1929(昭和4)年
     『世界美術全集』第21巻 平凡社「琉球美術各論」
           □伊東忠太「琉球芸術総論」 鎌倉芳太郎「琉球美術各論」
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2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻□鎌倉芳太郎ー(彫)天尊像、(絵)尚円王御後絵、尚貞王御後絵、尚純公御後絵、金剛法会図細部、渡海観音像(自了)、高士逍遥図(自了)、(工)放生池石橋欄羽目、観蓮橋石欄羽目、瑞泉門石獅、歓会門石獅、正殿唐破風前石龍柱、御盃及御酒台並浮彫金箔磨大御菓子盆及小御菓子盆、美花御小飯並浮彫金箔磨大御菓子盆、あしやげこむね橙紅色 子地雲龍鳳文綵繍牡丹雉子文綵繍□伊東忠太ー(建)守礼門・冕ヶ嶽石門、沖宮、天久宮、円覚寺仏殿、円覚寺三門、崇元寺石門、霊御殿(玉陵)
1929-3    『世界美術全集』第22巻 平凡社 


沖縄大学図書館所蔵
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1930年3月『日本地理風俗大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社






目次 
琉球列島ー概説
地形ー列島と海溝/三列の地質構成/珊瑚礁の発達/古生層と珊瑚礁/宮古諸島と八重山諸島
気候と生物ー気温/降水量と風速/季節風/ハブとマングース/亜熱帯性植物
沿革ー開闢伝説/内地との交通/支那との交渉/明治以後
生産ー概説
甘蔗糖/水産物/甘蔗/穀物/林産物/牧場/その他の生産物
薩南諸島ー大隅諸島/土噶喇諸島/大島諸島/島の産物/大島の気温
沖縄諸島ー沖縄島/国頭山岳地域/中頭、島尻丘陵地域/那覇首里の都会地域/人口の減少/属島/大東諸島/先島諸島/八重山群島/尖閣諸島
琉球婦人の黥ー伝説に現れた起原/古文書中の入墨/記事の有無/他島との比較/その宗教的意義
墓ー風葬の俗/古代と風葬/墓の発達/その中間物/板が門/近代式墳墓/その起原
グラヴィアー守礼門/首里附近の聚落状態/奥武山公園/首里附近の民家/野生の蘇鉄/沖縄県庁/沖縄測候所/測候所附近より那覇を望む/天水甕/ハブの毒素採集/ハブ捕り/ハブ/芭蕉の花の咲く頃/辨岳の御願所/識名園の泉水/首里城の正殿/亀甲形の墳墓/尚家の門/波上神社と石筍崖/真玉橋の風光/護国寺の仁王門/聖廟/護国寺境内/末吉神社/辨財天堂と観蓮橋/ベッテルハイム記念碑/識名園/琉球の刳舟/爬龍船競漕図/琉球の甘蔗畑/盆の甘蔗市/農家の製糖小屋/パナマ帽の制作  


蘇鉄林/パパイヤの樹/辻町の遊女/機を巻く首里の婦人/屋久の杉森/杉の巨木/大島の闘牛/シャリンパイ/大島名瀬港/大島紬工場/奄美大島の蘇鉄林/奄美大島の百合園/那覇港の入口/那覇港第一桟橋/先原崎の灯台/波上神社の石段/首里市内の民屋/那覇市全景/琉球美人
屋上の唐獅子/壺屋町/壺作り/泥藍の紺屋/藍の香高い琉球絣/泡盛製造所/諸味貯蔵場/豚肉販売所/甘蔗売の集り/独特の武術唐手/郷土スポーツ唐手/ズリ馬行列/歓会門/円覚寺本殿/龍潭池附近/円覚寺境内放生池橋/琉球の民家/那覇市附近の露店/那覇旧市街/崇元寺の門/那覇一の商店街/那覇辻遊廓/真玉橋の石橋/沖縄測候所/円覚寺の山門/熱帯植物榕樹/漁村糸満の浜/名物朱塗りの漆器/芭蕉の実り/萬歳舞踊/舞踊/婦人の黥/綱曳遊戯/湧田の旗頭/壮麗な旗頭/浜の賑ひ/野国総官の墓/久志村の山中にあった墓/久高島の墓/破風式の墓/亀の子式の墓/墓と死者の交会/墳墓のストリート/墓のにぎはい/玉陵/墓の平面図/壺屋産の霊置甕/英祖陵

守礼門がカラーで載っている。この本を1987年に安良城盛昭(大阪府立大学教授)氏が沖縄県立博物館に寄贈された。氏のものは父盛英が東京で教師をしていたとき購入したもので氏も愛読し親しんできたものであった。□1929年2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻(写真・守礼門)□伊東忠太「首里城守禮門ー殆ど支那式の三間は牌楼の型の様であるが、また支那式と大いに異なる点がある。その四本の柱を立てて之に控柱を添えた意匠は支那から暗示を得たのであるが、斗栱の取扱い方は寧ろ日本趣味である。中の間の上に当たって、屋根の上に更に一間の第二層の構架が加えられ、その軒下に守禮之邦と書かれた扁額が懸げられて居る。細部の手法は一體に甚だ自由であり、行く処として苦渋の跡を示さない。門の広さは中の間十一尺五寸、脇の間七尺六寸に過ぎぬ小規模のものであるが、悠然として迫らざる風貌強いて技巧を弄せざる態度は誠に平和の感を現すものである」


1930年5月 国吉真善『群衆の処女』






1930年8月 改造社『日本地理大系・九州篇 沖縄県』
目次
沖縄県扉「古地図」
沖縄県概説
ダブルトーン版ー筆架山より見たる那覇港 那覇市街/隆起珊瑚礁と波上神社/琉球焼製造所 那覇青物市場/おてんだの水取舟 崇元寺/金石文と真玉橋/守礼門 歓会門 首里城正殿/首里市 泡盛 首里三個/識名園 首里市/運天港 糸満 糸満町/パパヤ売 金武大川/七島藺の刈取 砂糖の製造 八重山鰹節製造所/久米島(新村 支那式の家屋 久米島の男女 久米島具志川村 仲村渠)/久米島(裾野の景観 紙の製造 豚小屋と豚肉市場 久米島紬)/琉球の墳墓/那覇市郊外の墓 国主より功臣に賜りたる御拝領の墓/田舎の墓 首里郊外貴族の墓/ヤツチのがま 石垣島より竹富島を望む屋我地ヲフルギの純林 甘蔗の栽培 ガジュマル/琉球の舞踊と演劇ー波平大主 萬歳一段 同二段 同三段 女笠踊 諸純節 二童敵討 同二 同三 同四/琉球の年中行事ー八重山の民族舞踊 祭式舞踊 那覇市の綱引行列
綜合解説

1930年8月5日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(1)凡そ神秘的な共産の久高島 島民総出で原始的な出迎 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月6日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(2)凡そ神秘的な共産の久高島 島の由来記と名所旧蹟 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月7日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(3)凡そ神秘的な共産の久高島 原始共産制の名残を観る 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月8日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(4)どこ探しても無い久高島の奇習 珍しい風葬と婦人の貞操試験 『グショウ』見物の巻」

 




1933年7月 仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』

1934年4月17日『琉球新報』広告□那覇市東町 明視堂写真部ー佐和九郎『正則写真術』『密着と引伸』『現像の実際』『露出の秘訣』『整色写真の研究』『整色写真術』/三宅克巳『写真随筆 籠の中より』『写真のうつし方』『私の写真』『趣味の写真術』/高桑勝雄『フイルム写真術』『写真術五十講』『写真問答』/宇高久敬『写真の新技法』/霜田静志『写真の構図』/南實『原板の手入』/加藤直三郎『中級写真術』/石田喜一郎『プロモイル印画法』/小池晩人『山岳写真の研究』/金丸重嶺『新興写真の作り方』、金丸重嶺・鈴木八郎『商業写真術』/勝田康雄『人物写真のうつし方』/中島謙吉『芸術写真の知識』/吉川速男『写真術の第一歩』『小形カメラの第一歩』『図解写真術初歩』『私のライカ』『十六ミリの第一歩』/鈴木八郎『写真の失敗と其原因』『写真処方集』『整色写真のうつし方』『引伸の実際』/中戸川秀一『写真百科辞典』/寺岡徳二『印画修整の実際』/斎藤こう兒『撮影第一課』『引伸写真の作り方』『芸術写真の作り方』/額田敏『山岳写真のうつし方』/眞継不二夫『芸術写真作画の実際』『アマチュア写真の修整』/山崎悦三郎『修整の実際』/高山正隆『芸術写真入門』『ベストコダック写真術』/石動弘『小形活動フイルム現像法』

1934年5月5日『大阪朝日新聞 九州朝日』「外人の眼に映じた”ハブの國„ クルート女史の興味を晙る視察談」


1934年5月8日『琉球新報』?
4月、欧州経由でアメリカに帰途、来沖したミス・アン・クルート(大阪東淀川区ミード社会館)が新聞記者に「那覇の児童がスペイン語、英語を知っているのに驚いた、これは海外雄飛の諸産物で若い者がハワイ・ブラジルらに出稼ぎ、そこで生まれた子を故郷沖縄の学校に送り帰すためです」と答える。


1934年11月 神村朝儀『便覧 琉球國王代記』神村朝忠/1937年3月 神村朝儀『第一尚姓 尚巴志王統早分解り』神村朝忠薬店
○雑誌『おきなわ』復刻版解説に酒井直子さんが「回想ー父 神村朝堅」を書かれていて、「向氏神村家家系図」も添えられていた。13世 朝睦の子供たちが省略されていたので詳しく記入してもらった。その結果、上記の著者・朝儀は叔父で、発行人の朝忠は朝堅氏の父と判明した。

1934年7月1日『大阪朝日新聞 九州朝日』「沖縄バラェティー移民の巻3 全世界に足を 移民群3万7千余 其送金高 何と380万円 糸満人の活動は世界の驚異」
1934年7月3日『大阪朝日新聞 九州朝日』「沖縄バラェティー唐手の巻4 唐手の応用 護身ダンス 御婦人の危急が立派に救へるナポレオンでさへも舌を巻く 今県外へ素晴らしい進出」
1934年7月4日『大阪朝日新聞 九州朝日』「沖縄バラェティー園芸作物の巻5 百万円目標に 園芸作物の移出計画」 
1934年9月23日『大阪朝日新聞 九州朝日』「郷土の誇り 琉球並木」

1935年4月20~24日 下村海南、飯島曼史来沖
□曼史「那覇市長室で進貢船帰国図の六双屏風を見る。百数十年前の琉球画家屋慶名政賀という人の筆で、那覇から首里へかけての鳥瞰図が描いてある。島袋源一郎君がこれを主題にして、進貢船のこと、冊封使のこと、琉球と支那と薩摩の関係など、微に入り細を穿ちて、立板に雨のような弁を揮う。この人、およそ琉球のこと、古今東西を貫き雅俗硬軟を通じて知らずということなし。僕は心ひそかに琉球雑学博士島袋圓斎先生の尊称を奉ることにした。圓斎はいうまでもなくエンサイクロペディアである。」

□海南「沖縄県の教育会に島袋源一郎という御方がある。四百頁の沖縄案内。四百二十頁の沖縄歴史。三百九十頁の国頭郡志の著者である。只著者というだけでない、その著作中の年号でも計数でも全部諳んじてる、まさしく沖縄の活字引である。之れ曼史君が圓斎なる称号を謹呈せる所以である。」「こうした蔡温はエライ人であるが、それらの数多い功績を事や細やかに知悉してる圓齋君が傍についてるのだからたまったものでない。この松並木は、この森林は、この道路は、この港湾は、この水利事業は、この部落の移転は、この何は、この何はと、オール蔡温デーという調子で、ノベツ幕無しに説明がつづく。そこで我ら同人圓齋の号のみを以てしては物足らず、あれは島袋でなくて合財袋だという。イヤそれでは小さすぎる、あれは信玄袋だという。すでに信玄袋とすれば圓齋というより百貨店という方が当ってるなどいうものもあり、結局島袋又の姓信玄袋、通称源一郎、圓齋と号し、又百貨亭主人ということに全員一致にて可決される。その後の道中にて大島に鹿児島に、いつも信玄袋の噂の出でざる日なし、圓齋君果たしてクシャミをつづけつつありしや否や聞まほしけれ、恐惶謹言。」「これだけの特殊の歴史を持つ都市にして郷土博物館の無きは遺憾千万である。幸いに那覇の教育会館には相当集められてある。この上ともあらゆる史料を散逸せぬよう、今の内に博物館の建設に急いでほしいと話した。幸いにもこの企てはかなり熟して、かの首里の北御殿を修理してこれに陳列の予定になってるということであった。」



海南「地名改称運動ー首里の講演にはいろいろの問題にふれたが地名改称にも及んだ。(略)かなり漢字の不規則に悩まされてるところへ、琉球へくるとそれが一層輪をかけてる。北谷は誰でもキタダニとよむ、それがチヤタンという。キタダニからキタタン、更にキヤタン、更にチヤタンとなったという。それならキタダニに戻るがよい。城はグスクという。御宿という字のよみから訛って来たのだという。どうしてもグスクとよみたければ、山城金城という代わりに山楠久金楠久とでも記すがよい。左なくばヤマシロ、カネシロと読むことにしたい。島袋圓齋翁の言によれば国頭はクニガミよりクンガン、更にクンヂヤンとなったのだから、大正8年からクニガミに戻したという。戻せるものならば皆戻すがよい。僕は只単なる理想論を振り廻してるのではない、僕の台湾在職中誰しも異論の無い好い事蹟を残したかといわれたら、それは地名の改称であった。地方自治制の実施と共に州郡街庄何百という地名を大部根こそぎ改めた。発音の上から打狗を高雄に、猛舺を萬崋に、噍吧眸を玉井と改めた。又土地の因縁より葫蘆墩は高砂米の本場だから豊原と、牛罵頭はよい水が湧くから清水というふうに改めた。こうしたことは地名だけではない。人名にもありたい。琉球だけではない、北海道でも屡口にし筆にした。それは内地の凡てにも望ましい。」   
□飯島幡司 いいじま-まんじ
1888-1987 大正-昭和時代の経営者。
明治21年5月12日生まれ。神戸高商教授をへて大阪鉄工所(現日立造船)専務。昭和7年朝日新聞にはいり論説委員となり,のち朝日放送の社長,会長。カトリック教徒として日伊親善につくした。昭和62年1月11日死去。98歳。大阪出身。東京高商(現一橋大)卒。筆名は曼史。著作に「キリスト教の社会観」など。(→コトバンク)
下村海南 1875-1957 大正-昭和時代のジャーナリスト,政治家。
明治8年5月11日生まれ。下村房次郎の長男。台湾総督府民政長官などをへて,大正10年大阪朝日新聞社に入社,のち副社長。昭和12年貴族院議員。18年日本放送協会会長。20年鈴木貫太郎内閣の国務相兼情報局総裁となり,終戦処理にあたった。歌人としても知られた。昭和32年12月9日死去。82歳。和歌山県出身。東京帝大卒。本名は宏。著作に「終戦秘史」など。(→コトバンク)




1935年10月ー上原永盛『沖縄県人物風景写真大観』

上原永盛(1904年12月23日~1974年1月30日)
1922年、沖縄県立水産学校を卒業した上原永盛は1923年、大阪で労働総同盟予備軍倶楽部に参加。翌24年、20歳で関西沖縄県人会運動に参加、北大阪支部長として活動した。翌年に上原は上京して京浜沖縄学生会結成に委員として参加。26年に東京本郷で「出版新聞社」を経営。日本大学の後輩・兼島兼福も参加、傍ら京浜沖縄県学生会機関誌『南島』も編集発行する。その出版新聞社に与座弘晴も参加、5年在社。1930年に独立し「読書新聞」を創刊する。


写真ー上原永盛

1932年9月
永盛館出版部(上原永盛)ー東京市麹町区飯田町5ノ35/永盛館書店ー沖縄県那覇市東町4ノ32『琉球レコード民謡集』第1編
□御前風、上り口説、踊りかなよう節、祝節、やきなくふわでーさ節、尾類小風、大願口説、鳩間節、金細工節、伊集早作田節、かでーく節、島尻千鳥節、白保節、本部手間當節、宮古ねー節、たんちゃ節、仲里節、島尻天川、久米阿嘉節、古典劇「手水の縁」、九年母木節、七尺節、さーさ節、むんじゅる節、芋ぬ葉節、喜歌劇「まるみ加那」、千瀬節、伊佐へいよー節、情どや節(宮古ぬー)、月の夜節、伊野波節、しゆらい節、なんだき節、恩納節、謝敷節、四季口説、仲風節、すーりすーらい節、でんさー節、すーらしてー節、稲まづむ節、桃売りあん小節、恋の花節、大兼久節、子守節、述懐節、宮古のあやご、散山節、千鳥節、仲間節、瓦屋節、しょんがねー節
亀鶴踊節(長者大主)ー金武節、早作田節、前の濱節、黒島節、そんぱれ節。
歌劇「百名節」ー茶売節、かまやしなー節、百名節。
松竹梅踊節ー揚作田節、夜雨節、浮島節、東り里節、赤田尾類小風節。
八重山親あんまー 落語、小濱節、しょんがね節。
喜歌劇「尾類馬行列」、花売の縁ー仲間節、金武節、大浦節、大願節、荻堂口説、早作田節、伊計離節、揚七尺節、せんする節、千瀬節、立雲節。
手水の縁ー池道節、通水節、早作田節、仲順節、金武節、千瀬節、仲風節、述懐節、散山節、七尺節、子持節、東江節、立雲節。
辺野喜節、芋ぬ葉節、口説はやし節、御座楽、カギヤデ節、遊ビションガナイ節。
忠孝婦人ーこてい節、大浦節、せんする節。
古典劇「兄弟敵討」-大城こえにゃ節、うりづみごえにゃ節、やらし節、だんじょかり節。喜歌劇「願文」。歌劇「碁打口説」-武富節、中作田節、今帰仁あつちゃ前節、たこうやま節、濱千鳥節、平屋座節、今年前田節、小濱節、八重山しょんがない節。
親あんまー節ー西門節小、髯小そり節、移民行進曲


1934年5月
永盛館書店出版部(上原永盛)/東京市麹町区飯田町2丁目4番地ノ5『琉球レコード民謡集』第2編
□早作田節かきた歌、早作田節、綱引歌、やきなくゎでーさ節、安里節、だんこ節、儀保引節、やーまに、もちつき歌、あん小節、八重山民謡とばるまー節、取りたる金は節、八重山民謡久場山越地節、川良山節、目出度節、鷲の鳥節、大島やんごう節、宮古民謡久場山くいち節、仲里節、八重山民謡安里屋節、端唄さいさい節、久米島はんた前節、宮古民謡子守唄、高那節、文言感違文言、宮古民謡根間ぬ節、宮古節踊あやぐ節、歌劇汀間當節、いりさすね節、宮古ねー節、八重山民謡小濱節、喜劇情の歌、喜劇狂言雑歌笑劇、八重山民謡みるく節、喜歌劇仲直り三良小節、久高まんじゅう節、豆とうま節、国頭さばくい節、喜劇塩屋のぱーぱ、下、歌劇泊あーかー、伊佐へいよー節合奏、口説、中風節、かれき節合奏

伊集のがまく小節、仲順流、茶売節、阿嘉琉歌、返歌、歌劇奥山の牡丹、宮古節合奏、流歌、謝敷節合奏、歌劇九年母木節、恋花節、里前とよー節、道歌、歌劇踊男女組節、伊計離節、加那よー節、歌劇馬山川節、伊佐へいよー節、早作田節、くんぬ節、馬山川節、白保節、歌劇あば小へい節、鶴亀踊節、黒島節、そんばれー節、歌劇踊薬師堂百名節、宮古節、遊びしょんがない節、歌劇波上劇早作田節、川平節、今三人節、遊子持節、よいよい父子、四季口説、宮古民謡改良しょんがない節、とーがね節、せんする節、琉球民謡国頭さばくい節、八重山民謡越地節、御物奉行節、取納奉行節、八重山民謡鳩間節、琉球音楽下述懐節、宮古民謡多良間しょんがない節、前の濱節、与那原節、阪原口説、久米阿嘉節、二上り川平節、南嶽節、御前風

恩納節、こてい節、上り口説、踊くふわでーさ節、花風節、むんじゅる節、芋ぬ葉節、踊天川節、百姓口説、瓦屋節、しょんかない節、踊松竹梅、揚作田節、東里節、赤田尾類小風節、夜雨節、浮島節、泊高橋節、崎山節、大島朝花節、三村踊節、今帰仁あつちゃ前小節、祝ひ節、四ツ竹節、越来節、はとま間節

1935年10月 下村宏・飯島幡司『南遊紀』朝日新聞社