2018年7月24日ー新城あけみ


2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

中村 正直(なかむら まさなお、1832年6月24日(天保3年5月26日) - 1891年(明治24年)6月7日)は明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。文学博士。英学塾・同人社の創立者で、東京女子師範学校摂理、東京大学文学部教授、女子高等師範学校長を歴任した。通称・敬太郎、敬輔。号は敬宇。江戸で幕府同心の家に生まれる。幼名は訓太郎。昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となる。幕府のイギリス留学生監督として渡英。帰国後は静岡学問所の教授となる。教授時代の1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも彼である。→ウィキ


西国立志編 : 原名自助論』11冊、斯邁爾斯著、木平謙一郎、明治4年9月
サミュエル・スマイルズ 『自助論』 の翻訳。
『改正 西国立志編 : 原名自助論』 斯邁爾斯著、七書屋、1877年2月



『西洋事情』福沢は江戸幕府の命により1860年(万延元年)にアメリカに渡り、1862年(文久2年)にはヨーロッパに渡ったのち、1866年(慶応2年)に初編3冊を刊行した。翌年の1867年(慶応3年)再びアメリカへ渡り、その後1868年(明治元年)に外編3冊を、1870年(明治3年)2編4冊を刊行している。その内容は政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気機関、電信機、ガス燈などに及び、それぞれについて個別に紹介している。例えば政治については政体が君主政、貴族政、共和政の三種類の政体に区別され、イギリスではこれらの政体を組み合わせていると記している。さらに文明国の六つの要訣について列挙しており、それは法の下で自由が保障され、人々の宗教には介入せず、技術文学を振興し、学校で人材を教育し、安定的な政治の下で産業を営み、病院や貧院等によって貧民を救済することであると論じる。また外交についても、通商や婚姻によって君主間の関係を構築し、戦争を防止するために条約を締結し、条約に基づいて大使が相互に派遣されるという外交の制度が紹介される。このように、当時の日本には存在しなかった西洋の近代的な制度や技術を数多く紹介している。→ウィキ

1980年3月 別冊太陽『慶應義塾百人』平凡社

 コルシカ島生まれのナポレオンは、新聞一紙は5千の兵に匹敵するとし新聞統制を計り活用した。駅逓頭・前島密が指導した『郵便報知新聞』が創刊された1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社にかかわる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。

1893年9月15日『琉球新報』創刊 
 琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

 同年9月22日、『大阪朝日新聞』は「琉球新報-廃藩置県の日浅く他県に比して一層の啓発を要するの地宜なる哉此新報の発刊を見るや新報は隔日刊にして初号には琉球年代記を附録せり」。京都『日出新聞』は「琉球新報-混沌たる暗黒の幕を破りて五百余万の王民に対し閃山一道光燈来の光景を与へんと期する琉球新報は本月十五日を以って第一号を発刊せり紙幅体裁固より内地の発達したる諸新聞紙に比すべくもあらざれど邦人をして琉球に於ける政治社会経済上の事実を知らしめ沖縄県民をして旧慣陋習を破り文明の空気に触れしむるの機関として裨益する処少なからざるべし発行所は那覇西村百二十三番地にして隔日刊行する由」と報じた。


1901年(明治34)2月5日『琉球新報』「福澤翁逝去 福澤諭吉昨夜死去、八日午后一時葬儀(二月四日午前十時五十五分東京發)」



1901年(明治34)3月3日『琉球新報』大田朝敷○松田橋での壮士俳優義有団一座の「実録慶應義塾教育勅話書生之亀鑑」の新演劇を観て、3日に亡くなった福沢諭吉について、「慶應義塾らしき所福沢先生の精神が微塵も見へない」(「松田橋の新演劇」)と感想を述べる(伊佐眞一)


福沢諭吉誕生地ー大阪市福島区福島一丁目1 玉江橋北詰すぐ
 天保5年(1834)12月12日、諭吉は当地にあった中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれられ中津へ戻った。中津では儒学を学び、安政元年(1854)長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後に塾頭になっている。→1977年3月『大阪春秋』谷口佳以子「福澤諭吉誕生地と雙松岡跡」



1927年 『エリア随筆集』國民文庫刊行會
エリア随筆 エリアずいひつEssays of Elia, The Last Essays of Elia
イギリスの随筆家 C.ラムの随筆集。第1集 1823年,後集 33年刊。そのほとんどは 20年創刊の『ロンドン・マガジン』に発表されたもので,作者自身の体験を中心に,人事一般についての回想や省察を,絶妙なユーモアにしみじみとしたペーソスを交えながら,独特の文体で綴っており,イギリス随筆文学中の白眉とされる。 →コトバンク

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 1963年10月 福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』垂水書房で1964年、読売文学賞受賞。1963年、「英文学を基盤とする随筆一般」の活動に対して日本芸術院賞受賞し、1964年に日本芸術院会員となる。1968年には文化功労者として表彰。1968-69年には『福原麟太郎著作集』(研究社出版)が刊行。


左ーヘイズリット・筆『ラムの肖像』(ウィリアム・ヘイズリット(William Hazlitt、1778年4月10日 - 1830年9月18日)は、イギリスの著作家、批評家、随想作家)/右ー福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』

2016年8月7日 おもろまち





左ー1998年2月 リンダ・パリー編/多田稔 監修『ウィリアム・モリス』河出書房新社

1994年5月 ウィリアム・S・ピータースン著/湊典子 訳『ケルムスコット・プレスーウィリアム・モリスの印刷工場』平凡社


ケルムスコット・マナー、今はウィリアム・モリスの博物館になっており、毎週水曜日の公開日(夏季のみ)には、多くの人々がやってきます。「全館これアーツ・アンド・クラフツ」という建物である。

ウィリアム・モリス(William Morris、 1834年3月24日 - 1896年10月3日)は、19世紀イギリスの詩人、デザイナー、マルクス主義者。多方面で精力的に活動し、それぞれの分野で大きな業績を挙げた。「モダンデザインの父」と呼ばれる。また、架空の中世的世界を舞台にした『世界のかなたの森』など多くのロマンスを創作し、モダン・ファンタジーの父と目される。ロード・ダンセイニやJ・R・R・トールキンにも影響を与えた。→ウィキ

下ーみどり印刷で石川和男氏(左)、新城良一氏