2016年9月 世良利和『米軍統治時代の沖縄映画史』蜻文庫




2012年10月 世良利和『沖縄映画史の復元ー戦前編ー』

岡山の世良利和氏から『沖縄映画史の復元ー戦前編ー』を恵まれた。明治以降の沖縄の新聞を読み込んで映画史を分析・整理・解題している。とくに岡山孤児院は地元でもあるから詳細に検討している。私の関心する事柄について触れる。
○大島の新聞の父・福永義一
臺灣から来沖した新派の壮士芝居役者で写真師。福永は宮崎県人、1900年に那覇区内でペンキ看板製造や、のぞき眼鏡興行、公正会影劇部と称し幻燈写真興行、同年12月には福永写真部を開業した。さらに福永は1902年4月9日、那覇警察署近くに清国人を大阪から招き「支那そばや」を開業して現在の沖縄そばやの直接のルーツとなった。1903年に催眠術治療「福永救済館」開業。1905年ごろ、奄美大島に移り、名瀬で福永写真館を開業し、醤油製造、養豚をやる傍ら1909年『大島新報』を創刊し大島の新聞の父と言われた。福永は、大島紬の染色原料ティーチ木裁断機の発明で試運転の際、袴が機械のベルトに巻き込まれ死亡した。1926年のことで60余歳であったという。
〇『名瀬市誌下巻』吉山重雄「奄美大島における写真のあゆみ」
福永写真館(福永義一、宮崎県高鍋町出身)ー福永氏は号を陽州と称し、名瀬市入舟町16班川崎タミ商店付近で、明治38年(1905)ごろから昭和4.5年ごろまで営業する。福永氏の弟子に河村武成氏(名瀬市朝戸在住)がいる。福永氏は写真が本業ではあるが、そのかたわら種々の事業を行っている。幻燈写真等もその一つである。大島で初めて幻燈写真を始めたのも福永氏ではないだろうか。氏は明治40年ごろ各地の学校等をまわり、幻燈写真を一般に見せていた。

菊池幽芳ー1913年4月25日~11月22日『大阪毎日新聞』菊池幽芳「百合子」

1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。

1914年3月

本山萬吉ー1939年5月3日(70歳)没 長男・裕児、二男・常男(ブラジル在)、三男・政比古(鹿児島在)









写真左から世良利和氏①、比嘉清眞氏

①世良利和(せら・としかず)
 1957年島根県大社町生まれ。1986年より福山大学講師。専攻はドイツ語圏の映画と文学。1992年同職を辞し、コピーライターを経てソフト販売会社を共同経営。この間にSF映画、石井輝男、ブルース・リーなどについて書きまくる。また沖縄関連映画について調べ始め、劇映画だけでも200本以上をリストアップしてきた。2年前に会社経営を放棄、フリーのライターとして漂う。
 主著に「その映画に墓はない-松田優作、金子正次、内田裕也、そして北野武」、映画評論として「ブルース・リーの閃光」、「嘆きの天使とその周辺」、「デビッド・リンチの距離」、「沖縄シネマ紀行」など。