04/16: 地方産業振興運動指導者・前田正名
1943年1月 今野賢三『前田正名』新潮社出版/1973年1月 祖田修『前田正名』吉川弘文館
前田正名 生年:嘉永3.3.12(1850.4.23) 没年:大正10.8.11(1921)
明治前期の経済官僚,地方産業振興運動指導者。鹿児島藩医前田善安の6男。慶応年間(1865~68)長崎留学,明治2(1869)年フランスに渡り,フランス農商務省で行財政を学び,10年に内務省御用掛として帰国。のち「大隈財政」下の大蔵省にあって直輸出論を提唱,大隈ブレーンのひとりとなる。14年農商務・大蔵大書記官となり欧州経済事情調査に出張。16年帰国後は品川弥二郎らと組み経済政策を構想,17年3月より農商務省で『興業意見』編纂に取り組み,8月未定稿30巻を完成,「松方財政」を批判し,殖産興業資金の追加供給による強力な産業保護主義を主張して松方正義大蔵卿と対立した。このため内容の大幅変更を余儀なくされた『興業意見』の刊行となった。18年7月より不況下の地方に出張し,勤勉,節倹,貯蓄の「三要点」を強調して農民の自力更生を説くが,同年12月非職。21年山梨県知事を経て22年農商務省工務局長,農務局長に復帰,23年農商務次官,元老院議官,貴族院勅選議員となるが,政府中枢の政策に同調できず官界を去り,25年以降地方産業振興運動を指導。地方実業団体,全国農事会を系統組織化,政府,議会にそれら団体の要求を建議する活動を行った。30年代には農村調査計画である町村是運動に挺身したが,晩年は不遇に終わった。<参考文献>祖田修『前田正名』,同『地方産業の思想と運動』 →コトバンク参照
1894年4月16日『大阪毎日新聞』「五品(織物、陶磁器、金属器、製紙器、雑貨)大会の開会式は、いよいよ昨日を以て京都府庁に開かれたり。会頭に前田正名『京都は我が国の美術工芸に取りて保姆の地位に在り。すなわち美術工芸上、京都は決して京都人の私有にあらず。日本人の京都なること、正名確信して疑わざる所なり。』」
1894年4月16日 前田正名(京都祇園清々館 五種大会出張所)→奈良原繁沖縄県知事
「拝啓陳ハ今回開設ノ五品大会ヘ 御懸下ヨリ當業者参会相成候儀ハ各業者ノ熱心ニ因ル 儀ニモ可有之候得共全ク御庁ニ於テ非常ニ御尽力被下候 結果ト深ク感謝之至リニ奉存候尚報告書ハ追テ差上可申候先ハ不取敢御禮申上度如此ニ御座候敬具」→那覇市歴史博物館「横内家文書」
1894年4月17日『大阪毎日新聞』「五品(織物、陶磁器、金属器、製紙器、雑貨)大会閉会式 五品大会は五二(織物、彫刻を追加)会と改称し閉会・・・」
1913年5月25日『琉球新報』「本日来県の前田翁ー其産業に関する意見」
1913年5月26日『琉球新報』「前田翁来着ー旅装解かずして講演会に臨む。鹿児島に生まれながら今日まで当地を訪ふに至らざりしは深く之を謝す・・・」「前田翁一行」
1913年5月26日『沖縄毎日新聞』「前田翁一行の人名ー貴族院議員前田正名▲金剛寺住職暉峻普瑞▲陸軍中佐花田仲之助▲鹿児島商業会議所書記長安田武彦▲鹿児島郵船会社書記長坂元徳二▲実業家小牧藤兵衛▲仝慶田政太郎▲岡崎商業会議所常務議員千田千太郎▲実業家加藤敬太郎▲社会教育者志方楽山▲実業家大山幸太郎」
1913年5月27日『琉球新報』「真教寺 本社主催 講演会/前田正名翁、暉峻普瑞師、花田中佐、志方楽山氏」
1913年5月28日『琉球新報』「前田翁の講話」「一昨晩の前田翁歓迎会」
1913年5月28日『沖縄毎日新聞』「前田翁一行の歓迎会」
1913年5月29日『琉球新報』「前田翁本日出発」
1913年6月3日『沖縄毎日新聞』「前田翁の一歩園」
1913年6月8日『沖縄毎日新聞』高里次郎「前田翁一行より得たる教訓(上)」
1913年6月10日『沖縄毎日新聞』高里次郎「前田翁一行より得たる教訓(下)」
「悲しみの涙の海に隣して 吾がうまるべき国のあるらん」
暉峻(てるおか)康範の作である。鹿児島・志布志の金剛寺の住職をされた。歌の権威付けで言うと明治12年生で。京都の仏教大学後に早稲田に進みあの小泉八雲に学んだ。真宗念仏を広めた。父君は暉峻普瑞はもともとは岐阜市の出。市橋の江崎家の生まれ。僧侶になるのを嫌い切腹の経験さえある。播州高砂の西秀寺のご住職から鹿児島でお西の第一号のお寺を建てた。明治9年大久保利通のお陰でお念仏を広めることができるようになった。→「営業せきやんの憂鬱」
花田 仲之助 明治〜昭和期の陸軍軍人,社会教育家 報徳会創立者。
生年万延1年6月10日(1860年) 没年昭和20(1945)年1月2日
出生地薩摩国(鹿児島県) 学歴〔年〕陸軍士官学校〔明治16年〕卒
経歴明治10年西南戦争に参加。17年歩兵第9連隊付、23年歩兵第3連隊付、27年日清戦争に従軍。30〜32年清水松月と変名して西シベリアに入り、ロシア軍の動向調査。32年少佐で予備役。報徳会の主唱者となり、34年郷里鹿児島で会作りに従事。37年日露戦争に応召、38年中佐、後備23連隊大隊長、大本営幕領を務めた。のち全国各地を巡講、報徳会普及に努め、国民精神作興の指導者となった。昭和14年平沼騏一郎内閣下の国民精神総動員中央連盟理事。著書に「報徳実践修養講話」。→コトバンク