沖縄関係の文庫本サイズの本を列記すると、渡邊重網『琉球漫録』(1879年)、奥島憲順『袖珍沖縄旅行案内』(1895年)、菊池幽芳『琉球と為朝』(1908年)、尚球『廃藩当時の人物』(1915年)、金城三郎『沖縄産有要植物』(1916年)、秦蔵吉『琉球案内』(1919年)、大城彦五郎『琉球語案内』(1925年)、摩文仁賢和『攻防自在護身術空手拳法』(1934年)だが、これに郷土研究社の『炉辺叢書』を加えると多様に富む。


写真ー尚球

『廃藩当時の人物』表紙/明治43年『スバル』11号 
尚球『廃藩当時の人物』(1915年)
尚健伊江朝直/宜湾朝保/浦添朝昭/富川盛奎/亀川盛武/義村朝明/林成(世)功/与那原良傑/伊舎堂盛英/池城安規/津波古政正/豊見城盛網/伊江朝重/喜屋武朝扶/久志助保/知花朝章/護得久朝常/百名朝起①
①1983年3月 『那覇市史だより』「『百名家文書』収集経過および文書概要ー名城林世功(本名・新垣)陳情通事遺銀御心付金給与御恩典蒙ラスニ付請願/那覇区字久米二千六百七十三番地 兄・名城世勲71歳 名城世功妻・名城カマド66歳 名城世功養子・名城先安 明治41年12月 中城御殿家扶各位閣下」







集英社文庫ー佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』
□2012年1月23日ーパレットのリブロをのぞくと佐野眞一氏の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』上巻の文庫本2刷があった。上記の誤植は大体訂正されているが、今帰仁家の朝和が湧川となったままである。人物索引で沖縄を代表するヤクザ界のドン・又吉世喜が正喜となったままである。

私は1969年2月、京都駅近鉄名店街の京風料理の店で働いていた。河原町の京都書院、駸々堂はよく行った。後にジュンク堂も開店。大阪には難波の吉本興業の前に一軒、梅田に二軒もジュンク堂が出来た。私が大阪に来た頃は大型書店と言えば紀伊國屋書店と旭屋書店が梅田にあった。今、私の手元に佐野真一の『だれが「本」を殺すのか』(新潮文庫)がある。カバーはJUNKUDO、大阪本店で買ったものである。中にダイエーの中内功の名台詞「戦後、神戸から出て大きくなったのは山口組とダイエーだけや」を紹介し、今はダイエーの代わりにジュンク堂をいれなきゃいけませんね、と佐野氏が云う。今回その通りになった。那覇のダイエー跡にジュンク堂が入るという。これで沖映通りに活気が蘇ると確信する。

佐野氏の本に出会ったのは沖縄出身の与座弘晴を紹介した『業界紙諸君!』(1987年)が最初である。この本には佐野氏自身のタウン紙「新宿れぽ-と」(旬刊)の記者時代に触れ「オーナーはこの街を根城にする本職のヤーさんだった」と書く。「新宿れぽーと」は1982年の時点で240号を出している。発行人は伊藤晃三郎である。伊藤は沖縄の宜保俊夫と共に東亜友愛事業組合の大幹部,『月刊友愛』も発行、1981年9月号は「沖縄本土復帰十周年記念」であった。

山口組時報の編集部員でもあった岡田龍之助(岡田興行)は時報に「人切り五郎」で知られる藤田五郎(東亜友愛事業組合常任理事)に「男の詩(うた)」を書かせている。岡田は山口組幹部の白神一朝主宰の右翼雑誌『八紘』(1975年4月)に「青春交遊録」を書き「(昭和29年)当時の新宿に白神氏が訪ねたのは、その数ある組のうち安田組幹部・伊藤晃であった。この伊藤晃こそ現在の東亜友愛事業組合常任理事の伊藤晃三郎であり、かく申す筆者の兄貴分」と、自らの「藤山寛美恐喝事件」にも触れ回想している。

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大日本印刷は3月18日、ジュンク堂と資本提携で子会社化した。大日本印刷の前身の一つが秀英社である。沖縄の親泊朝擢は1917年に秀英社から『沖縄県写真帖』を印刷した。先の『だれが「本」を殺すのか』で、ジュンク堂の社長は経営安定のため紀伊國屋との提携を標榜していたから今回の提携は計画に入っていた。