「南風原朝保」関連記事
1938年
12月1日ー『大阪球陽新報』「台北沖縄県人会(会長・名嘉山安忠医師)の伊禮参与官歓迎会/台北蓬莱閣で」(写真)
1939年
4月1日ー『大阪球陽新報』「南風原朝保氏/医学博士に/血液型に関する研究」
8月20日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「素晴らしい琉球の芸術と誇るべき人情美/18年振りに帰省した郷里の印象」
11月1日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「医者と絵画」/「台北沖縄県人会の新陣容/会長に南風原博士、幹事に川平朝申」
1940年
1月15日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「台北だより」
2月1日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「余は沖縄人を誇りとする」
12月1日ー『大阪球陽新報』南風原朝保「沖縄風俗画に就いてー今年の総督府展よりー」






南風原朝保の娘りり




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歌人・名嘉山安忠略歴
1882年
2月5日ー沖縄県首里桃原町1丁目13番地に生まれる。名嘉山安正の三男
1889年
4月ー那覇尋常高等小学校に入学
1896年
4月ー沖縄県立中学校に入学
1901年
3月ー沖縄県立中学校卒業
4月ー長崎医学専門学校に入学
1905年
11月ー長崎医学専門学校卒業。上京して東京鈴木胃腸病院にて研究に従事
1906年
     内務省医師免許状を受く
1907年
11月ー渡台 台湾総督府台北医院医務嘱託として小児科勤務
1908年
12月10日ー台北市京町3丁目3番地に小児科専門として開業、蓋し台湾に於ける小児科専門開業の嚆矢なり
1909年
4月3日ー鹿児島県人前田兼吉妹トミと結婚
1911年
3月6日ー長女嘉子生まれる(1933年1月ー島内家に嫁す)
1912年
3月10日ー長男安孝生まれる(1939年3月ー京都帝国大学法学部卒業)
1914年
1月12日ー次女幸子生まれる(1933年1月16日ー死去)
1916年
10月20日ー次男徹生まれる
1918年
9月3日ー三男繁生まれる。11月28日ー鹿児島県鹿児島郡谷山町上福元4319番地に典籍
1920年
10月27日ー三女昌子生まれる
1922年
11月ー開業の傍ら台湾総督府医務嘱託殖産局勤務を命ぜられる
1926年
6月ーあらたまに入会、樋詰正治の勧誘による。同人は平井二郎、濱口正雄、八重潮路(樋詰正治)、植村蘭花、邦瀬隆(國枝龍一)、尾崎孝子、廣瀬義雄、下俊吉、工藤誠等なり。専ら平井氏の指導を受く。10月ー小夜更天の筆名を以て初めてあらたま誌上に短歌10首を発表。11月ー故山東須麿、妹尾豊三郎氏等と共に「五人集」に特選せらる  
1927年
4月ーあらたま準同人制設けらるるや準同人として推薦せらる。5月ー台北市朱厝崙公学校校医を嘱託せらる。11月ー歌集「攻玉集」合著
1935年
4月ー歌集「台湾」を合著
1937年
12月ーあらたま同人に推薦せらる
1938年
10月ー台北沖縄県人会(名嘉山安忠会長)、台北蓬莱閣で台湾重要物産特別委員会出席のため来台した伊礼拓務参与官歓迎会。

1939年
2月10日ーあらたま月例会に出席、あらたま人等と会合せる最後のものとなる。4月号あらたま誌上に短歌5首発表、最後となる。3月28日ー病を得、28日ー吉田医院にて死去す。30日ー午後5時、樺山町浄土宗別院にて葬儀を行う会葬者6百余名。

昭和15年6月14日『琉球新報』南風原朝保「名嘉山安忠歌集に就いて」

1912年11月29日生まれ。首里当蔵出身。1938年、台北帝大附属医専卒。軍医として軍務に服した後、1945年、臺灣新竹州大湖陸軍病院長、1946年、帰沖、沖縄民政府医官。1950年、金武保養院長(サナトリウム)および琉球結核科学研究所所長。1952年、沖縄の結核実態調査に参加し、結核対策の基礎資料を作成した。琉球結核予防会設立に代表の一人として尽力。理事に就任。琉球政府社会局長として初めて結核患者本土送出療養制度を実現した。1960年、那覇市寄宮にて開業。1961年、那覇市医師会理事に就任以後、沖縄県医師会常任理事、副会長、代議員会議長を務めた。2011年1月15日死去。

伊豆見元俊