2月1日の地元2紙はアメリカ作家ジョージ・ファイファー山口栄鉄訳「これがわが米国の沖縄への対し方か」を連載している。これらの良識派と連携するのは「オール沖縄」が急務で早急に着手すべきものだ。「オール沖縄」の保守派も革新票をあてにせず自分の人脈を本気で駆使すべきだろう。あるルポライターは「今回の現職勝利の背景には、若い保守系政治家の活発な組織化活動の成功もあったのではないか、逆にいえばそれに匹敵する若年層の活発な運動をオール沖縄側が構築できなかったのではないか」、と書く。1月30日の新報の友寄貞丸「かちゃいほーちゃい 週刊誌時評」に、1月12日の衆院予算委員会でアベ総理が「アサコール」を3錠飲んでいるところをカメラがとらえた。この薬は脳がストレスを受けて神経質になったり、鬱になることもある、と記す。同日のタイムス大弦小弦はSTAP細胞の論文著者だった小保方晴子の著書にふれている。同日、沖縄県立博物館・美術館で島尻科学技術政策担当も参加して「理工系女子の未来を考えようin沖縄」があった。これなどは保守系政治家の活発な組織化の一環だろう。

 宜野湾市長選挙が終わり、全国の新聞社説は宜野湾市長選挙についてアベ派読売の「普天間固定を避ける一歩に」、アベ派産経は「基地移設を着実に進めよう」とアベ政治讃美派だが、沖縄に理解が深い東京、朝日は「辺野古容認ではない」、と明言。毎日も「アベ政権が総力戦を展開する中で志村氏が一定の票を得たのは、市民の間に、普天間の返還自体は、当然としながらも、同じ沖縄に基地を移転することへの抵抗感があったことを物語っている。」と見る。選挙が終わった途端、那覇空港過密化となる航空自衛隊員が300人増えるという(1月27日 『琉球新報』)。地元商業2紙が肝心のアメリカの暗躍は無視し「伊波さんの責任」とオール沖縄の保守派の企業人に言わしめている。今度の志村氏の票は前回の伊波洋一さんの得た票なみで保守票が全く取れなかった。逆にアメリカの指示によるアベ政権の総力戦で保守票がきり崩された結果であろう。伊波さんは真面目すぎるイメージがあるので保守派からは頼りないと見られているのだろう。現在は「ちょい悪」の石原元東京知事やハシシタ元大阪市長みたいのが人気があるので保守票向けに「野蛮人」イメージも必要かと思われる。しかしアメリカ・アベ国家権力を相手によくやったという感じだ。この選挙で学習したことはアメリカの平和団体や環境保護団体と強力に連携することだろう。


写真左から新城栄徳、伊波洋一氏①
①沖縄県宜野湾市生まれ。沖縄県立普天間高等学校、琉球大学理工学部物理学科卒業。1974年、宜野湾市役所に就職。在任中、当時全国でもまれであった自治体業務の電算化を手がけた。1996年、宜野湾市役所を退職して沖縄県議会議員選挙に出馬し、初当選。2000年に再選。2003年、2期目の任期途中で辞職し、宜野湾市長選挙に出馬して当選する。2007年、宜野湾市長再選。市長在職中、沖縄県内の地方自治体で初めて中学生までの病院への入院費の無料化を実現した。→Wikipedia


地元紙の『琉球新報』「天下り14社 辺野古受注」と中谷元・防衛相の答弁を報じている。同紙と『沖縄タイムス』は甘利明経済再生担当相の金銭授受疑惑も報じている。何に使ったか分からないが、政党助成金では足らないのか。(2016年1月22日『琉球新報』「天下り14社 辺野古受注」)

遣等を含む日米間調整の検討」を挙げた。 自衛隊は、いつ「軍」になったのだろうか。国会では度々、自衛隊が「軍」ではないと確認されてきた。 安倍晋三首相は3月の衆院予算委員会で、その自衛隊を「わが軍」と呼んだ。野党の追及を受け「(今後は)使わない」(首相)とした。その後作成された資料に軍と記された事実は、自衛隊を「軍」であると認めないことで専守防衛に徹してきた歯止めが、法案が成立すれば取り除かれることを表している。三つ目、法案の性質を最も端的に示したのが資料冒頭で詳細に記述された日米ガイドラインだ。県選出の国会議員・赤嶺政賢氏(共産党)は「法案はガイドラインを実行するための手段」とみる。 安倍首相が今春、国会で審議を尽くすより先に、米議会で法案成立を約束したのもうなずけよう。 法案によって日米の軍事一体化は進み、自衛隊は米軍の「下請け」機関となる。減少傾向とはいえ国防費年60兆円、世界の軍事費の3分の1を占める巨大な軍の前に、文民統制が揺らいでいる。


2014年12月12日ー国場候補の応援に甘利経済再生担当相が来ているが周辺は閑散としている。甘利 明は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員、内閣府特命担当大臣、さいこう日本代表。 自由民主党政務調査会長、労働大臣、経済産業大臣、内閣府特命担当大臣等を歴任した。 戦国時代の武田氏の重臣で知られる甘利虎泰の子孫である。元衆議院議員の甘利正は父。 ウィキペディア




2010年4月 山口栄鉄『英人日本学者チェンバレンの研究』沖積舎
Ⅰ チェンバレン日本学の淵源
1 あゝ日本、琉球島よ
2 「欧文日本学」理論の提唱
3 欧米における琉球観の淵源と日本学評価への道程
Ⅱ 英人日本学者誕生
4 「王堂チェンバレン」
Ⅲ 草創期のチェンバレン日本学
5 異国日本へ
Ⅳ 国語学界を揺るがすチェンバレン

6 日本最古の典籍に挑む
7 東京帝大奉職
8 記述文典の編纂  アイヌの世界へ
Ⅴ チェンバレンの日本観
9 『日本事物百科』ー欧人の日本理解へのガイド
10 ラフカディオ・ハーン来日の背景
11 日本観の相克ーチェンバレン  ローウェル ハーン
12 敷島の大和心
13 科学する心・詩の心~芭蕉俳諧論
Ⅵ チェンバレン家  琉球王府  宮の下
14 杉浦  琉球王家  チェンバレン文庫


写真左から尚昌、2人目不詳、チェンバレンの愛弟子の杉浦藤四郎、神山政良

□尚昌参考資料


Ⅶ チェンバレンの遺志を継ぐ皇典講究所の俊才
15 田島利三郎ー「幻の古文書」を求めて
16 『琉球史料本 おもろさうし』の幻影ーその実像と虚像
17 効験ある詞
18 光輝ある系譜
Ⅷ チェンバレン書誌考
19 初期琉球学関係書誌
Ⅸ 史料にみる老翁チェンバレンの晩年
20 離日、そして晩年
21 巨星ジュネーブの地に墜つ
22 『いまだに鼠は死なず』ー今、明かす秘められた謎
書誌
1 チェンバレン原著目録
2 単行本・特集誌・書簡集・特殊文庫(抄)
3 欧文日本学関係原著集成