1981年11月 『ダカーポ』創刊号○ダカーポは現代ジャーナリズムの索引の役目を果たします/専門誌、ミニコミ誌、PR誌などの中には、そのままにしておいては惜しい貴重な情報がたくさん含まれています。それらの情報を積極的に発掘、魅力を伝える。/夕刊フジ・日刊ゲンダイ、このようなメディアの個性の違いを楽しむ。


2004年6月 『ダカーポ』「いま、新聞がおもしろい!」
2007年12月『ダカーポ』「中国新世紀」/「このままじゃ、雑誌はダメになるー頑張れ!雑誌 頑張れ!『週刊現代』」○新聞は”社会の木鐸〟を忘れて、記者クラブ経由で官製情報の垂れ流し。広告収入に依存したテレビ局は、視聴率競争に明け暮れて週刊誌の後追い。(略)生々しさは週刊誌の現場が一番持っているかもしれない。かつて朝日新聞の深代惇郎さんや読売新聞の本田靖春さんがいた頃の、古き良き時代の社会部のようなDNAの尾っぽは、週刊誌に流れ込んでいるんじゃないかな。公権力の情報操作が巧みになったいまこそ、その公権力のウソを看破するのは週刊誌しかない。


1945年 - 凡人社創立、11月に雑誌「平凡」を創刊
1954年 - 「平凡出版株式会社」に組織変更
1955年 - 「平凡」発行部数140万部を突破
1959年 - 「週刊平凡」創刊。
1960年 - 「週刊平凡」100万部突破
1964年 - 「平凡パンチ」創刊。若者向けの雑誌として一世を風靡する。
1965年 - 「平凡パンチデラックス」(隔月刊)創刊。
1966年 - 「平凡パンチ」100万部突破。
1968年 - 「ポケットパンチOh!」(月刊)創刊。
1970年 - 「an・an」創刊。大型女性誌としてスタート。フランスの「エル ELLE」誌と提携した。集英社の「non-no」とともに人気雑誌となる。
1974年 - 「スタア」(月刊)創刊。
1976年 - 「ポパイ」創刊 "Magazine for City Boys"というサブタイトルでスタート。男性週刊誌のさきがけといわれる。
1977年 - 「クロワッサン」創刊。ニューファミリー生活誌として創刊。
1980年 - 「ブルータス」創刊。「男として生きる術を心得た、あらゆる男たちのために」が合言葉であった。



1981年 - 「ダカーポ」創刊。「現代」が3時間でわかる情報誌としてスタートした。
1982年 - 「エル・ジャポン」創刊。「Olive」創刊。"Magazine for Romantic Girls"というサブタイトルを使用した。
1983年 - 会社名を「株式会社マガジンハウス」(〒104-8003東京都中央区銀座3丁目13-10)に変更。ニュージャーナリズム誌「鳩よ!」創刊。→ウィキ

マスコミの怪物とも云われた週刊誌、ことに古本屋に並んでいる雑誌・週刊誌は安い。入手し、切り抜いて手帖にスクラップするのが唯一の娯楽であった。スポーツは見るのも好きではないが、古本屋に雑誌・週刊誌を求めて一日中歩き回るのは苦にならない。当時のスクラップは今は殆ど残っていないが三鬼陽之助の「スクラップ箱」の書斎の写真が載っているグラフ誌のスクラップなどはある。
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三鬼陽之助の書斎

週刊誌は個人で保存するには限界がある。後に雑誌図書館・大宅壮一文庫が開館したときは早速に訪ね整理法を学んだ。そのときは西沢昌司氏が応対してくれた。次に行くと、八重山出身の上江洲榕氏と出会った。『琉文手帖』2号の東京連絡所が大宅文庫(http://www.oya-bunko.or.jp/)となっているのは上江洲氏が引き受けたからである。

大宅壮一文庫
 1959年6月に来沖した毒舌評論家の大宅壮一は糸満摩文仁の南部戦跡で「動物的忠誠心」「家畜化された盲従」などの発言で物議を醸したが、その大宅は死して20万冊余の雑誌と、独特な分類整理法を遺した。大宅は「資料には、新聞、雑誌、単行本の3つがある。新聞は事件の起こった年月日、あるいはその背景をすばやく知るのに役立つ。したがってナマの資料として欠かすことができない。しかし、単行本は資料としてはあまり役に立たない。理由は、一人の著者が自分の観点から物を見、判断しているから、淘汰されすぎている。だから資料としての面白みがとぼしい。それにくらべると、雑誌は資料の宝庫だ。新聞にくらべ、事件、時代の背景が分量的にもたくさん盛り込まれている。それに1冊の雑誌の中には、多くの記事、つまりたくさんの事件、そして視点が詰まっている。ときには、正反対の意見が同時に掲載されているし、とくにインチキ雑誌、バクロ雑誌のたぐいにはときどき面白い記事がある。そういった意味で、雑誌は文字通り資料の宝庫だ」

 「本は読むものではなく、引くものだよ」。マスコミ生活50年、かたわら、資料の収集整理に力を尽した大宅壮一らしい言葉です。大宅壮一は、ことあるごとに古書市、古本屋通いを続け、およそ20万冊の蔵書を遺しました。生前その資料室は、“雑草文庫”と称され、蔵書のほとんどが雑誌、雑本で占められていました。没後の1971年、マスコミはじめ各界のご協力により財団法人大宅文庫(1978年大宅壮一文庫と改称)が設立されました。当初は1日平均2人に満たなかった利用者は、現在1年間でおよそ10万人です。(→大宅壮一文庫)


1960年1月1日『琉球新報』「沖縄を料理するー毒舌ことはじめ大宅壮一・岡本太郎」



1982年4月『図書館雑誌』上江洲儀正(大宅壮一文庫事務局次長)□大宅壮一文庫の方法・(略)資料を事典にかえる索引の役割ー去る1980年に『大宅壮一文庫索引目録』を刊行したとき、日本現代人物のなかで資料のもっとも多い人物を調べてみたら、田中角栄(1、017件) 長島茂雄(736件) 三島由紀夫(702件) 美空ひばり(702件) 福田赳夫(552件) 野坂昭如(547件) 江川卓(536件) 王貞治(531件) 石原慎太郎(518件) 山口百恵(513件)・・・・・・の順になった。最近は、田中のトップは断然揺るがないにしても、長島や王、江川のプロ野球勢と、引退した山口がずいぶん件数を稼いだようだ。文庫の資料のほとんどが雑誌、しかも索引化されているのがポピュラーな総合雑誌であってみれば、この資料件数は知名度のバロメーターである、といえないだろうか。いいほうの記事か、悪いほうのそれかは別にしても・・・・・。

 人名索引に比べると件名索引は分類がちょっと難しい。人名索引なら、例えば西田敏行の記事(その家族の記事もふくむ)は、その人物以外には分類されようもなく、それだけ間違いも少ないのだが、件名索引は内容や記事の扱われ方も考慮しなくてはいけないから少々面倒になる。時には、何のことを書いているのかさっぱりわからないようなコウショウな論文があったりして頭を抱えてしまうこともある。ともあれ、人名で分類されない記事は件名索引のどこかに分類しなくてはいけない。

 件名索引には「政治・その他」「経済」「世界」「天皇」「戦争」「公害」「犯罪・事件」「世相」「おんな」「サラリーマン」「趣味・レジャー」「スポーツ」「芸能・芸術」「マスコミ」「地方」・・・・・など33の大項目があり、それぞれの大項目はいくつかの中項目をもつというふうにたこ足配線のようになっていて、小項目は全部で約6千ある。大分類がNDCの10に比べて33と多いのは、NDCの「社会科学」に相当する分野がふくらんで、こんなふうにしないと不便になってしまうからだ。これもまた雑誌索引であってみれば当然といえるかもしれない。

 例えば、大項目「災害」には、地震、水害、台風、海の惨事、山の遭難、火災事故、飛行機事故、など13の中項目があり、その中の「地震」の項目を紹介すると、地震の歴史、地震一般、予知、防備・対策、川崎ガケ崩れ、実験事故、地震と鯰、地震学・学者、川崎直下型地震の予測、地震と火山の関係、関東大震災、新潟地震、松代地震、十勝沖地震、宮城県沖地震、その他の地震、というように区分されている。つまり地震に関する記事はこの15の項目のいずれかに分類される。世相を反映する大宅文庫の索引は可変的で、今後大きな地震が起こったらその地震についての項目が新たに設けられる。しかし、小さな地震のひとつひとつの項目はおこす必要はない。そのために「地震一般」や「その他の地震」の項目のように大きく括る、あるいは他のどこにも分類されないようなものを集めておく場所を、中項目に最低一カ所設けておくのだ。

 索引には最大公約数的な考え方が必要だ。あまり厳密にしすぎると逆に不便になってしまう場合が多い。ある程度不統一であっても、何がどこにあるかがすぐにわかるような実用的な索引づくりを今後も心がけていきたい。


上江洲儀正(上江洲榕)ー南山舎前史

1983年2月 なんりの会『じくうち』上江洲榕「ニーラン神の島」
1984年7月4日 『琉球新報』上江洲儀正(大宅壮一文庫事務局次長)「落ち穂ー追悼M君」
1989年1月20日 『沖縄タイムス』上江洲儀正(南山舎代表)「八重山手帳」

手元にある『大宅壮一文庫索引目録』の扉には彼に押して貰った文庫の印がある。そのときの名刺には「財団法人大宅壮一文庫事務局次長」とあった。彼は『じくうち』の同人で4号に東京とシマをテーマに小説「二ーラン神の島」を書いている。5号に「肝苦さんさあ」、6号に「義足」、7号「人形」であった。私は彼が文庫に居る時、松島記者担当の『琉球新報』落ち穂欄にエッセイを書いてもらったが今では良い記念となっている。その次に会ったときの名刺には「企画・出版・情報処理・南山舎」とあった。

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写真左から金城正篤氏、仲宗根将二氏、新城栄徳、上江洲儀正氏



岡留安則の幻視行日記

1980年7月『別冊新評』「ルポライターの世界」新評社 和多田進×岡留安則「対談ー出でよ”熱き〟ルポライター」岡留安則「ルポライターと編集者」

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『噂の真相』を糾弾する右翼結社

屋良朝博氏、 岡留安則氏、

ネットの「岡留安則の幻視行日記 」をいつも愛読している。同感というか意見が同じ所を抄出する。詳しくは同ブログを。
岡留安則の幻視行日記 - 噂の真相2012.01.01■1月某日 (略)しかし、東京電力や霞が関、官邸の杜撰な事故処理の検証がだんだん進むにつれ、怒りがふつふつとわいてくる。福島をはじめ東北の人たちは我慢強いといわれるが、まさにそのとおりである。普通ならば、暴動の一つや、東京電力に対する襲撃事件くらい起こっても不思議じゃない。世界の動きを見ていれば、帝国主義の本家・米国のニューヨークですら、反格差の運動が起こっている。中東、アラブ世界、ギリシャ危機に端を発したEU危機、ロシア・プーチン派の不正選挙に対する怒りの抗議行動、世界中が怒りの抗議を見せている。例外は金正日総書記を失った独裁国家・北朝鮮くらいのものか。しかし、それにしてもわが日本も実に「不思議の国」である。
  
年末ぎりぎりになって野田政権の民主主義を無視した暴挙ともいえる独裁的政策が国民の目を盗んで断行された。財務省に完全洗脳された野田総理や民主党執行部が消費税増税でなぜここまで必死になるのか。ただでさえ景気の悪い日本がよりダメになり、生活困窮者や年金生活者には過酷な税金重圧である。米国への忠誠の一点において、普天間基地の代替施設である辺野古新基地の環境アセスの提出も県庁の御用納めの午前四時に強制的に執行された。沖縄県民の一部は県庁内に座りこみをやって、防衛省・真部朗局長らの暴挙を阻止する実力行使に出た。しかし、極東一の空軍基地のある嘉手納町にそびえたつ沖縄防衛局の建物に放火する人も火炎瓶も投げる人もいなかった。福島県民も大人しいが、沖縄県民もその意味では大人しい。そこに付け込んでいるのが、野田政権や、防衛省官僚どもである。

「サンデー毎日」の正月グラビアとして企画された有名人への年賀状で筆者にはジュリアン・アサンジが指名された。原稿の締切に間に合わず没になったが、年賀状は書かない筆者だが、ここにその内容の一部をここに紹介しておきたい。
<アサンジさま、いかがお過ごしですか。貴殿のウィキリークスの歴史的な国家機密暴露活動に敬意を表している日本のフアンの一人です。実は私も活字を武器に雑誌メディア「噂の真相」で25年間にわたり、告発ジャーナリズムを実践してきました。書かれた側からの裁判沙汰や右翼団体による肉体的な危害も受けました。「国家を撃つ!」活動は、暴力装置を併せ持つ国家の先兵たちが、さまざまな干渉、妨害、抹殺のための刺客をあちこちに配置しています。 しかし、貴殿の仕事はノーベル賞以上の、世界の平和に貢献する英雄的行為です。私は雑誌という媒体でしたが、一瞬のうちに世界を駆け巡るインターネットに比べれば、手ぬるく、まどろっこしい進化が遅れたメディアです。むろん、世界中に存在する新聞、電波メディアも既得権益の中で、真相を追及するにはタブーや手枷足枷が多すぎます。マイケルムーア監督のドキュメント映画による告発も支持していますが、アサンジさんのネットメディアによる告発・暴露には、市民目線で言えば絶対的正義があります。国家が総力をあげて妨害、潰しを仕掛けてくるでしょうが、世界市民というバックグランドの方が強大で、その存在は不滅です。既得権益を死守する連中にとっては、きわめて現代的なゲリラ革命に見えるはずです。身辺に気を付けて、今年もウィキリークスの存在を全世界に発信してください。既得権益に縛られた旧時代はもう世界的に今年で終わりにしましょう。 米軍基地に占拠された極東の島・沖縄より 岡留安則>


2016年9月23日 久米の山田写真機店の帰途、若狭による。

若狭「龍神像」の前には大型クルーズ客船