07/28: 愛知/麦門冬・末吉安恭の甥/佐渡山安治
「江戸上り」研究家・佐渡山安治
後左ー佐渡山安治氏
麦門冬・末吉安恭の甥/佐渡山安治著作目録(抄)
1935年 『紫煙』 佐渡山安治「俳諧からみた煙草」
1942年『日本及日本人』3月号 佐渡山生「楓橋夜泊の詩」/『日本及日本人』8月号 莫生「アルコールの原料」「鼓山の禅師」/『日本及日本人』9月号 莫生「生味噌の效」
1943年『日本及日本人』5月号 莫生「琉球馬」
1974年 5月ー『琉球の文化』第5号「辻の話(佐渡山安勇遺稿)」
1975年3月16日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー琉球の棋客」/7月13日ー『沖縄タイムス』「墨俣宿の灯籠」
1976年3月13日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー琉球塚」/7月2日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー程順則の片りん」/7月20日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー唐海賊情報」
1977年/3月15日ー『沖縄タイムス』「『富士山の漢詩』について」/ 6月ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー行路難」/8月18日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー雅懐」/12月ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー伊波普猷の憤慨」
1978年1月10日ー『沖縄タイムス』「ブサーばなし」/ 5月25日ー『沖縄タイムス』「『江戸上り』の吟行と萍水奇賞」
1979年5月17日ー『沖縄タイムス』「風禍」
1980年 8月ー『沖縄アルマナック』「江戸上り賛歌」
1982年11月22日ー『沖縄タイムス』「鞆の浦哀歌ー琉球司楽向生碑を訪ねて」/11月27日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー花売りの縁作者考」
森銑三①→佐渡山安治宛葉書
①森 銑三モリ センゾウ-大正・昭和期の書誌学者,随筆家
生年明治28(1895)年9月11日 没年昭和60(1985)年3月7日
出生地愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)
学歴〔年〕文部省図書館講習所〔大正15年〕卒
主な受賞名〔年〕読売文学賞(第23回・研究翻訳部門)〔昭和46年〕「森銑三著作集」
経歴郷里の刈谷図書館開館に伴い寄贈された国学者・村上忠順の蔵書整理・目録編纂に従事。東京大道社、代用教員、市立名古屋図書館などを経て、東京帝大史料編纂所勤務。この間、三古会、伝記学会などを創立。昭和14年尾張徳川家・蓬左文庫主任。近世の埋もれた人物の発掘、研究に力を注ぎ、在野の歴史家として「平賀源内」「渡辺崋山」「池大雅」ら多くの人物研究、伝記を手がけたが、戦災により一切の研究資料を焼失し人物研究を断念。23年古典籍商である弘文荘に入社。傍ら、25〜40年早稲田大学講師として書誌学を講じたが、その間“西鶴の浮世草子は「好色一代男」だけで他は西鶴自身の著作ではない”と論じて学界に波紋をまき起こした。主著に「近世文芸史研究」「おらんだ正月」「井原西鶴」「明治東京逸聞史」などがあり、「森銑三著作集」(全12巻・別巻1 中央公論社)、「森銑三著作集続編」(全16巻・別巻1)がある。→コトバンク
1671年(寛文11)5月28日、島津光久、琉球謝恩使金武王子朝興を伴い、鹿児島を出発/6月5日、京泊を出船/26日、大坂着岸/7月10日、伏見を出発/21日、江戸着/28日、琉球謝恩使金武王子朝興、徳川家綱に拝謁/8月7日、金武王子朝興、寛永寺に参詣/8日、琉球人、大老酒井忠清の邸において楽を奏す/19日、琉球謝恩使、江戸を出発/24日、幕府、琉球謝恩使を引率した島津光久に、米2000俵を与える/9月29日、琉球謝恩使鹿児島到着
1682年(天和2)2月6日、島津綱貴、琉球慶賀使名護王子朝允を伴って鹿児島を出発、参勤の途に就く/22日、平島(川内)を出船/3月6日、大坂に着船/19日、伏見に至る/22日、伏見を出発/4月6日、江戸に到着/4月11日、琉球慶賀使名護王子朝允、江戸城に登り、綱吉に拝謁/4月14日、琉球人、江戸城で音楽を奏す/16日、琉球慶賀使、帰国の暇を賜る/28日、江戸を出発/6月23日、鹿児島に到着
1709年(宝永6)5月、この月より10月にかけ、強風が吹き荒れ、大飢饉となる。/7月13日、尚貞王、没(65歳)/11月20日、首里城、火災。城内の殿閣、ことごとく焼失
1710年(宝永7)7月18日、琉球慶賀使ならびに謝恩使、鹿児島に到着/閏8月26日、島津吉貴、琉球国王尚益の使者美里王子朝禎(慶賀使)・豊見城王子朝匡(謝恩使)を召し連れ、鹿児島を出発/9月21日、豊前国大里着、翌日、同地出船/10月7日、播磨国室津着船/10日、兵庫津着船/11日、大坂津着船、翌日、大坂屋敷に入る/19日、大坂出発/20日、伏見到着、25日出発/東海道を経て11月11日、江戸到着/11月16日、島津吉貴、琉球使節を召し連れた功により、従四位上左近衛中将に叙任。幕府、島津吉貴に、琉球使節の賄いのため米3000俵(これより前は2000俵)を賜う/11月18日、琉球使節、美里王子朝禎(慶賀使)・豊見城王子朝匡(謝恩使)、江戸城に登り、家宣に謁して尚益ならびに自らの献上物を奉呈/21日、琉球人、江戸城において音楽を演奏/23日、琉球使節、帰国の暇を賜わる/30日、琉球使節、上野の寛永寺に参詣/12月3日、井上因碩、琉球人屋良里之子に碁の免状を贈る/12月18日、琉球使節、江戸を出発
1711年(正徳)1月8日、琉球使節、伏見到着、新井白石、美里・豊見城両王子に会う/2月16日、琉球使節、鹿児島到着/3月3日、琉球使節、薩摩国山川を解纜して琉球国に向う
1712年(正徳2)6月、島津吉貴、琉球国司尚益に、国司を改め中山王と称することを許す
1832年の中山楽童子 向克灼・宇地原里之子(翁長良明コレクション)
後左ー佐渡山安治氏
麦門冬・末吉安恭の甥/佐渡山安治著作目録(抄)
1935年 『紫煙』 佐渡山安治「俳諧からみた煙草」
1942年『日本及日本人』3月号 佐渡山生「楓橋夜泊の詩」/『日本及日本人』8月号 莫生「アルコールの原料」「鼓山の禅師」/『日本及日本人』9月号 莫生「生味噌の效」
1943年『日本及日本人』5月号 莫生「琉球馬」
1974年 5月ー『琉球の文化』第5号「辻の話(佐渡山安勇遺稿)」
1975年3月16日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー琉球の棋客」/7月13日ー『沖縄タイムス』「墨俣宿の灯籠」
1976年3月13日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー琉球塚」/7月2日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー程順則の片りん」/7月20日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー唐海賊情報」
1977年/3月15日ー『沖縄タイムス』「『富士山の漢詩』について」/ 6月ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー行路難」/8月18日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー雅懐」/12月ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー伊波普猷の憤慨」
1978年1月10日ー『沖縄タイムス』「ブサーばなし」/ 5月25日ー『沖縄タイムス』「『江戸上り』の吟行と萍水奇賞」
1979年5月17日ー『沖縄タイムス』「風禍」
1980年 8月ー『沖縄アルマナック』「江戸上り賛歌」
1982年11月22日ー『沖縄タイムス』「鞆の浦哀歌ー琉球司楽向生碑を訪ねて」/11月27日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー花売りの縁作者考」
森銑三①→佐渡山安治宛葉書
①森 銑三モリ センゾウ-大正・昭和期の書誌学者,随筆家
生年明治28(1895)年9月11日 没年昭和60(1985)年3月7日
出生地愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)
学歴〔年〕文部省図書館講習所〔大正15年〕卒
主な受賞名〔年〕読売文学賞(第23回・研究翻訳部門)〔昭和46年〕「森銑三著作集」
経歴郷里の刈谷図書館開館に伴い寄贈された国学者・村上忠順の蔵書整理・目録編纂に従事。東京大道社、代用教員、市立名古屋図書館などを経て、東京帝大史料編纂所勤務。この間、三古会、伝記学会などを創立。昭和14年尾張徳川家・蓬左文庫主任。近世の埋もれた人物の発掘、研究に力を注ぎ、在野の歴史家として「平賀源内」「渡辺崋山」「池大雅」ら多くの人物研究、伝記を手がけたが、戦災により一切の研究資料を焼失し人物研究を断念。23年古典籍商である弘文荘に入社。傍ら、25〜40年早稲田大学講師として書誌学を講じたが、その間“西鶴の浮世草子は「好色一代男」だけで他は西鶴自身の著作ではない”と論じて学界に波紋をまき起こした。主著に「近世文芸史研究」「おらんだ正月」「井原西鶴」「明治東京逸聞史」などがあり、「森銑三著作集」(全12巻・別巻1 中央公論社)、「森銑三著作集続編」(全16巻・別巻1)がある。→コトバンク
1671年(寛文11)5月28日、島津光久、琉球謝恩使金武王子朝興を伴い、鹿児島を出発/6月5日、京泊を出船/26日、大坂着岸/7月10日、伏見を出発/21日、江戸着/28日、琉球謝恩使金武王子朝興、徳川家綱に拝謁/8月7日、金武王子朝興、寛永寺に参詣/8日、琉球人、大老酒井忠清の邸において楽を奏す/19日、琉球謝恩使、江戸を出発/24日、幕府、琉球謝恩使を引率した島津光久に、米2000俵を与える/9月29日、琉球謝恩使鹿児島到着
1682年(天和2)2月6日、島津綱貴、琉球慶賀使名護王子朝允を伴って鹿児島を出発、参勤の途に就く/22日、平島(川内)を出船/3月6日、大坂に着船/19日、伏見に至る/22日、伏見を出発/4月6日、江戸に到着/4月11日、琉球慶賀使名護王子朝允、江戸城に登り、綱吉に拝謁/4月14日、琉球人、江戸城で音楽を奏す/16日、琉球慶賀使、帰国の暇を賜る/28日、江戸を出発/6月23日、鹿児島に到着
1709年(宝永6)5月、この月より10月にかけ、強風が吹き荒れ、大飢饉となる。/7月13日、尚貞王、没(65歳)/11月20日、首里城、火災。城内の殿閣、ことごとく焼失
1710年(宝永7)7月18日、琉球慶賀使ならびに謝恩使、鹿児島に到着/閏8月26日、島津吉貴、琉球国王尚益の使者美里王子朝禎(慶賀使)・豊見城王子朝匡(謝恩使)を召し連れ、鹿児島を出発/9月21日、豊前国大里着、翌日、同地出船/10月7日、播磨国室津着船/10日、兵庫津着船/11日、大坂津着船、翌日、大坂屋敷に入る/19日、大坂出発/20日、伏見到着、25日出発/東海道を経て11月11日、江戸到着/11月16日、島津吉貴、琉球使節を召し連れた功により、従四位上左近衛中将に叙任。幕府、島津吉貴に、琉球使節の賄いのため米3000俵(これより前は2000俵)を賜う/11月18日、琉球使節、美里王子朝禎(慶賀使)・豊見城王子朝匡(謝恩使)、江戸城に登り、家宣に謁して尚益ならびに自らの献上物を奉呈/21日、琉球人、江戸城において音楽を演奏/23日、琉球使節、帰国の暇を賜わる/30日、琉球使節、上野の寛永寺に参詣/12月3日、井上因碩、琉球人屋良里之子に碁の免状を贈る/12月18日、琉球使節、江戸を出発
1711年(正徳)1月8日、琉球使節、伏見到着、新井白石、美里・豊見城両王子に会う/2月16日、琉球使節、鹿児島到着/3月3日、琉球使節、薩摩国山川を解纜して琉球国に向う
1712年(正徳2)6月、島津吉貴、琉球国司尚益に、国司を改め中山王と称することを許す
1832年の中山楽童子 向克灼・宇地原里之子(翁長良明コレクション)