1982年6月 牧港篤三・儀間比呂志『沖縄の悲哭』集英社
〇牧港篤三ー序文 戦争とは、なんと出口のない深い森のようなものであろう。かと思うと、それは多くの人間たちの漂う際限のないむごい死の海のようでもある。漠として捉えどころのない地中から吹きあげる呪咀にみちた叫び、暗い壕内を走る水流の、いずれは火山帯・古生層・第三紀、四紀層など地獄の底をくぐって、大洋に注がれる、潮との合流点で、気泡となって空に昇る危険な空転と繰り返し。-沖縄戦のばあい、時間と場所によって戦争は状況をまったく異にする。
 飢えと血の恐怖、むき出しの憎悪、愛とそねみ、誤った過信、千差万能の地獄図絵である。この一冊にまとめた詩は、そのように沖縄戦の一点でしかなく極微粒の一部分でしかない。読者のために、すこしでも鑑賞の案内となれば幸いである。主題の「水」「火」「空」といった腑分けは、ほんとうはどうでもよく、便宜上そうしたまでである。勿論、各詩篇をつらぬく主調は沖縄戦という国土内で行われた戦争である。
 「沖縄の悲哭」というタイトルは、それを凝縮したものといえる。名付けた人は、ジャーナリストで、沖縄平和をつくる百人委員会の代表豊平良顕氏。-詩画集におさめてある作品は、ほとんどが異常といえる戦場生活のなかで体験したことを時には深層に沈潜し、日常の片々とした襞のようなものを歌ったものである。異様な世界のなかに圧縮された、非日常性の死。・・・・それが詩の狙いといえば狙いでもあった。


儀間比呂志と牧港篤三(右)/牧港篤三(左)と新城喜一氏


儀間比呂志氏、牧港篤三(右)、後右が東江清俊氏、新城栄徳/平良次子さんと儀間比呂志氏

牧港篤三1912-2004 昭和-平成時代の新聞記者,平和運動家。
大正1年9月20日生まれ。昭和15年沖縄朝日新聞入社。戦後の23年「沖縄タイムス」の創刊にくわわり,のち専務。58年アメリカ公文書館所蔵の沖縄戦記録フィルムの買い取り・上映をする「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」(平成16年吉川英治文化賞)の結成につくし,のち代表をつとめる。詩人としても知られた。平成16年4月14日死去。91歳。沖縄県出身。著作に太田良博との共著「鉄の暴風」。ほかに「沖縄精神風景」など。 →コトバンク





『琉球新報』1936年11月1日「榕樹派ポエジイ展」(琉球新報記者・国吉真哲が設けた)牧港篤夫「河」
、愁麗(のちの瀬長亀次郎夫人)「意慾」、イケイ雅「波の音」「茶の花」「怨詞」、知念秀彦「できごと」、玻名城長正「冬の華」、松山聖「ピュウリタンの町の中で」

文学同人雑誌『那覇』
同人ー大串孝作・崎山鬼兵・南三郎・仲村渠・牧港徳蔵・首里二郎・古沢亀次郎・土田徳・山里長生・花城具志・中城章太
目次
評論ー花城具志「あけもどろの花」/南三郎「文学と地方性」
火野葦平□発刊に際してー随分前からぜひと思っていた琉球行を果たすことが出来てたいへん勉強になった。それはいろいろな意味で得るところが尠くなかったが、文化方面のことに関しても収穫が大きかったので喜んでいる。歴史や民俗学、民藝等に興味を持つ人にとっては琉球は汲めども尽きぬ宝庫の観があるであろう。しかし、それらは豊富な伝統の上に新しい世代に添うて今後の琉球文化がどう動いて行くかということは最も切実な問題であると思われる。外部から琉球を骨董品にしてしまうことはよいことではあるまい。また沖縄の人達が自らも骨董品に甘んじることも省みられなけでばならないことであろう。伝統の根が深く抜きがたいということはそれに制肘されることではなく、その遺産を相続することによってより立派な新しい伝統を創造することの意であろう。そこにこそ新しい沖縄文化の朝が開けるものと思われる。特殊な事情のために具体的にはいろいろと困難な問題があるようだ。しかし、世に誇るに足る立派なる琉球文化が新しい出発の肥料になるのでなければ悲しいのである。
 私は今まで遠くから考えていた私の琉球文化に対する概念が、今度の旅行で根底から覆されたことを感じた。私は沖縄の文化人達の深い悲しみを知り、胸もいたむ思いである。しかしながらそれらの身に喰い入る寂寥に鞭うって、昂然と出発を開始しようとする意欲に対して悲壮な感じを受ける。私は今度の旅行で「那覇」同人の諸兄と歓談する機会を持ったことを大いなる喜びとする。慌ただしい日程のためにゆっくりと意見を交換することの出来なかったのを遺憾とするが、それでも私達は文学と生活、文壇と文学、標準語の問題、文学の言葉、地方文学、等について心おきなく語り合うことが出来た。そのようなことは今後の「那覇」の歩調の上に具現せられて行くことと大いなる楽しみにしている。私達の「九州文学」の歩みとともに、共通する九州的血液の交流をもって、前進してゆきたい。「那覇」の人達がそれぞれ優れた特質を持ち、「那覇」にまで到る間の文化的苦悩の深さにも敬意を感じている。「九州文学」に対しても鞭撻を願いたく、新しい日本の文学の建設に輝かしい成果を挙げられんことを期待して歇まない。
詩ー山里長生「前方」/牧港徳蔵「擬混土攪拌機」/仲村渠「雌」
創作ー大串孝作「魔風異」/花城具志「茶飯写生」/土田徳「妻」
あとがき
編集発行人・大城徳蔵 那覇市上蔵町2ノ86
印刷所・有馬三笑堂 那覇市久米1ノ18
発売所・沖縄書籍株式会社 那覇市東町1丁目2ノ89 仲村渠気付


1980年11月 牧港篤三『沖縄自身との対話・徳田球一伝』沖縄タイムス社/1986年11月 牧港篤三『幻想の街・那覇』新宿書房〇詩人の風景(1)仲村渠、(2)佐藤惣之助、(3)山口芳光・有馬潤 司馬遼太郎「ふかい陰翳」

1985年8月 豊平良顕編『ジャーナリストの証言 昭和の戦争5 悲哭ー沖縄戦』講談社〇牧港篤三「体現的沖縄戦記ー地獄を見た者」

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2004年6月ー牧港篤三『沖縄人物シネマー会った人、すれちがった人』ボーダーインク□沖縄を訪れた偉才たち/駆け抜けていった人々
2005年8月ー『KANA』第11号<特集・牧港篤三追悼>

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1966年7月 沖縄タイムスホール「第5回 儀間比呂志個展」

宮本常一 1907(明治40)年〜1981(昭和56)年
 1907(明治40)年、大島郡家室西方村(現 周防大島町)で生まれました。大阪府天王寺師範学校を卒業後、小学校の教員となったころから民俗学への関心を深め、民俗学者・柳田國男の指導を受けました。1939(昭和14)年、渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアム(現 神奈川大学日本常民文化研究所)の研究員となります。以後、全国の離島や農山漁村などを訪ね、特に「歩く・見る・聞く」ことを大事にしながら地域の人々と語らい、記録し、生活の移り変わりを明らかにしました。
 常一は「暮らしの中の工夫こそが文化」と考え、周防大島では、常一の呼び掛けで生活文化の継承を目的に、失われ始めていた民具が集められ、それらは「久賀の諸職用具」「周防大島東部の生産用具」として国の重要有形民俗文化財に指定されました。また、周防猿まわしの復活を支えたほか、離島振興法の成立に力を尽くし、離島でも水道や電気が使えるようになりました。日本観光文化研究所所長、武蔵野美術大学教授などを務め、満73歳で亡くなりました。→山口県の先人たち