一ヶ月余の重荷であった書画、彫刻の陳列を終へてホットとしているところへ文化沖縄の新崎盛珍氏が見へて何か感想を書けと云はれる。ところが書画、彫刻となると範囲が頗る広汎に亘り、私などには不適任なので遠慮したが、是非とのことで、茲では感想といふよりは寧ろ委員として陳列品の蒐集等に走り使ひをした関係上、その経過をありのままに報告し、併せて卑見を述べて見度いと思ふ。
 実を云ふと、今度の芸能展の除幕の噂さとして書画、彫刻は一番淋しいだらうとの風評があったが、愈々「紅型展」を皮切りに蓋開けしてからも、会場たる山形屋の階上には絶へず各部門の委員が陣取り色々の話しが出たが、その大方の口から諸語、彫刻は数が僅いと云ふが、陳列品は集るかなどと気を揉んで下さる方もあり、同情と激励の言葉を受けて頗る恐縮した次第である。しかも今度の催しは「郷土のほこり」と銘打ってあるだけに極めて慎重な態度をとることが肝腎で、それには先ず第一に確りした腹案を作らねばならない。
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 殊に感謝に堪へぬのは博物館や尚家が、所蔵品を見せて戴き尚ほ選り抜いた現品を会場まで届けて下さるし、県立図書館や豊平良顕氏が書幅を表装まで仕替へて出陳され、一中が海邦養秀の扁額と國学訓飭士予諭の大幅を那覇まで届けて下さった思ひやりに対して御礼のの言葉がない。又首里第一国民学校では児童十数名を動員して黒石彫刻物観蓮橋欄羽目2面と透彫大扉2枚を博物館から歡会門前めで持ち出して下さる等全く涙ぐましい光景であった。亦又吉康和氏や原田貞吉氏は各方面と亘りをつけて、各種の出品物や、会場設備に必要なる品物を借りて下さるし、湖城恵寛氏は凡てに対して、わが事のやうに一々面倒を見て下さると云ふ始末で、其の都度に興る感激は、奔走の労苦を吹っ飛ばして余りがあり、今度の藝能展は「郷土のほこり」といふ旗印の下に全部門総動員の形で、実になごやかな雰囲気を醸した。斯かる援助がるため直接擔當の吾々も力を倍加し、同僚糸数昌運氏はわざわざ島尻眞壁村に金城増太郎氏を訪れ、毛世輝の書幅と蔡温の巻物を携へて帰る有様で、全くこの一ヶ月間は、自分の仕事など振り向く暇もなかった。陳列品としては成る可く古い時代に遡って蒐集し、一番近いもので廃藩時代を限度として陳列することにした。
 
 書道は和様、唐様の両様を取り混ぜ和様文字としては、伏見帝の皇子青蓮院尊圓法親王の流れを掬む者の代表と云はれる尊圓城間即ち城間親方盛久(天文11年生まれ、後 三司官)の巻物や又優れたる仮名文字の碑として有名な真珠港碑の手拓、尚清王時代に建立された崇元寺下馬碑の手拓、萬暦年間に首里王府から、のろに賜った辞令、尚敬王御筆の巻物、所謂渡嘉敷親雲上として知られている葉緝烈(寛保3年に生まれ90余歳の寿を保てり)の書幅等に、一番時代の近いもので、琉球藩末路の政治家で歌人である宜湾朝保の書幅を掲げ、又漢字では國学訓飭士予諭の大幅を始めとして沖縄の最高学府たる國学に掲げし尚温王御筆「海邦養秀」の扁額、尚純公(黙笑と号す)後筆で篆、隷、楷、行、草各体の習字帖尚育王御筆、尚育王の御師匠たりし馬執宏豊平良全(容斉又は竹西と号す)馬執宏と同時代の官生毛世輝我謝盛保(筆山と号す)、薩州斉興公に召されて書道の師となりし鄭嘉訓古波蔵親方、其の子で父同様薩公の知遇を受けて大宰府に徳高しの扁額を書きし鄭元偉、琉球の大政治家蔡温と其の父蔡鐸の書幅も陳列したのであるが、尚ほ古代物として尚徳王御筆(原本は災火のため消失し写真版を出す)等は珍品として衆目を集めたが其の他に県内にある名筆で持出し不可能の為め出陳出来なかったものに萬古長史(天正7年支那留学生となり恪橋と号す)がある。この人の書として現在遺っているものに天孫廟内の龍王殿、県立図書館に保存されてある迎恩、首里城正殿階上にある天界寺(以前天界寺に掲げしもの)がある。
 
 其他県外にあって沖縄書道のために気を吐いているものに、鄭嘉訓父子の外に尚穆王御筆がる。これは藩州の聖廟に掲げられているが、聖廟の額と云へば何処でも大抵その時代の一流の書家に書かしたものであって、沖縄の書が他藩の聖廟で偉彩を放っていると云ふことは、沖縄の書道が如何に勝れていたかを物語るものである。又尚寧王御筆の袋中上人像の入れる書幅(現在京都袋中寺本山にあり)の如きは古調豊かにして流麗を極め、古琉球に於ける書としては最高峰を行っていると評されるが、これ等の傑作が控へている事を思へば、更に心強い感じがする。(以下略)