1975年6月 沖縄の雑誌『青い海』<特集 詩人・山之口貘の世界>
 2010年3月8日、松下博文(筑紫女学園大学教授)さん、上原実(沖縄コレクター友の会長)さんと海員会館で懇談。9日、沖縄県立図書館に山之口貘の詩の原稿を整理している松下さんを訪ねる。膨大な量である。その中に「ねずみ」もあった。貘さんの13年忌を機に故里那覇にその詩碑をつくろうと1975年に期成会発起人総会が開かれ、6月には「貘パンフレット」ができた。そのパンフの表紙に「ねずみー生死の生をほっぽり出して ねずみが一匹浮彫みたいに 往来のまんなかにもりあがっていた まもなくねずみはひらたくなった いろんな 車輪が すべって来ては あいろんみたいにねずみをのした ねずみはだんだんひらたくなった」が掲載されていた。パンフには佐藤春夫の「山之口貘の詩稿に題す」も載っていた。


1938年8月 山之口貘『詩集 思辨の苑』むらさき出版部


1940年12月 『山之口貘 詩集』山雅房
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山之口貘の詩集


1997年4月4日『琉球新報』「あしゃぎ/バクさんの詩を見つけ出すーあちこち歩き回っては新しい資料を見つけ出し、研究者たちをあっと驚かす新城栄徳さんがまたまた珍しいものを捜して一人悦に入っている。(略)さて、今回探し出したのは山之口バクの詩。大正14年(1925年)に出た雑誌『沖縄教育』(沖縄県教育会)に2編が収められている。筑紫女学園短大の松下博文さんは『詩集にも収録されてないし、すごい発見ですよ。バクさんの習作の時期をよく表している詩です』とコメントした」。

□又吉康和は1923年10月に『沖縄教育』編集主任になった。編集後記に「私は人間の生活は総てが教育だと、こう広く解釈し、従来取り扱ってきた教育雑誌のように範囲を限らないで、あらゆる方面の材料を蒐集したいと思って居ります」「今般帝都の大震災により中央集権の弊害を痛切に感じた」と記した。また山城正忠を詩歌の選者に迎えて、雑誌の幅を広げている。1924年4月に国吉真哲、山口三路(貘)、伊波普哲、上里春生らは、山城正忠を会長に琉球歌人連盟を発足させた。

□1925年8月『抒情詩』に山之口貘「日向のスケッチ」「コンーニヒリストへの贈物」(1926年12月の又吉康和編集の『南鵬』に転載)、「昼はからっぽである」「夜は妊娠である」。

1925年9月発行の『沖縄教育』は、表紙題字を山城正忠が書き、カットの獅子は山口重三郎(貘)である。又吉康和は編集後記で「山之口貘氏は今般中央の『抒情詩』に日向スケッチ他3篇入選しました。之より琉球詩人がどしどし中央の詩壇に出現せんことを念じます。救世者は政治家でなく、それは詩人と哲人であります」と記し貘に大きな期待をよせている。


山之口貘詩碑の前でー神坂次郎氏→(こうさか じろう、1927年3月2日 - )は、日本の小説家。本名、中西久夫。三田文学会員。社団法人日本ペンクラブ理事。

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『沖縄タイムス』2003年7月4日/写真ー山之口泉さん親子と、左から琉球新報の松島弘明氏、那覇市歴史博物館の外間政明氏、新城栄徳、詩人の高良勉氏

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1951年12月ー琉球新報に送った詩の原稿





1975年7月23日ー山之口貘詩碑除幕式
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貘の亡くなった年に結成された「山之口貘建立世話人会」

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1976年3月ー山之口貘詩碑建立期成会発行

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2004年2月13日『沖縄タイムス』「山之口貘の映像と音声、草稿1万枚/長女宅で見つかる」

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山之口貘詩碑建立期成会発行

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1975年7月23日ー山之口貘詩碑除幕式