観光団」、30日の天津丸で出帆。/9月ー宮城源永法学士来布。
1920年12月ー玉代勢法雲(東本願寺)、上原束善(東本願寺開教使)来布。
1921年7月ー比嘉賀秀牧師来布。
1922年1月ー常盤園で「布哇沖縄県人会発会式」。司会・宮里貞寛、経過報告・上里良光、議長・田島朝明、会則説明・当山善真、理事に当山哲夫、宮里貞寛、田島朝明、平良牛助、当山善真、比嘉賀秀、宮城源永、田島朝明、新城銀次郎、大城朝政、嘉数佐市、宮城高光、比嘉保徳、上里良光、与那原良吉、豊平良金。既存のーハワイ沖縄県人同志会は解散せず、趣味団体として存続。/3月ー旭劇場で布哇沖縄県人会主催の基金募集代演芸会、琉球踊・・・鶴亀踊、乙女手踊「スーリーアガリー」、唐手、四季口説、天川、上り口説、交遊、万歳、笠踊、亀甲節、蝶舞、坂原と前浜、薙刀、滑稽踊、唐手と棒・・・。/10月ー天長節奉祝のため新開一座が南キング街のパワー劇場で開演、上り口節、亀甲節、獅子舞、安来節、劇「鬼界島武勇伝」、八重司の万歳、前ヌ浜、与那原節、赤山節、交遊節、仲作田節、四季口節、大切「千本桜」。
1923年3月 嘉数南星『赤光』地響詩社
1924年1月ー布哇沖縄県人会が石井ガーデンにて総会親睦会、宮里貞寛司会、比嘉賀秀理事長、田島朝明書記、宮里貞寛会計の報告ありて後小波津ドクトル、平良牛助、玉代勢法雲、当山哲夫、田島朝明らの所感演説あり、かくし芸などがあった。新理事・比嘉賀秀、当山哲夫、佐渡山安忠、仲間銀造、比嘉保徳、平良牛助、田島朝明、当山善真、豊平良金、宮城源永、山城徳助、上原東善、津波章孝、金城善助、新垣良輝、永山盛珍、古波津幸、玉代勢法雲、内間三郎、稲嶺盛武、内間盛瑾、新川栄光、金城珍栄、池原萬助、宮里貞寛。
1924年2月 比嘉靜観『赤い戀』實業之布哇社
1924年6月 潮音詩社(布哇ホノルル市)『カマニ』第二輯
1925年3月ー布哇沖縄県人会総会で満場一致で布哇沖縄海外協会の設立を議決。理事長・古波津幸秀、副理事長・田島朝明、会計・安里貞雄、書記・宮里貞寛、監査・平良牛/当山哲夫、理事・比嘉賀秀/玉代勢法雲/山城徳助/比嘉保徳、幹事・当山善真。/10月ー宮里貞寛、ホノルル市ヌアヌ街総領事館下にホノルル旅館開業。
ハワイの太田朝敷
左から二人目が太田朝敷
1925年7月21日ー布哇沖縄海外協会に招聘された前琉球新報社長太田朝敷氏は春洋丸で来布す。→船客名簿には一等船客沖縄朝日新聞社顧問太田朝敷とある。4月21日ー太田朝敷、太洋丸で帰国。
1926年3月26日ーハワイ海外協会設置
布哇沖縄海外協会創立・・・沖縄海外協会支部の代議員会はホノルル支部宮里貞寛氏の司会で、同幹事当山善真氏の代議員点呼、同理事長小波津幸秀氏の開会挨拶、代議員の紹介、当山幹事の設立運動報告、議長、副議長の選定、太田朝敷氏のスピーチ、会則の審判議定などがあった。/10月ー渡口政之助、宮里仁王発起で琉球芸術クラブ組織。/11月ー仏教研究のため帰朝中であった元上江洲病院薬局生、与世盛智郎が本派本願寺教士として来布。
1927年2月ーホノルル旅館を経営していた宮里貞寛は家族同伴帰国。
1927年3月ー屋部憲通、9年前に渡米、加州帝国平原に在住していたが帰国の途にホノルルに寄港し当山哲夫、比嘉静観らの世話で一ヶ月滞在す。
1927年5月 宮城聡、ハワイに改造社『日本文学全集』宣伝のため横浜出帆のサイベリア丸に乗る。ホノルルに11日目に着。(1936年にも来布)→1972年6月『新沖縄文学』22号 宮城聡「文学と私<14>」
1927年11月 比嘉靜観『自顔』洋園時報社
1928年3月 玉代勢法雲『眞教法難史』布哇佛教會
1928年6月ー又吉康和(沖縄朝日新聞記者)来布。
1930年
日布映画社制作『執念の毒蛇』(1931)は、大正、昭和期に活躍した俳優であり、映画監督の吉野二郎(1881-1964)が、那覇市とハワイを舞台に撮影したもの
1934年1月、ハワイ・オハフの比嘉太郎(18)は昨年9月ごろから廃物を利用し水力発電設備に着手、正月に電灯を付ける。(比嘉太郎は北中城の祖父母の所で9歳まで過ごし、大阪岸和田で幼年時代を過ごした)/2月、新城朝功(前東京日々新聞経済部長、南洋振興日報社長)ハワイ移民研究でハワイ訪問
1936年10月 永らくワイパフ本願寺に在職中であった与世盛開教使は過般故国訪問から帰布、新学期から布哇中学校に教鞭を執る一方、ベニヤード街バックルレーンに本派本願寺口羽総長許可で慈光園を開設。
1965年6月 『もの知り手帖』(布哇タイムス創刊七十周年記念)布哇タイムス社
1878年 孫文ーハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り、オアフ島ホノルルに移住、後に同地のイオラニ・スクールを卒業。→ウィキペディア
1909年 大城剛(白銀)がホノルルで雑誌『沖縄同胞』創刊。1年で廃刊。その後、ヒロ市で『雷新聞』を発刊(1918年廃刊)。
1910年9月ー与儀喜照、山城徳助、渡名喜守章、屋部憲伝の発起で「球陽倶楽部」設立。
1911年6月2日ーハワイ「望月」で「尚侯爵令嗣尚昌歓迎会」。
1912年7月ー遠山哲夫(当山亀)は雑誌『実業之布哇』発刊。
1912年7月28日ー仲嶺真助(麻氏)、ハワイのオアフ島ワイアナエで生まれる。父三良、母マツ
1915年8月ー前暁鐘社長野里朝淳はマウイ島カフルイ港にて写真屋開業。
1917年2月ーハワイ沖縄県人同志会結成、当山善真(常務理事)、田島朝明、平良牛助、仲間銀造、上里由明、上里良温、上江洲智倫、野里朝淳、小那覇三郎、山里勇善、山城徳助、山城秀正、山入端松正、小波津幸秀、宮里貞寛(会計)。/11月ー上里由明、朝鮮人旅館を譲り受けキング街リバー街近くに上里旅館開業。
1919年3月ー小那覇三郎の「沖縄観光団」、30日の天津丸で出帆。/9月ー宮城源永法学士来布。
1920年12月ー玉代勢法雲(東本願寺)、上原束善(東本願寺開教使)来布。
1921年7月ー比嘉賀秀牧師来布。
1922年1月ー常盤園で「布哇沖縄県人会発会式」。司会・宮里貞寛、経過報告・上里良光、議長・田島朝明、会則説明・当山善真、理事に当山哲夫、宮里貞寛、田島朝明、平良牛助、当山善真、比嘉賀秀、宮城源永、田島朝明、新城銀次郎、大城朝政、嘉数佐市、宮城高光、比嘉保徳、上里良光、与那原良吉、豊平良金。既存のーハワイ沖縄県人同志会は解散せず、趣味団体として存続。/3月ー旭劇場で布哇沖縄県人会主催の基金募集代演芸会、琉球踊・・・鶴亀踊、乙女手踊「スーリーアガリー」、唐手、四季口説、天川、上り口説、交遊、万歳、笠踊、亀甲節、蝶舞、坂原と前浜、薙刀、滑稽踊、唐手と棒・・・。/10月ー天長節奉祝のため新開一座が南キング街のパワー劇場で開演、上り口節、亀甲節、獅子舞、安来節、劇「鬼界島武勇伝」、八重司の万歳、前ヌ浜、与那原節、赤山節、交遊節、仲作田節、四季口節、大切「千本桜」。
1923年3月 嘉数南星『赤光』地響詩社
1924年1月ー布哇沖縄県人会が石井ガーデンにて総会親睦会、宮里貞寛司会、比嘉賀秀理事長、田島朝明書記、宮里貞寛会計の報告ありて後小波津ドクトル、平良牛助、玉代勢法雲、当山哲夫、田島朝明らの所感演説あり、かくし芸などがあった。新理事・比嘉賀秀、当山哲夫、佐渡山安忠、仲間銀造、比嘉保徳、平良牛助、田島朝明、当山善真、豊平良金、宮城源永、山城徳助、上原東善、津波章孝、金城善助、新垣良輝、永山盛珍、古波津幸、玉代勢法雲、内間三郎、稲嶺盛武、内間盛瑾、新川栄光、金城珍栄、池原萬助、宮里貞寛。
1924年2月 比嘉靜観『赤い戀』實業之布哇社
1924年6月 潮音詩社(布哇ホノルル市)『カマニ』第二輯
1925年3月ー布哇沖縄県人会総会で満場一致で布哇沖縄海外協会の設立を議決。理事長・古波津幸秀、副理事長・田島朝明、会計・安里貞雄、書記・宮里貞寛、監査・平良牛/当山哲夫、理事・比嘉賀秀/玉代勢法雲/山城徳助/比嘉保徳、幹事・当山善真。/10月ー宮里貞寛、ホノルル市ヌアヌ街総領事館下にホノルル旅館開業。
ハワイの太田朝敷
左から二人目が太田朝敷
1925年7月21日ー布哇沖縄海外協会に招聘された前琉球新報社長太田朝敷氏は春洋丸で来布す。→船客名簿には一等船客沖縄朝日新聞社顧問太田朝敷とある。4月21日ー太田朝敷、太洋丸で帰国。
1926年3月26日ーハワイ海外協会設置
布哇沖縄海外協会創立・・・沖縄海外協会支部の代議員会はホノルル支部宮里貞寛氏の司会で、同幹事当山善真氏の代議員点呼、同理事長小波津幸秀氏の開会挨拶、代議員の紹介、当山幹事の設立運動報告、議長、副議長の選定、太田朝敷氏のスピーチ、会則の審判議定などがあった。/10月ー渡口政之助、宮里仁王発起で琉球芸術クラブ組織。/11月ー仏教研究のため帰朝中であった元上江洲病院薬局生、与世盛智郎が本派本願寺教士として来布。
1927年2月ーホノルル旅館を経営していた宮里貞寛は家族同伴帰国。
1927年3月ー屋部憲通、9年前に渡米、加州帝国平原に在住していたが帰国の途にホノルルに寄港し当山哲夫、比嘉静観らの世話で一ヶ月滞在す。
1927年5月 宮城聡、ハワイに改造社『日本文学全集』宣伝のため横浜出帆のサイベリア丸に乗る。ホノルルに11日目に着。(1936年にも来布)→1972年6月『新沖縄文学』22号 宮城聡「文学と私<14>」
1927年11月 比嘉靜観『自顔』洋園時報社
1928年3月 玉代勢法雲『眞教法難史』布哇佛教會
1928年6月ー又吉康和(沖縄朝日新聞記者)来布。
1930年
日布映画社制作『執念の毒蛇』(1931)は、大正、昭和期に活躍した俳優であり、映画監督の吉野二郎(1881-1964)が、那覇市とハワイを舞台に撮影したもの
1934年1月、ハワイ・オハフの比嘉太郎(18)は昨年9月ごろから廃物を利用し水力発電設備に着手、正月に電灯を付ける。(比嘉太郎は北中城の祖父母の所で9歳まで過ごし、大阪岸和田で幼年時代を過ごした)/2月、新城朝功(前東京日々新聞経済部長、南洋振興日報社長)ハワイ移民研究でハワイ訪問
1936年10月 永らくワイパフ本願寺に在職中であった与世盛開教使は過般故国訪問から帰布、新学期から布哇中学校に教鞭を執る一方、ベニヤード街バックルレーンに本派本願寺口羽総長許可で慈光園を開設。
1965年6月 『もの知り手帖』(布哇タイムス創刊七十周年記念)布哇タイムス社