写真右上ー左端が川平朝清さん(元東京沖縄県人会会長)

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 1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスパの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。

 安太郎さんは、終戦後の捕虜時代には、小禄村や金武村の収容所で米軍将校らの肖像画を描いた。屋嘉捕虜収容所から石川をへて東恩納博物館へ。1945年8月、沖縄諮詢会文化部芸術課技官。慰問用の芝居の舞台絵や小道具なども作った。
 2009年5月15日、沖縄県立博物館・美術館で「豊潤の美を求めてー金城安太郎と高畠華宵」が開かれた。企画したのは金城美奈子さん、別府大学美術史学で学び1994年の春、挿絵画家として一世を風靡した高畠華宵の大正ロマン館(1990年開館)学芸員となり、そこでは華宵らを通じて大正文化を考え、調査研究だけでなくミュージアム・ショップの商品や喫茶室のメニューのアイディアも提案。沖縄で高校教諭を経て沖縄文化の杜企画部員。成り行きとして、沖縄の挿絵画家は?となり金城安太郎に注目する。その図録は沖縄タイムス社から発行されたが、「日本近代 表紙絵・挿絵略年表」「沖縄近現代 表紙絵・挿絵略年表」「金城安太郎の表紙絵・挿絵」は貴重な資料だ。

6月13日には沖縄県立博物館・美術館で「ニシムイ」展が開かれる。ヤマトの研究者に画家の作品だけ見て「ニシムイの画家に歴史に残る画家は居ない」とのたまう評論家も居る。しかしニシムイの画家たちは壺屋のデザインにも協力し、自ら紅型を復興をなしている。また沖展発展のためにはチンドン屋の役回りも買って出ている。いずれにしても歴史に残る残らないは、美術館の学芸員たちの光の当て方というか創造力が試される。私は『沖縄タイムス』の安太郎さんの追悼文の末尾に「最後の琉球絵師・安太郎さんは一昨年までは獅子加那志とミロク仏を黙々とつくり、今、これに打ち乗り同行、異次元の世界へと旅立たれた。-合掌ー」と記した。




沖縄県立博物館・美術館 図録『彷徨の海―旅する画家・南風原朝光と台湾、沖縄』『邂逅の海―交差するリアリズム』『「彷徨の海」「邂逅の海」関連年表』
■美術館開館10周年記念展『彷徨の海―旅する画家・南風原朝光と台湾、沖縄』(11/1~2/4)
■美術館開館10周年記念展『邂逅の海―交差するリアリズム』(12/19~2/4)