1931年、瀬長亀次郎は神奈川で井之口政雄宅に下宿をしていた。井之口夫人は日本赤色救援神奈川地区の活動家で瀬長は大分お世話になった。飯場生活の瀬長は「全協日本土建神奈川支部」を朝鮮人の金一声らと結成、京浜地区の責任者になった。そして横須賀町久里浜の平作川改修工事に従事していた朝鮮人労働者350人と労働条件改善、全員に仕事をよこせの要求をかかげてストライキに突入、瀬長も、金一声も検挙され一ヶ月投獄された。


 瀬長亀次郎は戦後も沖縄人民党行事としてこの碑(人民解放戦士真栄田一郎君に捧ぐ)の前に集い団結を誓った。瀬長亀次郎「弾圧は抵抗を呼ぶ 抵抗は友を呼ぶ」→1991年8月『瀬長亀次郎回想録』新日本出版社
 
1954年6月 沖縄県学生会編『祖國なき沖縄』日月社
ーなちかしや沖縄戦さ場になとて 世間おまん人(ちゅ)ぬ流す泪ー この本を祖国日本と沖縄の同胞に捧ぐ
写真ー米軍家族住宅(ずけらん)/日本復帰活動の帰省学生の宣伝隊/これが今なお各地にある小学校校舎である。/第一号線軍用道路/平和を訴える琉球大学生、これがいわゆる琉大事件の発端となった/踏みにじられた稲田に乱立する鉄塔、農民達の訴えをよそに/琉球列島米国民政府長官オグデン少将と握手する琉球政府比嘉任命主席/見るかげもなく破壊された首里高校(旧沖縄一中)/無残にも破壊されたままになっている旧那覇市の廃墟。前方に見える鳥居は波の上神社跡。
悲憤の島オキナワの記録・・・・中野好夫
○あらゆる意味において、オキナワは日本の縮図だとは、オキナワから帰ったすべての人の口から、わたしの直接聞いた言葉である。物質的生活の極度の困難から、やむなく精神的荒廃にまで追い込まれてゆく大多数の庶民、それらの犠牲の上にのっかって私腹を肥やす一部少数の追随的権力盲者、利権屋、享楽業者、そしてまた火事場稼ぎ組の渡来日本人、-まさしくこれは日本の縮図でなければならぬ。(略)わたしは本書にあって、一人でも多くの日本人が、悲しみの島オキナワの実情と、その県民の熱望とを、自分たちの問題として知ってくれることを、もう一度あらためて心から祈る。
郷土愛の結晶・・・・・・・神山政良・沖縄諸島祖国復帰促進協議会会長
善意の記録として・・・・沖縄県学生会
○またこの書の刊行に多大な支援を寄せられた宮城聰、神山政良、比嘉春潮、金城朝永の諸先生に感謝いたします。殊に金城先生には玉稿をいただいてお礼申し上げます。なお、この書の監修に当たられた新日本文学会員の霜多正次兄、同じく当間嗣光兄、それに城間得栄兄に感謝します。殊に当間兄には終始御尽力を煩わしました。
第一部
拳銃におののく村/百鬼夜行/琉球王国を夢みる人たち/ひき殺された二少年/琉球古文化財の行方/帰省学生の日記/沖縄の子供たち/売春の町/沖縄基地図/海なき海人
第二部
土地なき民/労働者と労働組合/ドルとB円経済のからくり/琉球大学事件/日本復帰への道
島の歩み(琉球の歴史と文化)・・・・・・金城朝永
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・当間嗣光
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1959年3月『琉球新報』写真と文・石野朝季、スケッチ・儀間比呂志「大阪と那覇 あまくま」
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1959年10月ー東京沖縄県人会会場の廊下で、貘、伊波南哲、霜多正次、当間嗣光、平良真英、新崎盛敏(東京沖縄県人会3代会長)、金城唯温、「志多伯」「おもろ」「紅型」など泡盛屋のオヤジ、紅一点の山口一子
 
『沖縄年鑑』「文化・絵画ー儀間比呂志 第三回個展は5月16日から三日間タイムスホールでひらかれた」/1961年8月『琉球のあゆみ』 

1963年
      
7月15日『人民』 「核戦争をひき起こす原子力潜水艦 みんなで力を合わせ反対しよう」

1965年12月『沖縄春秋』「去る22日正午、 カメラマン岡村昭彦氏が本社を訪れ、およそ1時間にわたって(大城宗憲と)懇談した。」
1968年11月 東京沖縄県学生会『祖国なき沖縄』太平出版社
○沖縄百万同胞の苦悩の歴史を知るためにー『祖国なき沖縄』の再刊にあたって・・・・・・・中野好夫
○悲憤の島オキナワの記録ー初版序文・・・・・・・・・中野好夫
○売春の街ー女中からパンパンへ/悪魔のような仲介人/借金のある女が使いやすい/収入は半分わけ/妻はパンパン/夫は居候/パンパン街を育てるもの
○解題『祖国なき沖縄』以後の14年…・・・新里恵二
○『祖国なき沖縄』の再刊にあたってー初版の監修者として…・・・・当間嗣光
○即時祖国復帰をたたかいとるためにーあとがきに代えて・・・東京沖縄県学生会

1967年1月1日「『人民』「わらび座で勉強中の瀬長千尋さんの便り」
      1月14日 『人民』「宮里政秋「入党のころー南灯寮で民謡サークル結成」
      2月『月刊タウン』「岡村昭彦ヒューマン報告 №2ハワイ 観光地の裏側」
      7月8日  『人民』 「神山孝標「党史を語る」(1) 
      7月15日 『人民』「沖縄で生まれた解放の闘士ー井之口政雄」
      9月9日 『人民』「基地経済の実態ーその内幕をのぞく 米兵相手に売春」 
      
       1967年11月 『物語青年運動史ー戦前編ー』日本青年出版社


      12月・3日『毎日グラフ』笠原友和「東京から飛んで3時間だが遠のく島」
    1968年
      6月22日『人民』 瀬長亀次郎「12年ぶりの本土ー売国奴 吉田茂を英雄に、国葬に怒り」

1969年4月 『文化評論』№91<特集・沖縄の歴史・教育・文化>安仁屋政昭「沖縄の近代をささえた人びと」/1970年11月 『文化評論』№110<特集・日本文化における沖縄> 新里恵二「沖縄学の伝統と展望」
1970年1月1日『人民』 伊波広定「わが映画物語」(1)

伊波廣定氏と新城栄徳

1970年4月 霜多正次『虜囚の哭』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)
     4月4日 『人民』「渡嘉敷島自決の責任者 赤松の来県」
5月2日 『人民』「タクシー乗っ取りにやっきになる右翼『東声会』ー公共企業であるタクシーが行動右翼『東声会』(宜保俊夫支部長)の手につぎつぎ渡るという事態がおき問題になっています。・・・」「謀略基地をあばくー4-」      
 
1970年7月『アサヒグラフ』「被爆直後の広島・長崎」(山端庸介撮影)山端庸介 1936年 - 法政大学中退。父が経営するジーチーサン商会(サン商会を改称)にカメラマンとして就職。ジーチーサン商会は戦時中に山端写真科学研究所(□1943年ー????宮城昇も勤めた)と改称。1943年に東京有楽町の日劇および大阪高島屋の正面に掲げられた100畳敷写真大壁画「撃ちてし止まむ」の撮影・制作に関わったことで知られる。その後敗戦にともない解散。(→ウィキペディア)
     8月8日 『人民』「東京都の美濃部亮吉①知事は7月29日来沖、4日間にわたって沖縄各地を視察し8月1日帰京ー基地・公害で多くの示唆」
①美濃部亮吉 【みのべ りょうきち】1904〜1984(明治37年〜昭和59年)【政治家】「都政の主人は都民」。 美濃部スマイルで親しまれた、革新都知事。昭和期の経済学者・政治家。東京都出身。父は天皇機関説で知られる美濃辺達吉派。東大卒。1932年法政大学教授となるが、1938年人民戦線事件で解雇。第二次大戦後は、東京教育大学教授から統計委員会事務局長などを務めた。1967年(昭和42)東京都知事に当選、以後住民との対話路線と高福祉政策で革新都政を3期12年務めた。1980年衆議院議(コトバンク)   
9月ー『国政参加選挙の争点と沖縄人民党の四大基本政策』
□重大な意義をもつ国政参加選挙/沖縄県の無条件全面返還のために-核も毒ガスも基地もない沖縄を/平和で豊かな沖縄の復興と民主的な県づくりのために-基地も公害もない豊かな経済復興を/国政にたいする人民党の態度と政策ー独立、民主、平和、中立の日本を実現するために/新米・反動の自由民主党をうちやぶり、人民党をはじめとする祖国復帰統一戦線勢力の勝利をかちとるために 


 1970年5月8日 写真家・杉山吉良来沖/1977年 杉山吉良『讃歌Ⅱ』
1971年

1971年1月 霜多正次『明けもどろ』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)
     1月1日 『人民』小渡清孝「随想ー伊良部の心」/「金武湾を守る婦人たち」
     1月9日『人民』 「米軍演習阻止に決起する国頭村民」
      1月16日『人民』「毒ガス移送ー不安と恐怖になかで」/「反復帰の迷走ー新沖縄文学の特集にみる」
      1月23日『人民』「敗北の思想『反復帰論』」
      1月30日『人民』徳吉裕「前原穂積『戦後沖縄の労働運動』を読んで」
      2月6日『人民』 仲松庸全「公害調査旅行を終って」/「新里恵二『沖縄史を考える』」
      2月13日『人民』「政党否定と『反復帰論』」
      4月17日『人民』「軍事占領支配下26年 沖縄の請求書 その1」「米軍”特殊基地”の実            態」/「『四月の炎』創刊を祝す」
      5月1日 『人民』宮城倉啓「ストでかちとった労働三法」
      5月8日 『人民』松村拳「沖縄の放送ーフジ系『沖縄TV』の開局」④
      5月22日 『人民』「沖縄の放送 言論統制しくむOHKの設立」
      6月5日 『人民』 外間政彰「歴史民俗資料展の成果ー那覇市民の力の結実」
      6月19日 『人民』伊波広定「新里惠二氏に聞く」
      7月10日 『人民』「沖縄防衛とりきめによる自衛隊配備計画ー自衛隊はくるな、高まり広がる             反対運動」
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1971年9月『文化評論』№121<特集・沖縄論の思想>仲地哲夫「第三の琉球処分ということ」、西里喜行「近代沖縄の課題と差別問題」、安仁屋政昭「沖縄戦の記録とその思想」、津田孝「沖縄問題と現代の作家」、嶋津与志「沖縄協定調印前後」/写真・左から来間泰男氏、伊波広定氏、謝名元慶福氏、新城栄徳

       10月2日 『人民』砂川栄「謝花昇と自由民権運動」、大里康永「伝記を書いた動機」 
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       10月23日『人民』 「沖縄基地はアジア侵略の跳躍台ー協定発効後も変わらぬ核戦争基地」        10月30日 『人民』山田有幹「社会主義運動―沖縄青年同盟の結成 『無産者新聞』がパイプ」「特修ー戦前沖縄の社会運動 関係各氏に聞く(平文吉/兼城賢松/島袋良繁/比嘉光成/久高将憲)」
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写真、山田有幹夫妻を囲んで左から浦崎康華、松本三益/浦崎康華、松本三益
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      12月11日 『人民』 松本三益「戦前沖縄社会運動の思い出」
      12月18日 『人民』 幸喜達道「戦前の社会運動ー印刷職工組合の結成と無産者のたたか                い」

1971年12月 『文化評論』№124 北川民次「表紙絵」、伊藤嘉昭「侵略戦争と自然科学者の責任ーベトナムの枯葉作戦に反対する日米科学者の運動」、新里恵二「沖縄近代史の諸問題」、河邑重光「トロツキストの沖縄論」、鹿地亘「キャノンの横顔」、仲地哲夫「読書ノート 儀部景俊・安仁屋政昭・来間泰男『戦後沖縄の歴史』日本青年出版社」
1972年1月 『前衛』<核と謀略の基地沖縄>

◇沖縄における核部隊の配備ー日米協定のもっとも重大な問題点の一つが「核」の問題にあることは、いうまでもないことである。調査団もこの問題の追及に大きな力をそそいだが、今回の調査の結果、日米沖縄協定発効後も沖縄に配備を予定されている。一連の部隊と基地ー第三海兵水陸両用部隊(海兵隊)、第一八戦術戦闘航空団および第400弾薬整備隊(空軍)、第二兵站軍団(陸軍)、第七艦隊第七二機動部隊(海軍)ーいずれも核攻撃機能を持ち、あるいは核兵器の貯蔵・管理にあたっている核戦争兵力であることが、調査団の入手した米軍資料および独自の現地調査によって、あきらかにされた。◇「核」の疑惑につつまれる辺野古弾薬庫


 
1972年 1月1日 『人民』 沖縄県民のみなさん 1972年 あけましておめでとうございますー蜷川虎三京都府知事・黒田了一①大阪府知事・美濃部亮吉東京都知事」  
      1月22日『人民』 山田英盛「戦前の社会運動ー本のなかに『赤旗』が」
      2月5日 『人民』 国吉真哲「戦前の社会運動」
 
1972年5月 『歴史地理教育』№196<特集・沖縄県に学ぶ>儀部景俊「これからの沖縄問題」、金城正篤「沖縄史のとらえ方」、田港朝昭「沖縄学習の意味」、金城弘子「沖縄の子どもたち」、西里喜行「近代沖縄の歴史と差別問題」、来間泰男「沖縄に関する文献案内」/早乙女勝元「東京大空襲と紀元節」

1072年7月 日本民主青年同盟『青いしぶき』小渡清孝「発刊にあたって」

写真ー中列左から小渡清孝氏、→阿里山森林鉄道/沖縄人民党中央委員会書記局『沖縄基地の実態と機能』
1973
       1月27日 『人民』「話題の人ー竹田秀輝さん」
       4月7日 『人民』 「沖縄人民党第17回党大会の成功に期待する」

1973年6月 永田久光『赤旗戦略』講談社

右ー1973年10月 国際ショッピングセンター4階「儀間比呂志木版画展」主催・球陽堂書房

1973年12月 福木詮『沖縄のあしあと1968-72年』岩波書店、福木が、あとがきで表紙・函に掲げた版画は、儀間比呂志氏が版画風土記『沖縄』に発表された作品であるが、同氏は快く掲載を許されたばかりでなく、とくに本書のために原画に筆を加えられた。心からお礼を申し上げたい。


『人民』1973年4月7日「科学的社会主義の党への発展をめざす」/『人民』1974年1月1日「炎の街」(題字・仲松庸全)作・源河朝良 さし絵・青山恵昭


1974年1月 『沖縄思潮』創刊号  島袋光裕「題字」 宮良瑛子「表紙絵」 城間喜宏「目次カット」 安次嶺金正「とびらカット」
☆私が写真機を手にするようになったのは息子が誕生(1974年)したときで、成長ぶりを記録しょうと住吉大社近くのカメラ屋さんで中古のオリンパス一眼レフカメラを購入したのが最初である。
1974年11月20日~25日 那覇・八汐荘「写真学校WORKSHOPin沖縄」 

1976年『中央公論』12月号 濱谷浩「昭和女人集ー玉城美千代(大城政子琉舞道場)/大宜味静子(小太郎夫人)/糸数カメと愛弟子の仲宗根玲子/島袋光史と高良ベテイ/久高恵子(民謡クラブ)/エイサー謝苅青年会/カチャシーの与那城カナ(82)/藤村玲子紅型工房での玉那覇弘美、伊佐静子、堀川文子/宮平初子染織工房の具志堅清子/新垣栄三郎の妹・菊/吹硝子の宮城嗣俊夫人・静子/菓子天ぷら揚げの照屋林徳夫人・千代/市場の女性たち/市場の一角の化粧品店/守礼門前の宜保清美/東京コンパの武美、アキ/コンパバブロの絹江/那覇まつり・第一回ミス那覇選出大会/国際通りを口笛を吹いて歩く老女/斎場御嶽の中村美津」(敬称略)同誌には上原栄子「辻(くるわ)の女たち」も載っている。」

1978年6月『オキナワグラフ』「6月1日・写真の日/7人のカメラマン」

1978年10月 『たげぇに ちばやびら』瀬長亀次郎後援会



1979年3月『沖縄戦後史 アメリカ世の10年』月刊沖縄社/1979年2月 『戦後沖縄写真集 0ゼロからの時代』那覇出版社

☆1983年、人類館事件の写真を見つけ、その背景を調べはじめて写真史に興味を持った

1983年5月に大阪で発見されて以来の2枚目の写真。出品者は仲里康秀氏(〒901-1117南風原町字津嘉山100電話090-3322-9908)
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1983年6月5日『琉球新報』新城栄徳「関西資料の散策・人類館事件の写真をめぐってーある日、京都河原町三条にある琉球料理店の新装開店に伊藤勝一さんと行った帰り、伊藤さん宅に泊まることになった。浦添出身の奥さんの料理をご馳走になって、隣のコレクションの部屋で、伊藤さんが『先日、この写真が手に入った。第五回内国勧業博覧会案内図と一緒のところを見ると人類館事件のものと思う』と写真を見せられた。(略)翌日、写真を借りて東大阪の自宅で複写し、電話で伊藤さんに『伊藤さんの名前は出さなくても良いから写真だけでも公開したい』と了解を強引に得たー」


1983年10月 『坂本万七遺作写真集 沖縄・昭和10年代』新星図書

1983年10月 『こんにちはセナガ亀次郎です』瀬長亀次郎事務所

1984年8月『島空間からー1984年・沖縄・反核・反戦文学アンソロジー』沖縄・文学を通して反核反戦を考える集い(編集委員・あしみねえいいち,大湾雅常,国吉真哲,新城太石,芝憲子,瀬底月城,知念清栄,知念光男,仲松庸全,牧港篤三,安嶋涼人/編集委員会事務局・加勢俊夫,来間富男,芝憲子,富山嘉泰,宮城義弘)
〇私たちの、日常の営為は、それは本来的に単なる日常でしかありません。しかし、今や私たちは核時代に生きています。「破滅か、救済か、何とも知れぬ未来に向かって人類は邁進して行く」(峠三吉)こうした日常は、解き放つことのできない矛盾と無力感に掩われています。
 いまから40年前、沖縄であった戦争の影を背負っている者にとってはなおさらのことです。
 文学をする私たちにとって本来的には、もはやこうした虚構の中では、文学行為を半ば喪っているかも知れません。なぜ考え且つ書き、創るのか、誰に向かって何を伝え、そして言おうとしているのか。私たちの自由を奪い、個人の死をも無意味にする突然の大量死、ぢりぢりと用意されていく戦争をフィクションの世界に押し込めてよいものでしょうか。
 米ソの核軍拡競争の谷間で、核攻撃指令機能をもつ米軍基地をかかえる沖縄は、日本でもっとも危険な地域だといってもよいと思います。自衛隊の演習もエスカレートしています。沖縄戦の苦い体験をもち、今もこのような現状の地で、文学にたずさわる私たちは、私たちの仕事を通じて、平和へのねがいを訴えたいと思います。芸術家だからといって、目をつぶってはいられない危機的な時期にきていると思います。過去の15年戦争時代、多くの詩人、歌人、俳人、作家らは、時代に流され、戦争を讃美するような戦争協力の作品を書きました。私たちは、あの過ちをくり返したくはありません。「殺されるときはいっしょ」という、戦争のような強大な動きに対しては、芸術分野でも、個々人の力を合わせないと対抗できないと思います。個々人がテーマも題材も全く自由に創作し、それらを「反核反戦」のタイトルのもとに、ここにアンソロジー『島空間から』を出版致しました。                   1984年8月15日


『コミックおきなわ』1987年に創刊された沖縄初の月刊まんが雑誌。B5判、約200ページ。第23号より隔月刊。90年の第30号の後休刊。新里堅進、田名俊信、大城ゆか等、県内20人余のまんが家の作品を掲載する他、新人も発掘した。

1980年3月 那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ』


那覇出版社1990年3月 『写真集 沖縄戦』/1984年9月『写真集 沖縄●失われた文化財と風俗』 /1986年5月『写真集 沖縄戦後史』


1985年1月21日『沖縄タイムス』
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1985年ー那覇市役所にて写真中央・親泊那覇市長、その右・秋山庄太郎、新垣典子、右端・山田實
1985年5月 『政界往来』小板橋二郎「激写で勝負する『フォーカス』と『フライデー』の完全比較」

1985年11月 『沖縄人民党の歴史』日本共産党沖縄県委員会

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2013年3月 前泊博盛・編『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』創元社

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『琉文手帖』「歌人 山城正忠」
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1985年11月『琉文手帖』3号の表紙「歌人・山城正忠」の題字は井伊文子。碓田のぼる「『明星』圏における山城正忠」□碓田 のぼる(うすだ-、1928年2月5日 - )は、歌人、教育運動家。長野県生まれ。本名・登(教育関係の著作には本名を用いる)。東京物理学校卒。高校教諭を経て、全国私教連委員長、全教副議長などを歴任。渡辺順三に師事。新日本歌人協会全国幹事、日本民主主義文学会員、国際啄木学会会員。歌集『花どき』で多喜二・百合子賞受賞。→ウィキ
1987年1月に月刊沖縄社から池宮喜輝『琉球芸能教範』が発行され尚順の書簡も掲載された。94年4月の平凡社『太陽』に古波蔵保好「驚異の美食家 尚順男爵の食膳」、2005年7月の沖縄タイムスに「琉球グルメ男爵の遺言が連載された。私は前々から1964年11月に平凡社から発行された『世界大百科事典』のオキナワの項の明石染人執筆に付いている写真の三線を持っている人物が気になっていた。最近、尚順の娘にあたる知名茂子さんから尚順という証言をえた。
前記の事典の沖縄の写真に浜谷浩撮影の「宮古島の製糖工場」「基地の町コザ」「久高島の風葬」「糸満の幸地腹門中の墓」「ノロ」が載っている。写真家の山田實さんのところには濱谷浩氏から贈られた『裏日本・濱谷浩写真集』があって署名がある。序文は川端康成で、表紙題字は棟方志功である。1963年に琉球新報の依頼で案内を山田さんがつとめたお礼という。そのときに山田さんが撮った写真には小倉保文氏と浜谷氏が写っている。また81年の沖縄三越での「浜谷浩写真集成展」を山田さんが撮った写真や、84年の他に濱谷氏の兄・田中雅夫日本カメラ編集長の講演会の写真もある。



1985年4月 濱谷浩『昭和女人集』毎日新聞社
はまやひろし【濱谷浩】
1915(大正4)‐
日本の代表的なドキュメンタリー写真家。東京に生まれ,1933年(昭和8)にオリエンタル写真工業に入社して,写真撮影と暗室作業の技術を習得する。37年,次兄田中雅夫とともに〈銀工房〉を設立し,銀座,浅草などを小型カメラで取材した写真を発表した。39年〈アチック・ミューゼアム〉を主宰する民俗学研究家,渋沢敬三と出会い,その実証的な記録精神に強く影響されて,新潟県谷浜村下桑取谷(しもくわどりだに)の民俗行事を記録しはじめる。(→コトバンク)


1987年8月 ラブ・オーシュリ/上原正稔/監修・照屋善彦『青い目が見た「大琉球」』ニライ社

 私は1988年7月、沖縄県地域史協議会の一員として台湾を訪ねた。故宮博物院図書館や、台湾大学の図書館などで琉球史料を見せてもらった。台北市の孔子廟は1927年の日本と統治下のときに建てられた。台南市孔子廟の門には「全台首学」の扁額、左に下馬碑「文武官員軍民等至此下馬」があるが、下馬碑の拓本を購入して、那覇の具志堅以徳さんに贈った。2009年9月28日に那覇市久米至聖廟で午後6時「釋奠蔡禮」があった。司会は垣花稔さんであった。台湾で私たちの世話をしてくれた陳宝来さんも列席していた。文化の杜の國吉貴奈さんも親子で来ていた。

1989年4月18日『沖縄タイムス』「神山宗勲の小説『闘へる沖縄人』見つかる」/7月11日『琉球新報』西平守晴「落ち穂ー美仁柔(沖縄の心)」/11月30日『琉球新報』「琉球新報初代主筆・野間五造像鮮明にー新城栄徳さんが見つける」/12月2日『琉球新報』「金口木舌ー新城栄徳さんが見つけた野間五造の写真や資料」/1990年2月『彷書月刊』新城栄徳「沖縄に来た画家たち」/3月31日『琉球新報』「首里城北殿正面の階段はなかったー新城栄徳さんが明治43年の写真で裏付け」/10月17日『琉球新報』「文化ノートー神山宗勲、新たな人物像判明、新城栄徳さんが発掘」
 
☆1991年2月26日ー新城栄徳、東京都写真美術館「幕末・明治の東京ー横山松三郎を中心に」見学
□「東京都写真美術館ニュース」№1(1990-6)~№6(1991-1)
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1992年9月16日ー『沖縄タイムス』
1992年11月ー沖縄県写真協会創立10周年記念誌『おきなわ写真の歩み』□上記のタイムス記事が話題
1995年9月 null
 

1993年10月ー日本共産党沖縄県委員会『沖縄人民党・日本共産党合流20周年のあゆみー1973・10・31~1993・10・31』

1997年7月ー沖縄戦後史研究会『沖縄近現代人民解放運動の主な歩み』

1997年11月 川平朝申『終戦後の沖縄文化行政史』月刊沖縄社

2012年8月 『「日米安保」なくせばこうなる!!』日本平和委員会
2002年6月発行『噂の真相』に荒木経惟「写真日記・包茎亭日乗182回」が載っている。02-2-20のところに「オキナワ比嘉豊光」と出ている。
2005年5月ー荒木経惟『空事ー2004年 写狂人日記』(歌人 宮田美乃里)スイッチ・パブリッシング
2006年1月ー荒木経惟『写真ノ話』(安藤昇/草間彌生のおチンチン切り)白水社

2013年7月2日~7日 那覇市民ギャラリー「第31回 核も基地もない緑の沖縄を! 沖縄平和美術展」
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右が喜納勝代さんの「のうぜんかずら」(ちぎり絵)
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安里盛昭 同展実行委員長の作品

芝憲子さん、宮良瑛子さん
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2014年7月 金子隆一・藤村里美・戸田昌子『岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて』美術出版社
岡村昭彦 おかむら-あきひこ
1929-1985 昭和時代後期の写真家。
昭和4年1月1日生まれ。37年からPANA通信特派員として,タイ,ラオス,カンボジア,ついでベトナム戦争を取材。「ライフ」に発表した作品で注目された。昭和60年3月24日死去。56歳。東京出身。東京医専(現東京医大)中退。著作に「南ヴェトナム戦争従軍記(→コトバンク)


新城栄徳、芝憲子さん/2017年4月29日ー辺野古自然破壊に抗議する集会に参加する新城あけみ、芝憲子さん

2002年6月5日『沖縄タイムス』「魚眼レンズー茶商人に光ー新城栄徳さん」/2003年5月『沖縄文学選』勉誠出版(写真提供・新城栄徳)/2008年4月『オキナワグラフ』新城栄徳「創刊者の横顔など」
2009年9月3日、旧盆のウークイ。写真家の山田實さんのところの仏壇に線香を手向けると山田有晋さんの写真と出会った。しかもその日は山田有晋さんの命日であった。有晋さんは明治37年10月1日の『琉球新報』に「山田上等兵ー遼陽付近の戦闘で敵の銃創をうけ翌3日に戦死した」とでている。10月13日の琉球新報には西武門天尊廟前で那覇区民あげての盛大な葬儀が挙行されたとの記事がある。

南方熊楠 十二支考 羊に関する民俗と伝説 

 最近、首里城にちなむ映像写真が話題となっている。4月21日の新報、タイムスの「焼失前の首里城カラー映像」や、5月4日の新報、タイムスの東京在住の写真収集家の「明治の沖縄29枚」である。来る5月20日~6月22日、沖縄県立博物館・美術館で「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した美」が始まる。首里城関係写真も多い。新城栄徳「沖縄写真史散歩」②
2001年10月ー沖縄県写真協会創立20周年記念誌『おきなわ写真の歩み』□新城栄徳「沖縄写真史散歩」