1929年1月27日『臺灣日日新報』(仲村顕氏提供)
○屏東南洋医院主伊江朝貞氏が嘗て大手術を受けて或は再び起ち得ぬ事ともならば、とて家に伝わる父祖の偉業の蹟、琉球王国の秘話を纏め、沈黙を破りてと題して綴ったものを資料として未だ見ぬおきなはを覗いて観る独立の王国であった日本に貢し明朝に貢し反覆極まりなかりし両属の国、それが平和な忠誠な今日の沖縄県の前身である。平和であり忠誠であるだけ現在の朝鮮やた臺灣の住民の一部に流れる或種の思想に鑑みおきなは物語を書く事とした。(麦門冬)

1929年3月『沖縄県人事興信録』「伊江朝貞」

新垣信一(1887年~1945年)
首里の石川和男氏から1915年1月発行の新垣信一訳編『琉球語讃美歌附箴言』資料、CDが贈られてきた。
□石川和男 みどり印刷〒903-0823沖縄県那覇市首里大中町1-36-2 TEL098-884-3702


新垣信一略年譜
1887年11月25日 西原間切末吉村の農家の長男として生まれる
1907年3月 新垣信一、沖縄県師範学校卒業、同期に島袋源一郎、大山岩蔵が居た。→1982年1月 大山一雄、山川岩美『遺稿・回想 大山岩蔵』
           宜野湾尋常高等小学校訓導
1908年2月   日本メソヂスト首里教会大保富哉氏より受洗
1915年1月 「標準語励行の喧しい時代に於いてなお、琉球語(方言)は農村地域では心に響く言であり、『太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。』(ヨハネ傳福音書第一章第一節)に説く如く、新垣信一師が津覇傳道所(日本基督教会首里傳道所の伊江朝貞指揮監督のもと)を設立してすぐに、その傳道の書として『訂正増補琉球語賛美歌及箴言』を出版したのも茲にその基があるといえよう。」
1930年2月 新垣信一訳編『増補改訂琉球語讃美歌附箴言』那覇基督教会青年会 印刷者・照屋寛範
1934年7月 新垣信一訳編『改訂増補琉球語讃美歌附箴言』那覇基督教会青年会 印刷者・照屋寛範

CD「首里日本基督教会牧師 新垣信一譯編 増補改訂琉球語讃美歌附箴言」


巌谷小波 1870‐1933(明治3‐昭和8)
明治・大正期の作家,児童文学者。本名季雄,初期別号(■1)山人(さざなみさんじん)。東京生れ。父の一六は貴族院議員で書家として著名。裕福な家庭に育ったが,医者への道を歩ませられることをきらい,周囲の反対の中で文学を志して進学を放棄し,1887年文学結社の硯友社(けんゆうしや)に入る。尾崎紅葉らと交わって小説を発表したが,少年少女のセンチメンタルな恋愛を描く作品が多く,この傾向は,児童文学に転ずることによって成功する。(→コトバンク)


巌谷小波



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末吉麦門冬/2002年2月27日『沖縄タイムス』

片山春帆
昨年の12月18日、国立劇場おきなわの資料展示室で「片山春帆記録画帳」を見た。「片山春帆民俗芸能記録画帳」研究会の片山春帆年譜によると、春帆は1879年頃東京に生まれている。1897年,村上弦斎『日出島曙の巻』に挿絵を描いている。1901年には博文館発行の巌谷小波作品に挿絵を担当するようになった。1939年、アチックミューゼアム発行の「アチックミューゼアム彙報 第39 御鷹匠同心片山家日常襍記抄」に春帆は「はしがき」を書いている。『図説 絵本・挿絵画家事典』(大空社2008・11)には、別号雲汀、呼潮。竹内桂舟、川合玉堂に学び、その画風を究め、中沢弘光に洋画を学ぶ。と記されている。