07/30: 1945年12月 木村毅『甘藷傳來記』開成館
1902年1月 丸善株式会社『學燈』「十九世紀に於ける欧米の大著述」
1945年12月 木村毅『甘藷傳來記』開成館
1938年9月 木村毅『小説研究十二講』新潮文庫/1945年12月 木村毅『甘藷傳來記』開成館〇甘藷傳來記・・・ところで種子島は琉球に近い。その頃の琉球は、まだ日本の領土ではなく日清両属と申して、支那を父とし、日本を母とすと云って両方についていた國であります。幕府は鎖国して、外国とは往来せぬ建て前になっていますから、琉球の監理は鹿児島の島津家に任せた。種子島弾正久基は先に申す通り、島津家の家老職をつとめている上に、距離が近いから、琉球とはゆき來がある。その中に、甘藷が大変に結構なものだといふことを聞いて、琉球の王様に願はくばその種子を少々贈って頂きたいと云って無心をしてやりますと、竹籠に入れて贈ってきました。これが元禄11年3月でありました。これを種子島久基は西村権右衛門といふ者に云ひつけて、植えてみよと命じた。この西村権右衛門は、明治時代の儒者として聞え、又大阪朝日新聞の主筆をしてをられた西村天囚博士の遠い先祖であります。/鎮西八郎為朝ー南海の琉球列島、その中心をなす沖縄!これを思ふて血の湧き立たぬ者が、皇国一億同胞の中に、只の一人でもあるでありましょうか。戦争中沖縄県民の奮戦ぶりを讃えて、先頃徳富蘇峰先生が『さすがに源為朝の子孫だけの事がある。鎮西八郎の血に耻じないものだ』といふ事を書いてをられた。・・・
1948年7月 木村毅『小説の創作と鑑賞』暁書房
1955年3月『明治文化全集 月報№3』日本評論新社 木村毅「未開拓の新聞史源」
1955年3月『明治文化全集 月報№3』日本評論新社 木村毅「未開拓の新聞史源」
○日本の新聞史の材料も、国内にあるかぎりは、小野秀雄氏を主軸として何十年にわたる努力の累積で、九分九厘までほり出されたといってよかろう。オランダ関係の史源は板沢博士によって、かなり明かにされてきている。これに反しアメリカは、英語だから、着手できる人が多いにかかわらず、その史源がほとんど処女地のままで、うっちゃらかしになっているように思う。
日本の新聞の元祖は、ジョゼフ彦である。彦は自伝があり、さらに故人の石井研堂翁や小野氏によって、まだ生存していたころ、未亡人までたずねて、埋もれた資料が開発せられたので、あそこまで探索されておれば、吾々はその努力と成果に一おう満足せねばならぬ。(略)明治維新や、さらに咸臨丸の太平洋横断よりも、更にさかのぼって、ペリイの黒船来航以前のジョン・万次郎やジョゼフ・彦時代から、新聞記事をあさってくれば、今まで不明だった国史の陰影が多少ともうかび出てくるであろうし、ことに彦は、その後ワシントンにいってからも、社交界の寵児としてひどく新聞でさわがれているのだから、これらの記事だけは、誰かによって、コピイされて、日本におくられることを希望してやまない。
1955年6月『明治文化全集 月報№5』木村毅「櫻洲山人をめぐりて」
○本全集の読者は、だいたいアカデミックな学風を愛する人が多いと思う。そういう人は正史にこだわって、小説や、巷説や、伝聞を無視するうれいがある。しかし、それにも時代の雰囲気としての正しさは含蓄されている筈だから、これを参考にしないでいい理由はない。中井桜洲山人などは、ことに、その方面の材料の多い人物だ。(略)あの頃の風流人のならいで、桜洲の家庭は吾々の模範になるようなものではなかったと思うが、私は、この人の風格は非常にすきで、いつか一度小説にかいてみたいと思って、前に、いろいろ材料をあつめたことがあったが、今は多く散逸してしまった。
1982年6月 木村毅『日米文学交流史の研究』恒文社「第25章 アプトン・シンクレェアの『ジャングル』」
きむらき【木村毅】
1894‐1979(明治27‐昭和54)
大正・昭和期の小説家,評論家。明治文学研究の先駆者。岡山県に生まれる。1917年早稲田大学英文科を卒業し,隆文館,のち春秋社で編集者として活躍するかたわら評論活動をする。23年退社し,近代小説の理論的研究を行う(《小説の創作と鑑賞》1923,《小説研究十六講》1925)。一方,24年には日本フェビアン協会の創設に参加し,日本労農党の出版部長を務める。また明治文化研究会に入り,第3代会長となる(1948)。(→コトバンク)
1969年2月 木村毅『丸善外史』丸善社史編纂委員会 「内田魯庵」
『丸善ライブラリーニュース』
70年代、大阪で「沖縄関係資料室」を手伝っていたので、何故か手元に『丸善ライブラリーニュース』がある。№100に甲斐清通「ライブラリーニュース思い出の記ー100号を記念して」が掲載□おわりにーライブラリーニュースの生い立ちは、前述のように学校図書館を背景に育ったものであるが、ニュース100号の編年史のうち、日本の図書館や産業界、ビジネスの社会、個人の書斎と毎号趣向を替えて特集を組むうちに、すっかり読者の層も幅が広くなり、特に73号の個人情報整理の特集号あたりから、自他ともに許す「情報誌」に変身し、個人はもとより、ジャーナリズムやマスコミの脚光をあびるまで成長したことである。世はまさに情報化時代、公共、大学、専門、学校、その他、すべての図書館や文化施設がお互いにネットワークを組み、情報や資料の交換をやり、市民にサービスする時代である。
1958年に創刊した丸善刊行の図書館に関する総合情報誌『丸善ライブラリーニュース』が、1989年の休刊から18年ぶりに、2008年に復刊する。
現在の発行は丸善雄松堂株式会社(まるぜん ゆうしょうどう。英: MARUZEN-YUSHODO Company, Limited)は、日本の大手書店、出版社、専門商社である。文化施設の建築・内装、図書館業務のアウトソーシング等も行い、幅広い業務を手がけている。大日本印刷の子会社である、丸善CHIホールディングスの完全子会社である。(ウィキ)
1995年3月 『彷書月刊』115号「特集・内田魯庵ルネサンス」
1970年3月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書 31』「内田魯庵」
内田魯庵(うちだ ろあん、1868年5月26日(慶応4年閏4月5日) - 1929年(昭和4年)6月29日)は、明治期の評論家、翻訳家、小説家。本名貢(みつぎ)。別号不知庵(ふちあん)、三文字屋金平(さんもんじやきんぴら)など。江戸下谷車坂六軒町(現東京都台東区)生まれ。洋画家内田巌は長男。孫(巌の娘)に翻訳家の内田莉莎子。1901年(明治34年)、書籍部門の顧問として丸善に入社し、翌年ロンドン・タイムズ社と共同で百科事典『ブリタニカ』を販売(百科事典は夏目漱石の『吾輩は猫である』や『三四郎』にも登場する)。丸善のPR誌「学燈」の編集に晩年までたずさわり、匿名で書評や随筆を書いた。1906年(明治39年)に出版されたトルストイの翻訳『馬鹿者イワン(イワンのばか)』も同誌に連載されたものである。→ウイキ
1975年11月 八木佐吉『書物往来』東峰書房
八木 佐吉ヤギ サキチ昭和期の出版人 丸善本の図書館館長。
生年明治36(1903)年8月28日 没年昭和58(1983)年12月15日
出生地東京 学歴 電機学校卒
主な受賞名 文化人間賞(東京作家クラブ)〔昭和56年〕
経歴大正5年小学校を卒業してすぐ丸善に入社。洋書のストック係をしながら夜学で語学を修め、出版企画課長、取締役洋書管理部長などを歴任。自然科学書協会の目録作り、戦後復刊した「学鐙」の編集、和洋書籍目録の編集を手がけ、40年丸善本の図書館館長。同社の“生き字引”と呼ばれ、洋古書の第一人者といわれた。著書に「書物往来」「書物語辞典」などがある。→コトバンク
1985年6月 本庄桂輔『「學鐙」編集の思い出』白凰社
〇本庄 桂輔(ほんじょう けいすけ、1901年5月24日 - 1994年8月27日)は、劇作家、演出家、フランス演劇研究者。
東京麹町生まれ。本名・桂介。筆名・高島慶三。1926年立教大学文学部英文科卒。在学中より同人誌に戯曲を発表。岸田国士に認められ、1928-31年パリでジョルジュ・ピトエフ(フランス語版)に演劇研究を学ぶ。帰国後立教大学教授。1944年三菱重工業に入社。1951年より丸善『学鐙』の編集長となる。演出、ユーモア小説執筆なども行う。→ウィキ