1974年1月 雑誌『青い海』29号 比嘉春潮「この頃のことなど」

2006年9月『比嘉春潮顕彰』/2006年2月『篤学の沖縄研究者 比嘉春潮』

1945年8月、国吉真哲・宮里栄輝・源武雄が早く帰還できるよう「県人会」結成を相談。宮里栄輝、熊本沖縄県人会長になる。/女子挺身隊救済で尼崎沖縄県人会結成。
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1945年 9月、松本三益が比嘉春潮を訪ね、伊波普猷を代表に推し「沖縄人連盟」結成を相談。比嘉春潮宅で、左端松本ツル、中央・伊波普猷、右隣りへ冬子夫人、比嘉春潮、松本三益
11月11日、沖縄人連盟創立総会。総務委員・伊波普猷(代表)、大浜信泉、比屋根安定、比嘉春潮、永丘智太郎
11月26日、関西沖縄人連盟創立大会。代表・豊川忠進、兼島景毅、井之口政雄  参加・良元村(のち宝塚)、神崎川、城東、泉州、堺、和歌山       の県人会


1945年12月6日『自由沖縄』第1号(編集・比嘉春潮)/1947年2月20日『自由沖縄』(城間得栄・編)、1947年12月25日『自由沖縄』(上原永盛・編)

1945年12月9日ー東京神田教育会館で「引揚民救済沖縄県人大会」、伊波普猷が沖縄人聯盟代表として「無謀な戦争の為に国民はあるいはたおれ、あるいは傷つきー」と演説した。

1946年8月5日沖縄人聯盟九州本部『自由沖縄 九州版』(大嶺政和・編)、1948年2月15日『自由沖縄 大阪版』(城間盛雄・編)


1947年
8月19日ー『朝日新聞』「伊波普猷氏(沖縄人連盟会長)13日午後2時杉並区西田町1ノ566比嘉氏方でノウイッ血で死去、73歳、沖縄出身者の言語、民俗学者、おもろ研究の権威であった」、8月22日『自由沖縄』「先覚!今は亡し」(伊波普猷追悼特集)、9月26日『うるま新報』「われ等の先覚伊波氏逝く」

比嘉春潮と沖縄文化協会
1947年12月に柳宗悦氏がその駒場の民芸館で沖縄民芸展覧会を開催した時、宮良氏に連絡があって沖縄文化記念講演会を一緒に開くこととなり、「沖縄語と日本語の関係」(宮良当壮)、「沖縄の歴史と文化」(東恩納寛惇)の講演があった。この時柳氏から文化協会の講演会を定期的開く提唱があり、その斡旋を宮良氏がすることになった。1948年の4月から毎日第一土曜日に民芸館で講演会を開いた。9月、沖縄連盟から離れて独自の沖縄文化協会に改組。比嘉春潮、仲原善忠、島袋源七、金城朝永、宮良当壮の5人が運営委員となり、仮事務所を比嘉春潮の所に置いて発足した。

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この新しい沖縄文化協会が出来ると私(比嘉春潮)は自ら進んで、会報『沖縄文化』の編集、印刷、頒布を引受け、その第一号を1948年11月1日に出した。『沖縄文化』はタブロイド半截判4頁、誌名に「沖縄文化協会会報」の肩書を加え、毎月1日発行とした。内容は会の主張・研究ものに文化ニュース(又は文化だより)等を載せた。→沖縄文化協会『沖縄文化叢論』(法政大学出版局1970年5月)

沖縄文化協会の人びとー右から仲原善忠、伊波南哲、比嘉春潮、宮良当荘、金城朝永、志多伯克進、東恩納寛惇、神村朝堅、柳悦孝

我部政男教授から頂いた『沖縄文化』資料


2007年3月 沖縄県『史料編集室紀要』納富香織「比嘉春潮論への覚書」/我部政男「比嘉春潮先生著作ノート」

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那覇市での告別式