左から『現代』創刊号 梶山季之「日本を操る悪徳政商の正体」/2004年1月「外務省の犯罪Ⅱ」

2004年9月『月刊現代』有森隆「カルロス・ゴーン『経営神話』の自壊ー数字のマジックだった 国内販売は苦戦、借金はまだ3兆円、コストカットの代償 4期連続の最高益ーだが、急激な改革のツケは確実に表面化しつつある。ゴーン日産の死角を暴く」、佐々木実「日米同盟の変貌に沖縄の漂流は続くー在日米軍については、アジア太平洋地域の司令塔の役割を負わせるプランがあるようだ。米国の構想では、ワシントン州の陸軍第一軍司令部を神奈川県のキャンプ座間に移すほか、グアムの第13空軍司令部を横田基地の第5空軍司令部に統合させるなどとなっている」

2005年9月「元NHK経理職員が告発『受信料乱費の実態』」/2006年2月 高杉良「小泉・竹中『亡国コンビ』への退場勧告」、枝野幸男・立松和平・中村彰彦「『同郷・同好・同朋』を語る」

1966年12月に週刊誌『週刊現代』の兄弟誌『現代』として、『少年マガジン』創刊編集長で『週刊現代』を軌道に乗せた牧野武朗編集長によって創刊された。2002年1月号から誌名を『月刊現代』と改める。『週刊現代』『小説現代』とともに「現代トリオ」として刊行されていた。創刊当初は総合月刊誌として、男性サラリーマンの生活に密着した政治、経済、社会、メディア、スポーツ、健康、教育、夫婦関係など幅広い分野を扱う。 1967年から1968年にはマーシャル・マクルーハンを集中的に取り上げ、1970年代から1980年代半ばにかけては田中角栄の記事を繰り返し掲載した。1976年8月号からは堺屋太一の近未来小説『団塊の世代』が連載され、団塊の世代という造語が定着することになった。→ウィキ


フライデー』(FRIDAY)は、講談社が発行、1984年(昭和59年)11月9日創刊の毎週金曜日発売(原則)の写真週刊誌。

野間清治
生年: 明治11.12.7 (1878)
没年: 昭和13.10.16 (1938)
大正昭和期の出版事業経営者。群馬県山田郡新宿村(桐生市)の生まれ。明治33(1900)年尋常師範学校を卒業し,教師になったが,35年東京帝大文科大学臨時教員養成所に入学。卒業後,沖縄中学校教諭を経て,40年東京帝大法科大学職員となる。折からの雄弁術流行の先頭に立っていた緑会弁論部の創立を助力した。学生の弁論を筆記し活字化する企画をたて,自ら大日本雄弁会を設立,43年雑誌『雄弁』を創刊。44年講談社を創立し,同年講談落語などの寄席芸能を筆記活字化した雑誌『講談倶楽部』を発刊し,大きな成功をおさめた。以後,『少年倶楽部』『少女倶楽部』『婦人倶楽部』などの雑誌を創刊し,雑誌王国を築いた。なかでも,『キング』は,「おもしろくて,ためになる」のキャッチフレーズ通り娯楽と修養を兼備した大衆雑誌として100万部を突破する部数を誇った。「講談社文化」という言葉も生まれたほど,その出版物が大衆の意識に与えた影響は大きい。<著作>『自叙伝』<参考文献>野間清治伝記編纂会編『野間清治伝』 →コトバンク

null

後に講談社を興す沖縄県視学の野間清治が沖縄を去るとき(1907年9月)の記念写真、中央に野間清治、後列右から5人目が富川盛睦、同じく2人目が横内扶。他の写真には同僚だった岸畑久吉らと撮った写真も伝記に収録されている。講談社が発足するとき参加したのが安元実発(元『沖縄新聞』記者)で、これも写真が講談社史にある。また野間の沖縄中学時代の教え子の森田孟睦も講談社にいた。□→検索「森田孟睦」。

null
1944年10月『野間淸治傳』野間淸治傳記編纂會

1938年11月ー『大阪球陽新報』□野間清治氏の葬儀ー大日本雄弁会講談社社長、報知新聞社社長の野間清治氏は去る16日東京小石川区関口台町の自邸に於いて狭心症のため急逝した享年61、葬儀は20日午後1時から佛式により講談社で同社並びに報知新聞社合同により社葬が行われた(略)報知新聞社社員の渡嘉敷唯錦氏の本社(大阪球陽新報社)に宛てた通信に、今更の如く故野間先生の偉大なる人物であったことに敬服した森田孟睦君を始め一中出身の講談社員4名と小生も葬儀委員を勤めた。沖縄県人で葬儀に参列し入口に立っている私の目についたのは読谷山朝宜(医師)、国吉真俊、久高将吉、冨名越義珍、宮里良保、恩河朝健の諸氏であったが勿論混雑の際とて他にも多数参列者があったことと思う。

講談社野間記念館は、講談社創業90周年事業の一環として 2000年4月に設立されました。展示品は、講談社の創業者・野間清治が、大正期から昭和初期にかけて収集した美術品を主体とする「野間コレクション」。明治から平成にわたり蓄積されてきた貴重な文化遺産ともいえる「出版文化資料」。さらに、講談社とゆかりの深い画家、村上豊画伯の画業が見てとれる「村上豊作品群」の3つに大別されます。


写真ー野間清治の墓(島袋和幸・撮影)護国寺(ごこくじ、東京都文京区大塚五丁目にある真言宗豊山派の寺。神齢山悉地院大聖護国寺と称する。

null
出版社の社史


1981年11月 『ダカーポ』創刊号○ダカーポは現代ジャーナリズムの索引の役目を果たします/専門誌、ミニコミ誌、PR誌などの中には、そのままにしておいては惜しい貴重な情報がたくさん含まれています。それらの情報を積極的に発掘、魅力を伝える。/夕刊フジ・日刊ゲンダイ、このようなメディアの個性の違いを楽しむ。


2004年6月 『ダカーポ』「いま、新聞がおもしろい!」
2007年12月『ダカーポ』「中国新世紀」/「このままじゃ、雑誌はダメになるー頑張れ!雑誌 頑張れ!『週刊現代』」○新聞は”社会の木鐸〟を忘れて、記者クラブ経由で官製情報の垂れ流し。広告収入に依存したテレビ局は、視聴率競争に明け暮れて週刊誌の後追い。(略)生々しさは週刊誌の現場が一番持っているかもしれない。かつて朝日新聞の深代惇郎さんや読売新聞の本田靖春さんがいた頃の、古き良き時代の社会部のようなDNAの尾っぽは、週刊誌に流れ込んでいるんじゃないかな。公権力の情報操作が巧みになったいまこそ、その公権力のウソを看破するのは週刊誌しかない。
1945年 - 凡人社創立、11月に雑誌「平凡」を創刊
1954年 - 「平凡出版株式会社」に組織変更
1955年 - 「平凡」発行部数140万部を突破
1959年 - 「週刊平凡」創刊。
1960年 - 「週刊平凡」100万部突破
1964年 - 「平凡パンチ」創刊。若者向けの雑誌として一世を風靡する。
1965年 - 「平凡パンチデラックス」(隔月刊)創刊。
1966年 - 「平凡パンチ」100万部突破。
1968年 - 「ポケットパンチOh!」(月刊)創刊。
1970年 - 「an・an」創刊。大型女性誌としてスタート。フランスの「エル ELLE」誌と提携した。集英社の「non-no」とともに人気雑誌となる。
1974年 - 「スタア」(月刊)創刊。
1976年 - 「ポパイ」創刊 "Magazine for City Boys"というサブタイトルでスタート。男性週刊誌のさきがけといわれる。
1977年 - 「クロワッサン」創刊。ニューファミリー生活誌として創刊。
1980年 - 「ブルータス」創刊。「男として生きる術を心得た、あらゆる男たちのために」が合言葉であった。



1981年 - 「ダカーポ」創刊。「現代」が3時間でわかる情報誌としてスタートした。
1982年 - 「エル・ジャポン」創刊。「Olive」創刊。"Magazine for Romantic Girls"というサブタイトルを使用した。
1983年 - 会社名を「株式会社マガジンハウス」(〒104-8003東京都中央区銀座3丁目13-10)に変更。ニュージャーナリズム誌「鳩よ!」創刊。→ウィキ

マスコミの怪物とも云われた週刊誌、ことに古本屋に並んでいる雑誌・週刊誌は安い。入手し、切り抜いて手帖にスクラップするのが唯一の娯楽であった。スポーツは見るのも好きではないが、古本屋に雑誌・週刊誌を求めて一日中歩き回るのは苦にならない。当時のスクラップは今は殆ど残っていないが三鬼陽之助の「スクラップ箱」の書斎の写真が載っているグラフ誌のスクラップなどはある。
null
三鬼陽之助の書斎




2006年12月 新井田秀一『宇宙から見た日本~地球観測衛星の魅力』東海大学出版会

2012年8月17日の岡留氏ブログ□かつてのウワシン編集長時代には、関係者たちとの酒席の場で、「竹島は爆破して海に沈め、漁業圏での話し合いを持てばいい」「北方四島は、日本が金銭で買い取るか、共同開発ゾーンにすればいい」「尖閣諸島も話し合いで共同開発するしかない」というような持論を展開していた。その後、ロシアは経済力を身に着けたため、まさか買い取るなどという話は通用しまい。やはり、領土問題は慎重にも慎重を重ね、粘り強く交渉を続けるしか術はない、というのが結論だ。話は変わるが、恒例の敗戦特集の特別番組で面白かったのはNHKスペシャルの「終戦 なぜ早く決められなかったのか」だった。ロシアの参戦を強く希望したのは米国であり、その際、国後、択捉の割譲も約束していたのだ。最終的に広島、長崎に原爆を投下し、米軍が最小限のリスクで日本の無条件降伏を勝ち取った。敗戦までの半年の間に、日本人の犠牲は50万人以上に上った。御前会議や最高戦争指導者会議でも、決められないトップたちがバラバラの意見や思惑を持っていたためだ。誰も責任を取らない無責任体制は、戦後67年経っても全く変わっていない。霞ヶ関、東電、政治家しかり、だ。

岡留安則の幻視行日記

1980年7月『別冊新評』「ルポライターの世界」新評社 和多田進×岡留安則「対談ー出でよ”熱き〟ルポライター」岡留安則「ルポライターと編集者」

null

『噂の真相』を糾弾する右翼結社

屋良朝博氏、 岡留安則氏、

ネットの「岡留安則の幻視行日記 」をいつも愛読している。同感というか意見が同じ所を抄出する。詳しくは同ブログを。
岡留安則の幻視行日記 - 噂の真相2012.01.01■1月某日 (略)しかし、東京電力や霞が関、官邸の杜撰な事故処理の検証がだんだん進むにつれ、怒りがふつふつとわいてくる。福島をはじめ東北の人たちは我慢強いといわれるが、まさにそのとおりである。普通ならば、暴動の一つや、東京電力に対する襲撃事件くらい起こっても不思議じゃない。世界の動きを見ていれば、帝国主義の本家・米国のニューヨークですら、反格差の運動が起こっている。中東、アラブ世界、ギリシャ危機に端を発したEU危機、ロシア・プーチン派の不正選挙に対する怒りの抗議行動、世界中が怒りの抗議を見せている。例外は金正日総書記を失った独裁国家・北朝鮮くらいのものか。しかし、それにしてもわが日本も実に「不思議の国」である。 
 年末ぎりぎりになって野田政権の民主主義を無視した暴挙ともいえる独裁的政策が国民の目を盗んで断行された。財務省に完全洗脳された野田総理や民主党執行部が消費税増税でなぜここまで必死になるのか。ただでさえ景気の悪い日本がよりダメになり、生活困窮者や年金生活者には過酷な税金重圧である。米国への忠誠の一点において、普天間基地の代替施設である辺野古新基地の環境アセスの提出も県庁の御用納めの午前四時に強制的に執行された。沖縄県民の一部は県庁内に座りこみをやって、防衛省・真部朗局長らの暴挙を阻止する実力行使に出た。しかし、極東一の空軍基地のある嘉手納町にそびえたつ沖縄防衛局の建物に放火する人も火炎瓶も投げる人もいなかった。福島県民も大人しいが、沖縄県民もその意味では大人しい。そこに付け込んでいるのが、野田政権や、防衛省官僚どもである。

 「サンデー毎日」の正月グラビアとして企画された有名人への年賀状で筆者にはジュリアン・アサンジが指名された。原稿の締切に間に合わず没になったが、年賀状は書かない筆者だが、ここにその内容の一部をここに紹介しておきたい。
<アサンジさま、いかがお過ごしですか。貴殿のウィキリークスの歴史的な国家機密暴露活動に敬意を表している日本のフアンの一人です。実は私も活字を武器に雑誌メディア「噂の真相」で25年間にわたり、告発ジャーナリズムを実践してきました。書かれた側からの裁判沙汰や右翼団体による肉体的な危害も受けました。「国家を撃つ!」活動は、暴力装置を併せ持つ国家の先兵たちが、さまざまな干渉、妨害、抹殺のための刺客をあちこちに配置しています。 しかし、貴殿の仕事はノーベル賞以上の、世界の平和に貢献する英雄的行為です。私は雑誌という媒体でしたが、一瞬のうちに世界を駆け巡るインターネットに比べれば、手ぬるく、まどろっこしい進化が遅れたメディアです。むろん、世界中に存在する新聞、電波メディアも既得権益の中で、真相を追及するにはタブーや手枷足枷が多すぎます。マイケルムーア監督のドキュメント映画による告発も支持していますが、アサンジさんのネットメディアによる告発・暴露には、市民目線で言えば絶対的正義があります。国家が総力をあげて妨害、潰しを仕掛けてくるでしょうが、世界市民というバックグランドの方が強大で、その存在は不滅です。既得権益を死守する連中にとっては、きわめて現代的なゲリラ革命に見えるはずです。身辺に気を付けて、今年もウィキリークスの存在を全世界に発信してください。既得権益に縛られた旧時代はもう世界的に今年で終わりにしましょう。 米軍基地に占拠された極東の島・沖縄より 岡留安則>

泥沼・東京の出版社から出ているルポライター佐野真一の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』には仲井真沖縄知事がクソミソに書かれている。知事が抗議したとの話はないから事実であろう。当の知事は相変わらずポーカーフェイスで棒読みの会見で話題となっていたが、最近も変わらず飛ばし読みまでする。佐野が描いているのはホンネの沖縄戦後史、佐野はウラ社会にも詳しくその人脈を駆使し情報を集め本書が成り立っている。無論、ホンネの世界はコンビニで売られているヤクザ美化週刊誌やエロ週刊誌でも日常茶飯事に紹介されている。何かコトが起こるたび専門家と称する大学教授のタテマエ論でお茶を濁す新聞も最近はネットの陰(現実)の部分も指摘するようになった。新聞のコラムに新都心にある美術館を泥中の蓮華に例える文を見た。つまり、新都心のあまりにも最悪最低な欠陥構造、エコといいつつクルマ、パチンコ屋やゲーム屋で溢れかえり、高層ビルが次々と建ちならぶ。健康上も精神的にも悪そうな泥沼化(都市化)したクソミソ環境を「泥中」だと云うのだ。

□→「岡留安則の幻視行日記 - 噂の真相」
「琉球新報は一面トップで「辺野古は『不可能』」と大々的に打ち、沖縄タイムスは一面トップで「光市母子殺害 死刑確定」を持ってきて、二番手で「アセス知事意見175件 沖縄防衛局に提出」とやった。このところ、沖縄タイムスがスクープで奮起し、琉球新報に肉薄する紙面づくりをみせているが、一面トップのタイトル付という読者への見せ方も大切だという事を痛感する。(略)26日には野田総理がじきじきにやってくる予定だが、野田総理に秘策などあろうはずもなく、これまでの民主党代表や閣僚と同じく、ひたすら辺野古を哀願するだけだろう。子どもの使いじゃないのだから、沖縄県民が受け入れ可能な腹案くらい持って来い、だ。でないと、再び県庁前には「怒」のプラカードが乱立するはずだ。」 
null

2016年9月23日 久米の山田写真機店の帰途、若狭による。

若狭「龍神像」の前には大型クルーズ客船