編輯発行兼印刷人・馬上太郎
月刊文化沖縄社 那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社 東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局 パラオ島コロール町 大宜味朝徳

首里城正殿の鐘を迎へて・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉康和・・・・11
○国難が愈々具体化し、学徒出陣の強い羽搏ちは洵に歴史的壮観であり、全国民の覚悟を新たにした。此の時、此の島に於いて由緒深い首里城正殿の巨鐘を元の御城に迎へ郷土博物館に安置することが出来たのは戦勝の前兆であり、大東亜共存共栄圏建設の暗示であらねばならない。

 荒井警察部長が仲吉市長と鐘銘に三嘆したと云ふ晩、偶々或る会場で一緒になり、部長は余程感激したと見へ重ねて大鐘の由来を諮かれたから、親泊政博君と二人で交々その経緯までもお話し、尚ほ国民精神の昂揚に資すべく眞教寺から首里城内に還元するやう御尽力を願ったところ、数日の後親泊壮年団長の案内で実物実見に及び一入感銘を深くし、早速非公式に交渉したら、田原住職を始め信徒総代も快諾された。(略)東恩納先生が喜ぶであらう。源一郎君が生きて居たらと全発君等と話し合って法悦に浸た。回顧すれば昭和8年東恩納教授は英独佛に調査研究を命じられたが、希望して支那及び南洋諸国に変更されたことは一大見識であらねばならない。その鹿島立に際し「私は之から祖先の偉大なる魄を迎へにまなんばんへ参ります」と郷土の人々にメッセーヂーを送られた、其の偉大なる魂は此の鐘銘にも躍動している。

追記 伊江男と東恩納教授から左記の如き祝辞と感謝の御芳書を戴いた。
 鐘を無事に元の御城に美御迎へしたことは近来の大快亊ですから尽力せられし各位に衷心より感謝と敬意を表します。(伊江朝助)
 豫々念願の大鐘漸く旧棲に戻り候趣落花流水其根源に帰し候段本懐至極偏に御尽力の責と感謝に不耐第一回の御書面は17日落手その為に祝意間に不合遺憾に存居候何卒諸君へもよろしく御伝声被下度願上候(東恩納寛惇)

梵鐘を送る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田原惟信・・・・・26

1944年1月 月刊『文化沖縄』第五巻第一号表紙「首里之印」(首里王府が使用する印)
文化沖縄新年号目次/みたみわれ この大みいくさに勝ちぬかん
巻頭言ー大詔奉載日二週年を経て茲にまた新たなる年を迎へた。開戦以来我が皇軍の進み進んだ跡を観 我が国力の伸び伸ぶ先を看るに、赫々たり、洋々たり、僅々二ヶ年にも足らずして、西欧の魔手を払い除けたる東亜の諸邦は早くも大東亜会議を開催して、道義と親和に基づく新秩序を建設し、以って大東亜の安定を図り、進んで世界萬邦の共栄を期する共同宣言を声明した。洵に前古未曾有の盛大事で、八紘一宇、萬邦をして其の処を得しめ、億兆をして其の堵に安ぜしめんとの高遠なる我が肇國の理想は着々実現せられつつある。
 然りと雖も我々の進み行く先が必ずしも坦々たる大道のみにあらざることは三尺の童子も知る所、何しろ敵は多年世界に覇を称し、資源の豊富を恃む米英である。幾度も反攻を企てて幾度も惨敗の憂目を見たにも拘わらず、尚懲りずまに反攻を続けようとして居る。固より蟷螂の斧に過ぎないけれども、勝って兜の緒を締め、百里の道を行くに九十里を半とするの心構を以って、不撓不屈、如何なる困苦欠乏にも耐へ忍び、一億一心、戦線銃後一体となって戦力の増強を図り、勝って々々勝ち抜いて所期の目的を達成するやうにしなければならぬ。
沖縄の文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊場信一沖縄県内政部長・・・・2
沖縄のもつ東亜性ー旧友におくるー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新屋敷幸繁・・・4
葉書回答ー小嶺幸慶、比嘉榮眞、名渡山愛順、屋部憲、諸見里朝清、世禮國男、宮里榮輝・・5
名渡山愛順(画家)
(1)沖縄の古典文化は日本的なる上に更に支那及び南方諸国との交渉があり、日本美術報国会にもある。大東亜文化の建設に大きな役割を今後なすものと思ひます。もっと積極的保存の方法を考へたい。
(2)標準語は全県民残らずつかへなくてはいけない。奨励の方法は考へて戴きたい。方言も国語、解する事も又嬉しい。
世禮國男(二中教諭)
沖縄の古典文化 就中美術工芸は中央の学者の深い研究と地方文化としての高い評価がある。けれども歌謡方面は言語の問題があるために、郷土出身者の徹底的研究に俟つ外はない、私はおもろが、日本歌謡史に一頁を占めることが出来るやう、又その時期が早く到来するやう祈る者である。
屋部憲(書家)
沖縄地方文化の保存及び改善に就いては、各個人の意見を取り纏むべき組織化されたる機関を持ち、各部門の意見を良く討議して最善なる方針の下に直ちに実行に移すことで、従来斯かる問題で議論倒れになったのは実効性に富む強力なる機関が無かった為では無いかと思はれます。
宮里栄輝(開南中学教諭)
1、日本文化の一環としての琉球文化を過大評価することなく、郷土の古文化を明日の文化建設にの為に有効適切に生かすことこそ過去の文化財を保存する所以であり、それが又正しき文化政策であると信ずる。本問題に関する過去の幾度かの困乱を思ひ、翼支文化部あたりの奮闘を望むこと切である。
1、標準語 標準語奨励を阻まんとする者一人もなく、方言を卑下する者又尠し、標準語問題の動向自ら明らかなるべし。
1、演劇、演劇の世道人心に及ぼす影響が他の文化部門に比し遥かに大なるを痛感すれ共その具体的改善方法に就いては知る所尠し。
又吉康和(沖縄新報常務監査役)
○過去の文化財の保存、お互いに認識を深めることが先決問題ではないでせうか。認識不足は国宝にさへ顔を背ける危険があるから。・・・但歌踊に就いては卑俗低調な流行唄の類は断然整理すべきである。然し豪宕雄勁キビキビした大衆に魅力るリズムはよし。それが異国情調でも東亜民族共存共栄圏への用意に研究すべきだと思ふ。 
○将来への文化の動向、史家は明治維新後の我国の文化が急速の進歩をした原因の一として江戸期に於ける参勤交代の制度が標準語普及の上に役立ち、廣く会議を起こすに当たり意志の疎通に便ならしめた點を擧けている。現に秀吉が九州征伐をした時は通弁を使用したさうである。沖縄語は学問上は貴い資料のさうだが死語となって不便である。その不便を除去する為めわれわれの先輩は置県以来標準語奨励に一貫して来た。然し沖縄語は日本語でないと云ふ途方もない間違った観念から方言を禁止することは慎まねばならぬ、演劇の改善は複雑だから一言には尽くせない。指導者階級の善処を切望する。
東亜の愛情を求めて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・富原初子・・・・・・7
屍を越えて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
産後銃後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川正通・・・・・・・12
 (略)母は私達の生まれる前から、春風秋雨、夏冬の分ちなく、渡地中島辻と那覇三村の街々を素足で頭の上には重い石油と更に重い一家族の生命を載せてその石油を行商しながら良人と我々3人の兄弟妹を何不自由なく育てて下さったー自分は多くの不自由を忍びつつ。地球上の如何なる名花、如何なる香料の香よりも私は石油の香が好きだ。私は死ぬ時は石油の香を嗅ぎつつ死に度い。母の背中に負われて嗅いだあの石油、幼年時代の全ての思ひ出を秘めているあの石油の香を。

 那覇の電燈は伝統的に暗い。私の母が石油を売っていた時代の那覇の夜は今の那覇の夜よりも、断然明るかったに違ひない。私は自分の母ながら、母を那覇を明るくした恩人の一人に数へさせて戴き度い。その母の為にも尊い石油を空費する米英の巨頭一味は憎むべき敵だ。親の仇を討つ日本精神の強烈さに於いて私は敢て曾我兄弟に譲らない。米英の戦争挑発さへ無かったらば石油は人類殺戮の為に悪用されず、人類の福祉向上の為に善用されたであらう。

琉球の橋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊東忠太・・・15
東京の思出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・尚順・・・・16
水仙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小野十露・・18
勇敢なる糸満人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東恩納寛惇・・・19
文化沖縄「或る種の趣味から言ふと”文化沖縄”といふ表題、つまり雑誌名にはあまり好感が持てないといふ。成程文化鍋、文化草履、文化住宅、等、等と冠に文化といふ字をくつつけた品物にロクな物は無かった。(略)けれども”琉球文化”が過去の文化の意である代わりに”文化沖縄”といふ言葉の中には将来に対する意が含まれている。”文化沖縄”は、沖縄人が未来への大きな希望でなけでばならない。今は戦争と同時に建設の時代であると言はれている。従って大東亜共栄圏の一翼であり、南方への基地たる沖縄の新しい文化は、それだけ重要であり、又その建設は吾々沖縄人の手によって為すべきでありまた為さなければならない。東條首相は沖縄で着陸第一声、沖縄工芸の自給自足を説かれたが、旧藩以前、沖縄の工芸は殆ど自給自足であった。現在、工藝品のみが、日用品の大部分は殆ど本土からの輸入を仰いでいるが、せめて工藝品ばかりでも県内自給自足の体制をとりたいものである。恐らく、陶器は指導の如何に依って、明日からでも県内の需要を充分満たし得るであらう。漆器は、自給自足どころか、かへって県外や外国に輸出していた位だから、漆不足の今時でも県内の需要を満たしてなほ余りがある。何よりも面倒なのは繊維製品である。(略)ブーゲンビル島沖に、ギルバート諸島沖に、マーシャル諸島沖に、櫛の歯を引くやうな戦果に応へて、米英撃滅の決意を新にし、戦力増強に邁進しゃうではないか。」・・・20-21
武士の家庭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新崎寛直・・・・22-25
玉御殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山口由幾子・・23
空・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊良波長純・・・25ー27
或る刑餘者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉良輝・・・27-28
もののつながり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嘉手川重利・・・・28-31
学徒決意・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西幸夫・・・・・・・・・・29
猿年に因んで植物名の二三・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多和田眞淳・・・31-32
時言「東亜精神の昂揚」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33
思想戦の勝利・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眞榮田義見・・・・・・34-35
琉歌「世界の大いくさ世直しのいくさ あたて物知ゆさ國のお蔭」・・・鷺泉・・・35
過去の美学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・柳宗悦・・・37
 個人主義的な自由な振舞、自由な主張は美術家の特権であるかの如く考へられて来ました。多くの天才は悪魔的なもの、廃頽的なもの虚無的なもの、神経的なもの時としては醜悪なものにさへ美の対象を求めました、併し是等の自由主義芸術が吾々に示したものは畢竟変態的なもの、病的なものに外ならないでせう。是等のものも一種の美ではあり、或時代に存在理由を有ったものではありませう。併し是等の美によって人間の幸福が約束されたわけではありません又かかる異常な美が最高のものとか最善のもととかのいふ意味にもならないのです。或る過渡期の特殊現象といふ迄に過ぎないのです。美の世界での自由主義は、多くの秩序を破壊しました。多くの尊い伝統を犠牲にしました。併しそれはもう過去の美学に過ぎないのです。
郷土史物語ー牧志恩河の勤皇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山里永吉・・・・38-44
沖縄のかすり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中俊雄・・40-41
琉球堂書舗 移転広告ー那覇市久米町1丁目二十四番地・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44
編集後記ー用紙不足の限られた頁数では思切った編輯も出来なかった。それに雑誌報国のたてまへから国体観念の昂揚に資するか戦力増強の一助ともならなければ、文化沖縄の存在理由も無い訳である。従って編輯が一律になる事は当然であらう。
決戦下必勝の新年を奉賀候 昭和十九年元旦 文化沖縄社「新崎盛珍、山里永吉、大嶺眞英、持主・馬上太郎」

山里永吉「編集後記」○新年号だから新年らしい編輯と考へたのであるが、用紙不足の限られた頁数では思い切った編集も出来なかった。それに雑誌報国のたてまへから国体観念の昂揚に資するか戦力増強の一助ともならなければ、文化沖縄の存在理由も無い訳である。従って編輯が一律になる事は当然であらう。(略)尚順男は我国国運進展の跡を顧られて逐次東京の思い出を執筆される事になった。石川正通氏の英文学者としての感想は微笑ましいといふより寧ろ痛快である。