1956年7月
  『基地沖縄』編集発行人・中山盛徳・大阪市大正区北恩加島町108番地 電話泉尾(55)1584。記者に元『南西新報』(1947年)編集発行人だった富本(阿嘉)繁

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1956年8月11日
 『基地沖縄』第3号/社説「残忍な米軍」、「原水爆禁止世界大会(長崎)沖縄代表の報告」、奥里将建「三味線と蛇皮線」、井伊文子「望郷」
1956年8月21日
  『基地沖縄』第4号/社説「日ソ交渉と沖縄問題」、「原水爆禁止大阪大会」、島尾敏雄「奄美大島の闘牛」
  仲吉良光「富盛大主式のソ連海峡航行案を笑う」、「琉大学生を処分」
1956年9月1日
  『基地沖縄』第5号/社説「警戒せよダレス発言」、仲吉良光「沖縄問題も絡む日ソ交渉」、「沖縄土地取上反対ー尼崎市民大会」、奥里将建「四原則運動と廃藩置県」、「沖縄救援へ全国民的組織の確立ー社会党や労組で決定」
1956年9月11日
  『基地沖縄』第6号/社説「感情的な琉大処分」、「沖縄民主党分裂か」、「最後の勝利を信ずー瀬長亀次郎 沖縄人民党書記長」、石野径一郎「沖縄の木(ガジマル)」、「沖縄問題の解決を期し阪南地区大会ー綱引きの旗頭を持って入場」
1956年9月21日
  『基地沖縄』第7号/社説「米国製の土地問題予備会談」、「北友クラブの要求に比嘉主席屈服」、伊波南哲「おとなしい沖縄人」、憂郷塾「郷土の指導者に訴える」「12号台風襲来ー沖縄本島被害甚大」         
 矢野酉雄「『基地沖縄』紙の大乗的使命」、奥里将建「葱花輦上の尚真王の母后」
1956年10月1日
 『基地沖縄』第8号/社説「四原則運動に一大暗影」、「台風被害深刻」、豊川忠進大阪沖縄県人会連合会会長「会員に告ぐー来る10月6日、大手前会館で沖縄日本復帰大阪連絡協議会の結成大会が開かれます。会員多数参加されるよう御通知いたします」、「矢野克子詩集『梯梧』」、「南方同胞援護会長に澁澤敬三氏」、「米軍酔っ払い乗用車、女学生6人を轢殺」
1956年12月21日
 『基地沖縄』第16号/社説「生命は刻々おびやかされているー知念地区の三叉路の女学生轢殺」、「沖縄の良識をかけた那覇市長選ー繁栄か 永久占領か」、「沖縄総局・大山朝常」、「仲宗根源和の『手紙』一括払いの謀略」
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京都円山公園で中山盛徳(写真提供・仲間恵子)/『琉球新報』1954年8月4日

   
1958年3月13日
 『基地沖縄』第21号/ー沖縄を守る会中央機関紙(発行編集人・宮川寛雄)東京都浜松町3の1
 関西支局・大阪市大淀区浪花町2
 「沖縄を守る会発足ー会長・兼島景毅、副会長・上江洲久、同・玉城義三郎、事務局長・永山盛保」
1958年4月3日
 『基地沖縄』第23号ー沖縄を守る会中央機関紙(編集発行・真喜志康守)東京都港区浜松町3の1

 関西支局・大阪市大淀区浪花町2

1962年4月25日
大正区沖縄県人会機関紙『新沖縄』第1号(編集発行・伊豆味正浩)□「中山盛徳氏ー保険業、元大正区沖縄県人会長・中山盛徳氏は4月1日午後10時心臓麻痺で急逝した。氏は屋部村出身、日本復帰運動の熱心な協力者で故伊江朝助、仲吉良光、神山政良諸先輩に常に蔭の協力者として私財を出資し、昭和32年のプライス勧告反撃、四原則貫徹運動には独力で『基地沖縄』を一ヵ年にわたり発行し、県人を感激せしめた。葬儀は4月3日自宅(堺市南三国丘町3ノ110)で行われたが、悪天候にもかかわらず知名人多数参列、盛儀であった。」


沖縄見つめた亡父の新聞 息子ら5人が“再会”
「基地沖縄」 故中山さん創刊
父である中山盛徳さん発行の「基地沖縄」など関連資料を閲覧する、福永淑子さん(左端)ら5人のきょうだい=10日、那覇市・県立図書
 1950年代、大阪市の大正区沖縄県人会長を務め、沖縄問題を扱った新聞「基地沖縄」の編集発行人だった中山盛徳さん(故人)の長男ら5人が来県し、10日に県立図書館を訪れ、所蔵されていた同紙を閲覧した。長男の弘さん(69)らは、父の思いが込もった新聞を手に取り「これだけ残っているとは思わなかった。父を尊敬する気持ちが新たになった」と感慨深げに語った。(友利仁)

 「基地沖縄」は56年、中山さんが私財を投じて創刊された。全国の県関係者に向けて沖縄の復帰運動などを報じた。新聞紙サイズの表裏2ページで月3回の発行を続けたが、翌年には発行元が東京の「沖縄を守る会」に引き継がれている。

 県立図書館には、第3~25号が所蔵されている(うち9~20号が欠落)。第3号には「残忍な米軍」と題した社説を掲げ、長崎で開かれた原水爆禁止世界大会に沖縄代表として出席した瀬長亀次郎さん(元衆院議員)の発言について取り上げたほか、歌人の井伊文子さんや作家の島尾敏雄さんらが寄稿している。中山さんの長女の福永淑子さん(76)=大阪府高槻市=は「(父は)苦しんでいる人を助けなくてはいられない人だった。仕事も財産もこの運動につぎ込んでいた」と振り返り、配達や集金、全国の読者向けの郵便発送など手伝っていたという。

 弘さんは「創刊翌年の春には家を売り払い堺市に引っ越した。家族は苦労したが、父が情熱を傾けた新聞を目の前にすることができてうれしい」と話した。中山さんの手を離れた「基地沖縄」はその後、発行元と紙名を変えていき、最終的には沖縄返還同盟の機関誌「沖縄事情」へとつながる。

 今回、資料の所在を案内した那覇市の収集家、新城栄徳さん(61)は「政治とは無縁の大阪の地で、正義感を持ったウチナーンチュが個人で始めた新聞。中山氏は新聞から離れた後も、『復帰男』と呼ばれた仲吉良光氏と提携し、復帰運動を後押しし続けた。個人がともした火が組織的な運動へとつながりユニークだ」と話した。

 

1950年代発行「基地沖縄」 発行者・中山盛徳さんの子来県
2010年05月15日 琉球新報

中山盛徳氏が作った「基地沖縄」
 「父がしてきたことの重み、偉大さを感じる」―。1950年代の大阪で、沖縄の日本復帰を訴え、米軍統治下の沖縄情報を県人に伝え続けた新聞「基地沖縄」があった。私費を投じて同紙を発行し続けた故・中山盛徳さん(享年58)の長女・福永淑子(よしこ)さん(76)ら5人の子がこのほど来県、那覇市の沖縄県立図書館に保管されている同紙と約50年ぶりに向き合った。
 淑子さんら5人は「基地沖縄」を前にして「困っている人がいれば家の生活を顧みずに助けようとする父だった。沖縄を愛する人間として、純粋に基地のない沖縄が、本土に復帰することを願っていた」と生前の盛徳さんを振り返った。沖縄を訪れたのは、福永さん、中山弘さん(69)、中山孝さん(66)、吉田実さん(64)、武内晴美さん(59)の5人。
 盛徳さんは旧屋部村(現名護市屋部)出身。中学卒業後に郷里を離れ、大阪で保険業務に携わっていた。大阪在住の県人の生活改善運動を提唱、大阪の大正区沖縄県人会長を務めた。
 米軍用地強制接収に対する島ぐるみ闘争が広がった1956年、月3回発行の「基地沖縄」を創刊。一括払い反対を含む「土地を守る四原則」貫徹を求める沖縄の闘いを大阪の県人らに伝え続けた。
 同紙は1年後の57年、盛徳さんの手を離れ、東京の「沖縄を守る会」が発行元となり、最終的に沖縄返還同盟の機関誌「沖縄事情」へと変遷をたどった。
 5人を案内した那覇市の収集家・新城栄徳さん(61)は「盛徳さんは『復帰運動の火付け役』と呼ばれた仲吉良光さんとも交友があった。組織ともイデオロギーとも関係のない一個人が、郷里を思って作った新聞だ。『基地沖縄』という名称は沖縄問題の本質を突いている」と語った。
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