沖縄の雑誌『青い海』1974年6月号 嶋津与志(大城将保)「亜熱帯<沖縄忌>」
 1971年『青い海』9月号に星雅彦「沖縄戦からの発想」、間宮則夫(映画監督)「集団自決の思想」が載っている。74年6月号には大城将保が「亜熱帯ー小野田帰還のブームと靖国神社法案の強行採決はけっして偶然の一致ではないだろう。だとすれば残置諜報者の任務を完遂したといえるではないか」と記し沖縄にも離島残置諜報者が配備されていた説く。で、離島残置諜報者の子供たちはー。

 大城 将保(おおしろ まさやす、昭和14年(1939年) - )は、沖縄県出身の歴史研究者、作家。ペンネーム「嶋津与志」(しま つよし)で作家活動を行っている。沖縄国際大学講師。「沖縄平和ネットワーク」代表世話人。特定非営利活動法人沖縄県芸術文化振興協会理事長、新沖縄県史編集委員。
沖縄戦での住民の被害調査、平和研究、小説執筆などを行っている。沖縄戦研究では沖縄県史の編集に携わった後、県立博物館長などをつとめた。嶋津与志名では『琉球王国衰亡史』や映画『GAMA 月桃の花』のシナリオ作品などがある。→ウィキ

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沖縄戦資料

2000年3月 沖縄県教育委員会『沖縄の歴史と文化』ー大城将保・沖縄県立博物館長「4沖縄戦」
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□沖縄戦の特徴
沖縄戦は、勝者のアメリカ軍でさえ「地獄の戦場」と呼んだように、長い激しいみにくい戦闘でした。南北約130キロの細長い沖縄本島にうちこまれた砲弾の数だけでも艦砲弾約60万発、地上砲弾約176万発といわれ、山の形が変わるまでに「鉄の暴風」が3カ月以上も吹き荒れたのです。対抗する日本軍は、九州や台湾から約2400機の特攻機、沖縄諸島の海岸からは数百の特攻艇を出撃させ、また陸上では爆雷」を背負って戦車に体当たりするなど、徹底した肉弾攻撃で時間かせぎの抵抗を続けました。その結果、20数万の人々が悲惨な最後をとげました。日本軍将兵(沖縄県人をのぞく)約7万2,900人、アメリカ軍将兵約1万4,000人が戦死し、軍人や軍属をふくむ沖縄県民の犠牲者数はまだ不明ですが13~14万人にのぼるものと推定されます。正規軍人よりも沖縄住民の犠牲者がはるかに多かったことが沖縄戦の特徴の一つでした。
沖縄住民の犠牲をさらに悲劇的なものにしたのは、日本軍による住民の犠牲が各地で数多く発生したことでした。軍と一体となって戦闘準備に協力したきた40数万の住民は、いざ敵軍が上陸してくると前線に放置されてパニックにおちいりました。日本軍は避難民を保護するどころか、「沖縄人はスパイになるおそれがある」と警戒して「捕虜」になることを禁じ、ついには「集団自決」や「住民殺害」などの惨劇においこんで行きました。
(略)

大城将保の本
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写真ー左が大城将保氏、向かいに儀間比呂志さん、石堂徳一さん/潮平正道さん中央が大城将保氏


1999年、博物館に『月刊民藝』を寄贈、大城将保・沖縄県立博物館長名で感謝状