1920年5月ー『沖縄時事新報』莫夢生「平敷屋朝敏の事共」
序言
同人上間草秋君の新作「或る恋歌」は本紙に連載されて好評を博したが、今度若葉団で上場することとなり、目下評判になりつつある。私も初日と二日と二回続けて見たが、平生と違い俳優一同車輪になって働いているので、観客も緊張しているようであった。その劇評は同人の紅華君が遣ったから屋上屋を架することは罷めて、私は上間君と兼々約束もあいてあったし、茲に主人公平敷屋朝敏の事を一寸書いて見よう。平敷屋朝敏の伝記は真境名安興君が先年物されたのがあって彼の事蹟に就いては殆ど尽されているようであったから、私はそれに洩れた逸話並びに彼に関する断片的事実を集めることにする。大田先輩が本紙に連載された「与勝半島」の中にも、私は一寸筆を執って与勝半島に関係した彼のことを書いたから、それも重複を避けることにした。
朝敏の幼時
平敷屋朝敏の父は向文徳禰覇親雲上朝文と云い、母は湛氏とある。父朝文には室馬氏幸地親方良象の女真加戸樽と云うのがあるから、馬氏は前妻で、朝敏の母湛氏は後妻であったのであろう。父朝文は我が宝永三年四月十三日、に不幸享年二十九で没したのであるから享保十九年十一月二十三日生まれの彼が数え年僅かに七歳にして父に別れたこととなる。彼は姉の真加戸樽と妹の思乙金、弟の禰覇の三人の同胞があった。父を失った兄弟姉妹は母の手一つに育てられたのであるから、家計は裕ではなかったことと想像さるる。裕福な家に育たなかった彼が人一倍苦学力行したことも又窺い知られるのである。
國の字の点  少年時の師  龍洞寺心海
心海の神通力(一)  心海の神通力(二)  秘密の古墳  
朝敏の頓智  酒と恋愛  此歌の別説  「或る恋歌」
美貌と香臭
平敷屋の美貌は人口に膾炙することであるが又彼には躰に一種の香臭があったとのことである。これ□□小姓時代のことだそうだが、同僚の者が何時も不思議に感ずるのは朝敏が座に就くと何とも云えぬ香ばしい匂いが漂うことであった。いづれもこれを不審なりとし遂に評判になった。或者はそれは彼が匂い物を身につけた為である。衣服の洒落なら兎に角男子として匂い物を身につくるなどとは余りに若気過ぎたざまであると誹り或いは面責してやろうと云う者もあったがそれよりも彼に沐浴を勧めてその性躰を慥むるに若くはないと云うことになり態々風呂を沸かして彼を招き何気なく入浴を勧めた。平敷屋も計略のあるとは夢にも知らず勧めらるるままに湯に入りやがて上がりぬれた躰を
拭く時に一同どやどやと入り来り検査を始めた。所が驚くべし馥郁たる香臭はいつもよりは甚だしく自然に彼の皮膚から醗酵する所のものだあったことが分かった。一同も漸く其の邪推なりしことを悟り實を打開けて遂に大笑いになったとのことである。これを或人は腋香の一種だと云ったがそうかも知れない。美男子美女には往々異性を誘惑する体臭があるとのことだが平敷屋も香水要らずのよい物を持っていたものだ。この話は誇張された虚談なりとしても彼が稀有の美男だったということはこれ等の話があるのでも類推さるるのである。
速筆と強記  他所目忍ぶな                    
妻女かめ                                                                                           世の伝ふる所に依ると、下の歌は平敷屋夫婦唱和の歌と云うのである。  夢に夢蔵お側並べたる枕、吹きよおぞますな恋の嵐
上の句を朝敏が詠むと、細君が下句をつけたと云うのである。さてかような歌を詠んだ、平敷屋夫人はどんな才媛であったか、今知る由もないが、其の作ったという下の句の凡手にあらざるを見ても、其の人柄が偲ばるると共に、夫婦仲の円満なりしことも思い遣らるるのである。しからば彼女は如何なる素性の人かと云うに、南山王の系統を引いた阿姓であって、父は阿天壽、知花親方守壽、母は向氏仲田親方朝重の女眞犬金と云い、彼女は名を亀と称し長女であった。元禄13年8月11日の生まれで、夫と同年であるが、月から云うと彼女が長じていた。平敷屋との間に女子一人、男子二人をもうけた。平敷屋が刑死し、其の二人の男の子も流罪に処せられ、家は破滅、憂き困難、其の為に生命を縮めたのか元文4年12月28日即ち夫に別れてから5年の後、享年40歳で彼女も没した。阿姓佐久田家の家譜には   長女亀康煕39年庚辰8月11日生嫁平敷屋、雍正12年甲寅6月26日平敷屋得罪於安謝港八付、島並系記御取揚欠所ニ付貶百姓、乾隆4年巳未12月28日死、享年40號ばい心とある。平敷屋という美男の且つ粋人の妻であるから、彼女も又才貌双絶の佳人であったに違いない。

○私の聴いたこの歌の説は以上の通りだが、故恩河朝裕氏(熱心な琉球の故実研究家であった)の随筆には下のように伝えてある。・・・
○蔡温ー其の性格を儒者一流の弁を以て粉飾するの傾きがある為め門閥を以て一種の誇りとし、自ら文化的、趣味的に於いて優秀なりとした。・・・
○護得久朝常翁の手控本に沖縄の歌人歌学者の姓名並びに生死年代があるがそれに依ると屋良親雲上宣易は順治十五年戊戍の生まれで雍正七年已酉に卒す在世七十二年とあるのである。・・・
文若と朝敏(一)  文若と朝敏(二)
蔡温弾劾落書 千松明蝋燭  東風平親方  屋良親雲上  騎馬の曲者
判官へ助言  朝敏等の判決  罪人の子等  最後の髪結ひ


 『琉歌集 琉歌百控乾柔節流 』初頁に「此の歌集ハ友人恩河朝祐君の公務を帯ひて伊平屋島に出張せし折に同島の某家所蔵の古本より寫して特に予に贈りたるものなり 仲吉朝助記(この歌集は友人の恩河朝祐君が公用にて伊平屋島に出張したときに同島の某家の所蔵の古本から写して私に贈ってくれたものである)」とあり、最終頁に「大清乾隆六十年乙卯正月十日 撰寫より書 壬子 旧六月十五日 寫之」とある。またそれに続く朱書から、大正14年3月10日に伊波普猷に贈られたことがわかる。/『琉歌疑問録』解説 明治33(1900) 1冊 16枚。玉山とは恩河朝祐のことである。琉歌や組踊集についての疑問を箇条書きで書き並べたもの。→琉球大学
 恩河朝祐(1864~1917年)
 1891年、第3回 沖縄中学校卒業
 1892年、知事・丸岡莞爾、那覇役所(長・護得久朝常)兼島尻役所勤務~1900年
 1914年10月7日『琉球新報』「恩河朝祐 宮古在勤中死去 奥平幸昌 屋部憲通 仲吉朝助」
 1914年10月8日『琉球新報』真境名安興「恩河玉山兄を憶ふ」→『真境名安興全集』第四巻
 1920年5月ー『沖縄時事新報』莫夢生「平敷屋朝敏の事共」
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1920年7月20日『沖縄時事新報』に白浪庵(末吉安恭)「龍舟」30が載っています。残念ながらこの1回分しか残っておりませんが、麦門冬の内面が垣間見えるものです。
□汪応祖は腕組みをして独語す。北谷大屋子しばし躊躇して進まず。汪応祖「今俺はたしか刀の柄に手を掛けた。それはあの両人の者を斬ってしまおうと云うのであった。それにしてはこの俺に似合しからぬ料簡ではないか。俺は血腥い戦乱を鎮め、世の中を平和にしたい而して人民の生活を文化的に向上させたい。すべての罪悪をこの社会より根絶させたい。一の理想国をこの南の島の中に実現させたい。こんなことを始終思っている身ではないか。




1915年2月 『琉球新報』末吉麦門冬「琉球饑饉史」
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○古琉球人は多神教であった「冨津加久羅神は天神なり儀来河内は海神なり君手摩神は天神なり荒神は海神なり浦巡神は天神なり與那原召亊は陰陽之神なり月公亊は天神なり河内君真神は海神なり五穀の神は五穀を護衛の神なり」と云う。これらの神が婦人二夫に接せざる者に乗り移って遊び給ふと信ぜられて五穀の神などは節々に出現して人民に福を授け給ふと云うのである。・・・
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麦門冬は真境名安興から貰った『中山世譜』の神名を引用している。
□この文章の下に「円覚寺の建築」の記事が載っている。□県議事堂建築の為め来県忠の工師氏家重次郎氏は此の程県内の古建築を見て廻ったが首里の円覚寺の建築を見て大変気に入り俄かに研究心を刺激したと見えその視たる儘を語りて曰く円覚寺の創建は四百年前のものに係るようだが建築構造すべてが足利時代の特徴を発揮し兎に角見事なものである。伽藍などに少々缼漏のあるのは火災等の為に原型を失ったのでは無いかと思う。山門の石欄等足利時代の産物たる特色を呈している。寺鐘は佛殿前の小なる者が年代古く八百年前のものらしい同寺建築すべてが今は尚家の私有であるが保存上遺憾なからしむには是非国宝にして維持費を要求せなければならぬが自分の見る所では充分国宝たるの価値を有すると思う早く其の手続きをして国宝に編入されたがよい。今のままに打棄って置くのは実に惜しいものだ云々


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冨名腰(船越)義珍が末吉麦門冬に贈った写真



1920年8月『沖縄朝日新聞』「名護朝扶 葬送広告」

麦門冬の家族

写真左から麦門冬の妻・眞松、妹・佐渡山良子、麦門冬の実母ナベ、麦門冬の長男・安慶

麦門冬の娘
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