1915年4月6日 市村光惠法学博士①(京大教授)二見丸で来沖。永田内務部長とは東大の同窓で、島内警察部長、内海課長、島袋全発は親しく京大で博士の薫陶を受けた。
1915年4月8日 琉球新報主催「講演会/講師・市村光惠『國家本位』」
1915年4月10日『琉球新報』市村光惠「國家本位(1)」
1915年4月13日『琉球新報』市村光惠「國家本位(4)」「市村博士、昨日帰京」

1916年1月3日『琉球新報』石川千代松「龍はどうして出現したか」

1916年7月25日 市村光惠(京大教授)大義丸で来沖
1916年7月28日 琉球新報主催「第11回通俗講演会/講師・市村光惠」
1916年7月29日『琉球新報』市村光惠「=軍國主義乎 非軍國主義乎=(1)」

①市村光恵(いちむら みつえ、1875年8月5日 - 1928年9月27日)は、日本の地方政治家、憲法学者。
 明治8年(1875年)8月5日に高知県高岡郡蓮池村芋岡(現・土佐市)に生まれる。明治27年(1894年)高知尋常中学校、明治35年(1902年)東京帝国大学を卒業し、同大学の講師になる。明治36年(1903年)京都帝国大学助教授に、明治42年(1909年)京都帝国大学教授に就任。翌年、法学博士となる。昭和2年(1927年)京都市長に選任されたため、大学を退官し、名誉教授となる。昭和3年(1928年)9月27日、54歳で死去。墓は京都市上賀茂大乗寺境内。→Wikipedia