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『琉球語讃美歌概説』より抜粋 
(キリスト教の日曜)礼拝は祈祷・讃美・聖書朗読で始まるが、その頃は日本語の聖書及び讃美歌が使用され、琉球語の通訳を付けたり講話や説教が琉球語でおこなわれたりした。明治20年西原間切末吉村(現那覇市首里末吉町)で出生した新垣信一は1907(明治40年)沖縄県師範学校を卒業し(同期に宮良長包)1909(明治42年)12月に中部農村の津覇尋常小学校(現中城村津覇小)の訓導となった。首里メソジスト教会員として旧約聖書箴言(しんげん)の要句を琉球語に訳し生徒等の教導に尽くしていたが、讃美歌も琉球語に訳し、自ら「琉球語の聖句並びに讃美歌帳」を編纂した。

 1914(大正3)年4月に津覇日本基督伝道所(教会)を設立、その教本として「琉球語讃美歌及箴言」を出版、1930(昭和5)年2月に改訂して『琉球語讃美歌附箴言』を編纂し、これが戦後も数多く復刻、抄録され、琉球の人々に親しまれてきたものである。琉球語讃美歌60篇琉球語箴言140条である。今日では信徒それぞれの信仰の思いを琉球民謡の節にのせて歌う民謡讃美歌にも展開されている。
 琉球語讃美歌は、H.B.シュワルツ宣教師のもと、伊波普猷、伊波普成(普猷の弟、新聞記者)、浦添朝長氏らにより15篇が訳され、全体で75篇(実数65篇)である。沖縄におけるキリスト教信徒は当初「本土出身者層〈寄留商人・公務員そして、その子弟〉」から「首里や那覇の旧士族層」(明治末)そして「地元の婦女子層〈地方の農村〉」と拡がりを見せるなかで『琉球語讃美歌附箴言』は広い階層と地域で愛唱・愛読され沖縄におけるキリスト教伝道に大いに貢献した。


「琉球語讃美歌」の特徴
 先ず、この讃美歌にはシザという語が(1番・6番・7番・8番・69頁)と6箇所に出て来る。 現代一般に琉球語(ウチナーグチ)を生活の中で使用している人たちにも、このシザは意味不明であろう。日常の会話には使用されていないので解説する。尚、シージャ(兄、姉、年長者)の意とは異なる。シザとは、神に対する生身の人間という意味で仏教で云う衆生(シュジョウ)生命ある全てのものに近い意味であろうと思う。その他、ぬんじゅ(うんじゆ〈貴方の最高形〉が同じく6箇所、しでぃる(拝受する、受け賜る)が5箇所、生(あむ)りみしょちゃる(お生まれになった)等の御殿言葉(うどぅんくとぅば)が随所に使用されていて、讃美歌の持つ荘厳な雰囲気や、文語体の持つ凜とした趣をよく伝えている。また一般の会話には使用されず、琉歌でのみしか使われない「言い回し」を使用することで詩歌としての品格も同時にそなえている。
 一方、「箴言(教訓の意をもつ短い句)」は逆に解りやすい一般会話調に終始していて、キリスト教の枠を超えて新時代に適合する近代合理主義を提唱しているようにも読める。僕が笑っちゃったのは60番「朝ん ゆさん 隣ぬ家んかい 立ち入りすな 後ーにりらりゆん」用も無くむやみに隣家に出入りするな、あきれ果てられるぞ!という意だが実に実践的である。そのような人も多かった(近代人としてのマナーに欠けた人が多くいた)のだろう。

御殿言葉(うどぅんことば)
 琉球語のうち、首里言葉(すいくとぅば)は士族言葉として有名だが実は士族言葉の上に御殿言葉(うどぅんくとぅば)があった。御殿言葉は主に王子・按司およびその家族内で話されていた。例えば、「おじいさん」は士族言葉では「たんめー」。平民言葉では「うすめー」というが、御殿言葉では{ウフジュンジャンシーメー」と云った。中城御殿には王世子の母君「アットーガナシーメー」が暮しておられた。敬語表複雑な御殿言葉は知名茂子著・尚 弘子監修の『松山御殿の日々』に詳しい。戦後、身分制度が無くなると供に〈言葉〉自体も雲散霧消し、昭和30年代頃には、ほぼ完全に使用されなくなったという。

「ぬんじゅ」にまつわる面白い話
親父は、出生前後の両親の離婚により母方の祖母とその連れ合い(血縁は無かったがとても可愛がってくれた)三人で首里当蔵で暮していた。(僕の)曾祖母は初め中城御殿でのちに美里御殿(ンジャトゥウドゥン)でアガマー(女中頭)として奉公し、(父の)義理の祖父は人力車夫として那覇の街に出ていた。ある日、曾祖母は勤め先から3~4歳の女児を家に連れて来ていたが緊張のせいかオモラシをしてしまったそうである。すると曾祖母はその女の子に「ヌンジョー シーバイ シーブサラーヌーンチ シーバイ シーブサン ディ イミソーランガ!」(あなた様はオシッコがしたかったのならなぜオシッコがしたいとおっしゃって下さらないのですか!)と言うなりお尻をまくってペチペチペチと叩いたそうである。当時小学校低学年の親父はそれを見て言葉と行動のギャップに可笑しいやらビックリするやらであったと語っていた。
首里北方(ニシカタ)に集中する御殿・殿内(ウドゥン・トゥンチ)では厳格な身分制度や複雑な敬語表現がありながらも(奉公人は下男下女ではなく)同時に「長幼の序」も並存するという、現代の沖縄県民には理解のしにくい世界があったんだろうと想像する。

 此処からは、勝手な僕の想像ではある。沖縄県民は凄惨な沖縄戦を体験し、戦後の苦難の歴史を生き抜いてきた。そして日本国の中でも民主主義(デモクラシー)に敏感な地域を創ってきた。そのベースには「ぬんじゅのエピソード」に見られるように、「本音」と「建前」を使い分けたり「本音だけ」「建前だけ」で生きてきたのではなく、異なる価値を融合・調和させて生きてきたのではないだろうか?沖縄県民のメンタリティーの基底にそんなセンスが宿っていなければ現在の「オール沖縄」は説明がつかない。
保守と革新の対立構図のみでの政治観では未来の沖縄を描くことは不可能だからである。 誠(マクトゥ) ソーケー ナンクル ナイサという言葉もある。※長幼の序=子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむという在り方。→五倫(孟子)




番外篇 曾祖母のハジチ(針突き) tatoo
 ハジチ(針突き入れ墨)は本来、一人前の女になったことを示す成人儀礼の一つだったといわれている。ところが、明治の初めのころまでは、7歳の頃に最初のハジチを入れ、本格的な文様を入れたハジチは16歳に開始し、婚約直前に完成することになっていたという。『沖縄の祭禱と信仰』平識令治著 僕の曾祖母(親父の母の母)は僕が生まれる5~6年前に死亡したのでお互いに面識はない。御殿の女中の他、季節により大寺(うふでぃら)とも呼ばれた円覚寺の門前でミカンの相対売りもしていたらしい。〈おそらくは困窮士族のアルバイトであったと思う。仔細は別稿にて〉

 ある日の事,数人の本土人らが、曾祖母の元に来て「写真を撮らせて欲しい」といってきたそうであるが、曾祖母はありったけの日本語力を総動員して「私はミーハガー(目に病気の後遺症があり容貌には全く自信がない)ので申し出を辞退したい」という旨を伝えたそうだが「いやいや私達が撮りたいのは手の甲の刺青だけです」・・・といいながら・・こうして・・・と言いながら山門の柱に両の手を巻きつけて・・・「わんねー うてぃらぬ はーや まんだーちぇー しみらさってぃ・・・」と話していたそうで、お礼に幾ばくかの駄賃も戴いたそうである。
 生前、親父は僕に「オマエはいろんな本を読むから、いつかきっと曾祖母の柱を抱いた写真が出ないとも限らないので注意深く見ていて欲しい」と言っていた。
 この写真を初めて見たのは3年程前、ネットの『アール・ブール師のガラス版写真集』の中からの1枚であった。翌日、円覚寺山門に行き、着ていたジャンパーを柱に着せるとピッタリと写真のように着せられた。後方の格子状の柵は山門の左右にあった一対の阿吽の仁王像の安置場所だと思う。山門の柱にジャケットを着せて夾雑物が写りこまないようにする撮影テクニックは稀代の資料収集家アール・ブールならでわのものだと思い、他にこんなシチュエーション(状況下)でのハジチの写真は今まで見たことがないので僕の曾祖母に違いあるまいと今日発信した次第である。

『資料収集の鬼:ブール師』 照屋善彦氏の文の抄録
ブール師(the Rev. Earl Rankin Bull,1876~1974)は、米国のメソジスト監督教会から1911年、九州・沖縄地区へ派遣され延べ15年間日本で伝道をした宣教師である。師は沖縄での本務であるキリスト教の布教のほかに、中学校で英語を教え、また幕末に来琉した英宣教医ベッテルハイムの記念碑を建立(大正15年)したりして、大正時代の沖縄で顕著な活動をした。また師は戦後、琉球大学附属図書館に「ブール文庫」を寄贈した人としても知られている。当文庫が設置された1958年頃の琉球大学附属図書館には、蔵書数が著しく少なく、大学の使命である教育と研究にも支障をきたす状態であった。特に洋書の蔵書に至っては惨憺たるものであったので、ブール文庫が琉球大学に寄贈された意義は大きい。筆者や同僚で沖縄の対外関係史を研究していた者にとって、当文庫はまさに干天に慈雨の如く有り難い贈り物であった。

月桃は真珠の涙ためている      ー島袋里奈さんによせてー