10/24: 2015年12月の山田實さん
写真前列左から仲尾次政補、山田實、仲尾次、山田豊、山田有登、その前が山田保、山田昭、山田。後列左が山田實姉の貞子、右が山田實母 1929年10月 山田家の庭で
2015年12月7日、山田写真機店に遊びに行く。山田勉氏に山田さんの親族を尋ねてみた。山田さんの姉は仲尾次家に嫁いだが,娘に片岡道子①さんが居る。→「片岡マンドリン研究所 » 片岡道子の日記」
①片岡 道子 Michiko Kataoka
マンドリンを比留間きぬ子氏に師事し、児童アンサンブルを経て比留間マンドリンアンサンブルの一員として演奏活動を始める。
1968年「第1回日本マンドリン独奏コンクール」で第1位入賞。1970年第1回リサイタルを東京ほか各地で開催し、独奏活動を本格的に始め、放送、室内楽、オペラなど幅広い活動に取り組む。1978年トリオノーボを結成、数多くのリサイタル、サロンコンサートで活躍し、1998年CD「さくら/SAKURA」をリリース。1987年比留間賢八生誕120周年記念演奏会でコンサートマスターをつとめる。アメリカマンドリン講習会(1996,1997)、神戸国際音楽祭(1998、2005)、ヨーロッパ国際撥弦楽器フェスティヴァル(1998)、ドイツ国際撥弦楽器フェスティヴァル(2000)に招待され参加。香川県・瀬戸内国際ギター・マンドリンフェスティヴァル&ゼミナール(1997、1999、2001、2003、2006)、ドイツ・ヴァイカースハイム国際音楽祭&講習会(2005)の各講師をつとめるとともに片岡マンドリンアンサンブルとして、また独奏、二重奏などで演奏し好評を得る。演奏活動とともに数々の演奏会の企画も手掛け、片岡マンドリン研究所その他で後進の指導にも力をそそいでいる。
山田さんの弟・保氏は最近亡くなられたが、歯医者で兄のバトラー歯科医院につとめた。長女に山田美保子②が居る。
②山田 美保子 (1957-)
"山田 美保子"(やまだ みほこ、1957年5月4日 - )は、東京都世田谷区出身の放送作家・芸能コラムニストである。ホリプロに所属していた。 [来歴] *歯科医の家庭に生まれる。青山学院初等部から青山学院中等部・青山学院高等部を経て青山学院大学文学部日本文学科卒業。TBSラジオの「954情報キャスター」を務めた。 *その後は現在にかけて放送作家として活動する一方、テレビ・ラジオのコメンテーターとして出演している。競輪ファン。 *特に日本テレビのワイドショーに出演している芸能レポーターや梨元勝と親交がある。
1999年7月ー山田美保子『ヘンだと思ってたけど やっぱりヘンだった あのヒトたち』双葉社
2005年『週刊新潮』1/27号□山田美保子「秘密の花園(135回)」/「『尖閣諸島』のオーナーは政界フィクサー『菅原通済』の元秘書だった』」
1963年1月、筑摩書房『世界ノンフィクション全集38』に「人買い伊平治自伝」が「夜の大統領カポネ」と共に収録されている。この自伝は戦前台湾に居た河合譲が自宅で伊平治に確認していたもので、戦後に金関丈夫の世話で再び入手。そして1954年の『文芸春秋』別冊(8月号)に発表。また1959年10月に平凡社『日本残酷物語』第一巻に寄稿している。1964年には菊田一夫脚色で森繁劇団が東宝劇場で公演した。學藝書林『ドキュメント日本人6 アウトロウ』でも伊藤晴雨らと共に取りあげられていた。
1987年に松永伍一が『経済往来』に「交流史の序曲3南洋の金さん村岡伊平治」を発表。神坂次郎氏も講談社文庫から『おれは伊平次』を出しておられる。そのカバーには「村岡伊平次。故郷の島原を逃げ出し、南方で女衒として名を馳せ、女郎屋に賭博場、からゆき貿易で財を築き、3千有余の妓たちを連れ新天地を拓き、あげくは南洋の美姫を妻とし、珊瑚礁の島の国王となった男。幾多の伝説に彩られたその生涯を雄渾に描く。明治の時代に、こんな痛快に行きぬいた日本人がいた!」とある。
2017年9月『ニッコールクラブ会報』第247号 「戦後沖縄写真界の明日ー山田實がニッコールクラブに託したものー」
2017年10月3日『沖縄タイムス』/1939年8月 那覇農園「全琉写真師会」
2017年10月22日『琉球新報』「山田實さん作品、モデルの孫に寄贈」/「山田實さん作品、モデルの子息一家」
山田實は2年の浪人生活をへて、1938年4月、晴れて明治大学専門部商科に入学。明治大学新聞『駿台新報』編集委員を3年間つとめた。新聞を編集するときは、日本橋にあった中外商業新報(『日本経済新聞』の前身)の建物の3階、編集室の一部を借りて作業した。第一回芥川賞の石川達三、評論家の長谷川如是閑、中島健蔵、明大校歌作詞者の児玉花外たちにも会った。築地小劇場の芝居も何度も招待され見に行った。
山田實は1947年8月、シベリアに抑留され辛酸をなめた絶望の淵から生還。9月に舞鶴から汽車で一晩乗り朝東京駅に着いた。山手線に乗り換えて、叔父の山田有慶と兄貴の山田有勝の家がある目黒へ向かった。空襲の被害を受けた目黒だったが、駅周辺はわりと焼けずに残っていた。行人坂という急な坂を下った先に叔父は住んでいた。叔父は目黒雅叙園で支配人として働いていた。叔父の家を訪ねると、叔母が兄貴の家に電話を入れてくれた。→2012年6月『山田實が見た沖縄』琉球新報社
平姓山田家5世・山田有度の3男有登が山田實の父。叔父・山田有慶は4男/→1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社。ちなみに長男は山田有晋、戦死したため有登が沖縄に呼戻され有晋の跡を継ぐ。
山田有晋(那覇での日露戦争・名誉の戦死者第一号)/2009年9月11日『琉球新報』
山田有登、郁子夫妻(写真家・山田實さん両親)、山元恵一宅を訪ねる
詩人・山田有勝
山田有勝は同人誌『カルト・ブランシュ』を1938年に創刊した。稲垣足穂はその第14号に「あべこべになった世界に就いて」を書いた。足穂に原稿を依頼したのが編集発行人の山田有勝である。有勝は詩集『残照』で「我が家の明治大正期の古い本は既に色あせ 古い辞書の皮革はボロボロとなる/岩本修蔵さんのロイドメガネ イナガキタルホさんの鼻メガネ」と足穂が出てくる。また過ぎた日と題し「六十三年前の思い出 阪神電車の鳴尾駅を降りて 右へつきあたり 左へ折れて 一町先の左側 白壁の四軒長屋 その端のガチョウが二羽いた家」が写真家の山田實さんの出生地である。
1955年7月22日『琉球新報』山田有勝「桑江良行先生を追悼」
写真家の山田實さんの長兄・山田有勝は東京丸ビルのバトラー歯科院の歯科医であった。また詩人でもあった。『紙碑』(紙碑之会)に発表した名古屋の星たちと題する詩には「小谷剛さんは診療所を開業しながら/作家活動を続けていた/そして 文芸誌『作家』を編輯発行し/多くの作家詩人を育てた/晩年の稲垣足穂さんの作品も数多く掲載された/晩年のタルホさんは/夫人や折目博子さん/萩原幸子さんに見守られて/酒を飲み 創作に専念し/安らかに昇天した/そして 小谷剛さんも/今は この世にいない/亀山巌さんは/名古屋の新聞社の社長をしながら/独自の詩の世界を展開し/楽しい名古屋豆本を出版したー」と書かれている。
1982年2月 山田有勝『詩集カオス』□山田實「ある日のこと真栄田義見先生は『山田君、東京のアリカツから難しい詩集が贈られてきたよ』と苦笑いされた。」
1986年3月 『薔薇園傳説ーカルト・ブランシュ コント集』デカドクラブ(山田有勝)刊
1989年7月 『二科会写真部沖縄支部 創立30周年記念』/山田實「沖縄二科会写真部30周年を迎えて」/山田實「老婆」/安里盛昭「魔風・凪ぎ・天界」
宮城護「八重瀬萬歳」/小谷武彦「光景」/宮城護「二科会写真部沖縄支部のあゆみ」/「二科会写真部 沖縄支部会員名簿」