記録は記憶を甦生する。トマトの成長過程記録写真495枚を見ると、32年前の撮影時の 庭先やトマトや私自身の様子が鮮明に甦る。生命の戴きの時とお返しの時。トマトの一生を 9点に絞り筆で描いた。祈りのテーマでもある定点PRAYERシリーズから「トマト」を発表。


写真左から、玉城徳正氏、久貝清次氏、岸本徹也氏


2015年12月22日 市民ギャラリー「『戦後70年オキナワ』久貝清次展」

久貝清次氏→ここをクリック「久貝清次ウェブ美術館

2015年12月24日『琉球新報』「あしゃぎー記録写真の現場を描くー久貝清次さん  東京の百貨店でデザイナーをしていた1970年~71年、丸坊主から髪もひげも伸ばしっぱなしにして1年間、毎日、同じ構図、服装で写真を撮り続けた。周囲の波紋とともに面白がられ、新聞、週刊誌、テレビで時の人になった。・・・・」


1970年9月23日『朝日新聞』「体験的長髪論」



1971年
10月『アサヒグラフ』/12月『話の特集』



1972年
2月『少年サンデー』/3月『中学三年コース』


1972年7月『アサヒ芸能』「女と仕事に抜群!ヒゲがあなたを行動派にする」/1970年12月『現代』「ヒゲ自慢サラリーマン大集合」

1975年1月23日日『日刊スポーツ』「太平願いまーす」


1975年1月26日NHK



2014年1月21日 那覇市民ギャラリー「『琉球八景』久貝清次展」



左が久貝清次氏、新城栄徳

2001年10月28日『琉球新報』新城栄徳「晴読雨読・滝沢馬琴『椿説弓張月』」

滝沢馬琴『椿説弓張月』
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ー2年前になるだろうか、知人から沖縄観光史のテキストとして何があるかと問われて、何気なく滝沢馬琴の『弓張月』だと言ったことがある。私の愛蔵している本は岩波の日本古典文学大系『椿説弓張月』で後藤丹治の詳細な校注が付いている。それによれば『弓張月』くわしくは『鎮西八郎為朝外伝椿説弓張月』といい「椿説」はめずらしい説、「弓張月」は主人公の為朝が弓の名人ということで名付けられ「外伝」は正史でない伝記という。内容は琉球を舞台にした源為朝の伝奇ものである。

昨今の沖縄のイメージは「アブナイ」だそうだが、元々はイナミネ県政や国策から出たもので、そういう国政や県政を選んだオキナワ県民にも結果責任があるが此処では問わない。この江戸後期のベストセラー長編小説『椿説弓張月』は今に至るまで沖縄を「為朝、琉球」「うるまの島」「龍宮城」というイメージをヤマト人に定着させた。沖縄に来た人物たちがどのように影響されているか見てみよう。世界的な地理学者の志賀重昂は「彼の馬琴が『椿説弓張月』にて知られたる忠臣毛国鼎の在所中城」と記し、小説家の菊池幽芳は著『琉球と為朝』に「弓張月を読んで子供心に琉球は神仙譚の島のようなところと思いこんで居た」と記す。

『弓張月』には「琉と球との二つの球」も出てくる。これは出口王仁三郎の『霊界物語』の琉球の場面に引用されている。王仁三郎が1917年に詠んだ歌に「りう球につづく台湾澎湖島、御國に遠きこの島に、心を配れ日本人、外國魂のここかしこ、國賣る曲の多くして、主人の留守の間鍋たき、柱を崩すカミ斗り、ヤンキーモンキー騒ぐとも、降る雨リカを防ぐ由なし」とあり今のオキナワを暗示しているかのようだ。澎湖島でのアメリカラスベガス資本のカジノ設置構想、それに続く数年前からのオキナワシンクタンクが沖縄にカジノ設置を画策していることも想起される。

続いて建築史家で首里城保存の恩人・伊東忠太も著『木片集』で「余はこれまで琉球に関しては何の研究もしたことがない。馬琴の弓張月を耽読したお陰で、頭の中に小説的な琉球が思い浮かぶ位のものであった」と記した。日本民俗学の創始者・柳田国男も弓張月を愛読したとその著で述べている。沖縄側の人間として東恩納寛惇は馬琴を好まない作家・斎藤緑雨の文章を手本としているせいか「馬琴の弓張月は小説としてはいかにも面白いが、歴史事実として何等の価値もない」と素っ気ない。

1807年から『椿説弓張月』は葛飾北斎画で刊行され始め、翌年には大阪の歌舞伎座で「島巡り月の弓張」と題して興行された。役者の「弓張月」錦絵も売り出された。北斎も「琉球八景」の絵も売り出された。その後の馬琴は長男の宗伯を失い悲しみの中、嫁と孫たちの面倒も見た。そして失明。1848年に馬琴は死去した。享年82歳。1936年の『沖縄日報』に「滝沢馬琴の孫さん/弓張月の琉球へ/祖父の志を継いで近く来県/婦人衣装研究家・修業氏」とある。実際に来たかは確認できないが馬琴の子孫が健在であったのにはホッとした。


□『羇旅漫録』西鶴が墓誌
西鶴が墓は。大坂八町目寺町誓願寺本堂西のうら手南向にあり。〈三側目中程〉七月晦日蘆橘と同道にて古墓をたづぬ。はからず西鶴が墓に謁す。寺僧もこれをしらざりし様子なり。花筒に花あり。寺の男に何ものが手向たると問ふに。無縁の墓へは寺より折/\花をたつるといふ。(図)團水は西鶴が信友なり。西鶴没して後。團水京より來り。七年その舊廬を守れり。そのこと西鶴名殘の友といふ草紙の序に見へたり。追考 難波鶴に云。西鶴は井原氏。庵は鑓屋町にあり。「→羇旅漫録 HTML版」

『椿説弓張月』は1807年にまず『前篇』が出版され、以後足掛け4年をかけて『後篇』、『続篇』、『拾遺』、『残篇』が出版されて、全5篇・29冊で完結。当初は前篇と後篇で完結予定だったが、反響が予想以上に大きかったことで馬琴の筆が伸び、完結も延期を繰り返した。内容は、鎮西八郎源為朝の活躍を『保元物語』にほぼ忠実に描いた前篇・後篇と、琉球に渡った為朝が琉球王国を再建(為朝が琉球へ逃れ、その子が琉球王舜天になったという説)するくだりを創作した続篇・拾遺・残篇からなる。日本史のなかでも悲劇の英雄の一人に数えられる源為朝に脚光をあて、その英雄流転譚を琉球王国建国にまつわる伝承にからめた後編は、そのスケールの大きさと展開力で好評を博した。
 
□→「椿説弓張月 (椙山女学園大学デジタルライブラリー)」「グーグル画像・椿説弓張月/滝沢馬琴」



沖縄観光については、2000年10月2日の『琉球新報』に私は「近代沖縄観光文化史ノート」を書き先ず沖縄に来た画家たちを紹介した。2006年3月の『沖縄タイムス』には「ウチナー美の森」を書いて近代沖縄美術史を概観した。沖縄観光史については「琉文21」に随所に出ているが一応並べてみる。