沖縄県立第二中学校ストライキ事件で中退し東京で近衛連隊勤務かたわら美術研究所で学ぶ。

1919年8月   屋部憲、帰郷して『琉球新報』記者。同年、古波鮫唯信(漂雁)入社。12月ー浦崎康華入社□社長は嵩原安佐、理事・与那原良能、比嘉盛昇、山城正一、硬派主任・瑞慶村智慧
1920年2月   泉正重、島袋紀成、琉球新報入社
1923年      玻名城政博、経済記者とし琉球新報入社
1925年9月   屋部憲、琉球新報退社し豊平良顕を入社させる。ソ連への越境入国を企てて、満州ハルピンまで行ったが果たせず。その後、大阪で「赤光社」という看板屋を営みながら県人会運動にも参加。

1926年3月    屋部憲、沖縄青年同盟に参加
1927年4月24日 屋部憲「一職工の手記ー北満の思出」(1)(2)軽快なロシア娘(3)ペンキ屋の職工
1928年2月    屋部憲、第1回普通選挙で労農党の井之口政雄を応援するため帰郷。

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1930年5月3日『沖縄朝日新聞』「山田有幹、屋部憲 釈放」

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1930年11月『沖縄朝日新聞』

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1937年、親泊康永依頼で屋部憲が製作し通堂橋脇に設置された「那覇・首里観光図」(首里・那覇の名所旧跡を彩色図にした)

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夢覚・屋部憲次郎氏、右は父屋部憲の戦前の看板店の地図(憲次郎書)

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首里の屋部夢覚氏から「蘓姓三世憲喜(棚原子シー)について」を送ってこられた。書家でもある氏には『蘓姓家譜ー奥島家(大宗憲宜)訳注』(1979年)の手書本もある。蘇氏は『氏集』によると、「元祖譜代蘇氏國頭親雲上憲宜三世新参比嘉筑登之親雲上憲清支流長子蘇文信棚原筑登之親雲上憲暢」と「」元祖譜代蘇氏國頭親雲上憲宜支流三子蘇用誠國頭憲之」がある。


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1950年 屋部憲「爬龍船」(水彩)



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書斎の浦崎康華翁と新城栄徳。浦崎康華翁も呼びかけ人となっている沖縄人民党結成準備のビラ、浦崎翁は沖縄人民党初代委員長

1947年7月1日ー第一回新党(人民党)結成準備会。7月9日ー綱領、規約、政策起草委員会。7月13日ー第二回準備会。
1947年7月20日ー石川市大洋初等学校に於いて沖縄人民党結成大会
午前10時~正午  党結成大会準備委員会(準備委員約60名出席)(会順、決議文草案など決定)
午後2時~3時   党結成大会(各地区代表約200名出席)(綱領、政策、規約、役員ー中央委員、常任中央委員長、常任中央委員決定)
神山孝標「開会の挨拶ー仮議長は司会者指名で浦崎康華」
瀬長亀次郎「経過報告」
奥田巌「役員に一人の婦人役員も出なかったことに沖縄人民党の発足に当たり不賛成を申します」
浦崎議長「われわれは今歴史の歩みを歩みつつある。急速に人権を尊重すべきであると言うことに異論はないが実現には努力がいる。婦人の問題に対してわれわれが冷淡であることは全然ない。党は婦人にも門戸を開放してある。婦人の入党を歓迎している。人民党は男だけの党という観念は持っていない。婦人の組織については組織部で労働組合、農民組合、青年同盟、婦人部として考えている」
午後3時~3時半 人民大会(約300名)(政策遂行決議、米軍政府に対する感謝決議の決議)
兼次佐一「米軍当局への感謝決議ー日本軍国主義者共の捲き起こした侵略戦争下にあって極端に虐げられたわが沖縄人は米軍上陸以来、その人道主義的好意と物質的援助によって漸く露命をつないで来た。われわれは全沖縄住民の意を体しここにマッカーサー司令部並びに琉球米軍政府に対し衷心から感謝の意を表明すると同時に米軍の好意ある支持により新沖縄の民主体制が一日も早く到来することを希望するものである」瀬長亀次郎「南西諸島百万住民解放のため闘わんとする沖縄人民党結成大会は終わりますが組織について一言申し上げたい。従来、既成政党のやったことは種々の政策を約束してもそれが実現出来なかったのは組織を持たなかったことにある(略)大衆の不平不満、要求を組織してその実現へ向けなければ百万人民の解放は出来ない。各支部で話し合って党の組織を拡大し政策、綱領の実現化を図るべきを固く信ずるものである」
午後3時半~6時  沖縄人民党結成演説会(大衆約2000名)
決議文「沖縄における民主主義体制の確立と人民生活の安定と向上のため当面、最も解決の急を要する問題として我等は次のスローガンを提起し人民大会の名をもってこれを決議す。1947年7月20日 沖縄人民大会」
スローガン
1、人民自治政府の樹立
2、民主的各種選挙の速やかなる実地
3、公職追放令の全面的適用
4、治安維持法、治安警察法の即時廃止
5、俸給賃金のとどこほりなき支払
6、耕作権の確立による農民生活の安定
7、耐風耐署の住宅建設
8、中小工業の企業の自由
9、すみやかなる交通網の整備
10、役得の人民監視
11、人民参加による所得税の改正

役員
常任委員ー中央委員長・書記長 浦崎康華、常任中央委員ー瀬長亀次郎、屋部憲
中央委員
糸満地区ー神山孝標、新垣幸吉、伊敷喜蔵、上里良徳 
那覇地区ー東恩納寛敷、宮城善正、新垣松助、善國乗宜
知念地区ー瀬長亀次郎、真栄城守仁、徳元八一
胡差地区ー徳松安良、宜保為貞、具志堅興雄
前原地区ー松本力、浦崎康華、安座間惇
宜野座地区ー阿波之智、松本三戒
石川地区ー屋部憲、池宮城秀意、平良文吉
辺土名地区ー宮城徳善、前田陳秀、崎浜秀松
田井等地区ー宮城清一、石川清、照屋盛賢、兼次佐一、知念良一



1949年6月3日ー『人民文化』創刊号□発行人・仲里誠吉/編集人・岡村哲秀、太田良博

1950年4月1日 『人民文化』4月号 人民文化社(仲里誠吉)







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1956年 四原則貫徹・県民代表として本土渡航の瀬長亀次郎沖縄人民党書記長を羽田空港で出迎える松本三益(瀬長の右)、志多伯克進(瀬長の左)

1959年
5月ー■『第10回大会決定・沖縄人民党綱領、規約』
□アメリカが沖縄を占領支配し、軍事基地をつくりはじめてから14年このかた80万の沖縄県民は祖国日本からきりはなされたまま、苛酷きわまる軍事占領統治のなかで苦しみぬいてきた。
1952年のサンフランシスコ対日講和条約の締結はアメリカのたくらみどおり、かれらのかってきままな占領統治を合理化する結果になっても何ら沖縄県民に占領統治からの解放をもたらし、県民の要求を満たすことにはならなかった。
以来、わが県民の政治、経済、社会、文化のすべての生活はアメリカの占領目的と利益に従われ、常に原水爆戦争の恐怖にさらされるようになり、アメリカ占領軍に従属してかれらの占領継続と原水爆基地設定に協力しながら特別の儲けをかせいでいる一部の買弁官僚並びに買弁独占資本家を除く県民各層のあいだでは現在生活の貧困化と危機が益々深まっている。
沖縄人民党は、民主主義の理念に立って沖縄県民の置かれた特殊な条件から生まれる共通の目標即ち沖縄が祖国から切りはなされ全島が原水爆基地化され、アメリカの苛酷な軍事占領統治のもとで支配されて県民の生活と権利がふみにじられている状態を一日も早く終わらせ原水爆基地を撤廃させ祖国に復帰して沖縄県民が日本国憲法のもとで真に日本国民として平和で民主的な生活をするという正当な要求を達成するためにつくられた政党である。
沖縄人民党は、当面のこのもっとも大きな目標を成し遂げるため労働者、農漁民、中小企業者および知識人、婦人、青年の各階層をそれぞれの立場や政治的信条をこえて結集し、統一した一つの大きな政治勢力ー祖国復帰民主統一戦線の結成をめざしそのための政治組織活動を行う民主的な大衆政党である。