2003年10月11日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑧當間清弘」

郷土史へ導いてくれた當間清弘氏
母方の伯父や伯母の連れ合いが奄美大島の出身だから、小学生のころから奄美大島は琉球の一部だと理解していた。父・三郎の出会いはちょっと違っていた。1947年、父が那覇の栄町「栄亭」のコック長のとき、用心棒代を店に要求にきた大島ヤクザに立腹し包丁で一人の鼻先を削いでしまった。父はグループの報復を恐れ糸満の親戚の所に身を隠した。翌年に生まれた私の名前の「栄」は、栄町からも来ている。

名瀬市は1972年前後3回、訪ねたが図書館はいつも休館日。だから島尾敏雄とついに出会うこともなかった。しかし、私にとってそれに匹敵する出会いが山下欣一氏だった。氏の『奄美のシャーマニズム』はもう古典的存在である。私も義母がユタをしていたので、それにまつわる話には関心がある。氏が私に資料を贈る義理は無いが気を使ってくださる。

喜納緑村『琉球昔噺集』を発行した三元社の萩原正徳が奄美関係者らしいと前々から気になっていた。山下氏に問い合わせると家系図、『道之島通信』、『定本・柳田國男集』の月報などの資料をたくさん贈ってこられた。緑村は1930年に『沖縄童話集第一編ー犬と猫』(津嘉山栄興挿絵)を神山青巧堂印刷で刊行した。印刷者の神山邦彦は久米蔡氏で元警察官、戦後『辻情史』をまとめ発行し1977年83歳で亡くなった。


當間清弘
小学4年のころ、首里の琉潭池側の琉球政府立博物館へ「首里那覇港図」をよく見にいった。博物館の入口付近に「三ツ星印刷所」(1926年に辻町で昭和石版として開業)がある。その売店に『毛姓系図家譜』『組踊全集』などが並んでいた。中を覗き「筑登之」「○王」など読めない字に悩んでいると、主人の當間清弘氏が買いもしない子供に読み方を教えてくれた。氏は1968年に80歳で亡くなった。


「昭和初期の那覇絵地図」(昭和石版印刷所 辻町3ノ70)


「首里那覇鳥瞰図」氏作成





□8月 『琉球古典組踊全集』當間清弘(三ツ星印刷所)→左の本・1965年9月『沖縄郷土古典芸能 組踊全集』
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沖縄県立博物館の裏手に「みどり印刷」がある。開業したのは石川逢正氏で、氏はミルクイシチャーと呼ばれる一門の家に生まれた。1955年に開業した当初は首里バスの切符、伝票、名刺などを印刷していた。石川氏は戦前、嘉味田朝春の向春印刷所から始まって戦後は新聞などを印刷していた中丸印刷所を経て独立。今は、息子の石川和男氏が業務をこなす。





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父の数少ない蔵書の中に渡嘉敷通寛『御膳本草』(首里三ツ星印刷1963年)がある。當間清弘が編集発行したものだ。食物を引用すると長くなるので泡盛のみを引いてみる。「焼酎は火酒とも稱し、気味は辛、甘、大熱、大毒である。少飲は濕を通じ、寒を去り、沈癪を消し、胸噎を通じ、痰飲を散らし、冷通を止める。けれども多飲は上気して頭痛吐逆等が起こって元気を損傷する。焼酎を呑んで冷水並びに熱湯に沐浴すれば忽ち死亡する慎むべきである。禁忌1薑(セウガ)、1蒜(ヒル)」と當間は今風に解説している。

『御膳本草』の原文は「しやうちうハ 焼酎也 気味辛甘大熱大毒あり 少し呑ハ濕を廻し寒をさり沈積を消し噎を通し痰飲を散らし冷痛を止め呑ハ上気して頭痛吐逆おこれて元気を損す焼酎を呑て冷水并熱湯に沐浴すれハ怱ち死す慎むへし」とあっさりしたものである。

下地玄信と桜沢如一
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下地玄信色紙(所蔵・翁長良明)

1939年9月1日『大阪球陽新報』□食餌療法の第一人者櫻澤如一氏は清交社の招聘に応じ29日午後零時半から正味1時間に亘り約2百名の同社員に正しい食物の食べ方によって人間の健康が絶対的に保持される原理をユーモアたっぷりで興味深く講演して一同に多大の示唆を与えた。同氏の紹介には沖縄県出身の下地玄信氏が当たった。

桜沢 如一 (さくらざわ ゆきかず)明治26年(1893年)10月18日 京都生まれ。 マクロビオティック理論の創始者。著作300冊以上。世界中でその思想を受け継ぐ弟子達が活躍中。 昭和41年(1966年)その波乱万丈の生涯を終える。享年73歳。
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1916(大正5)年9月26日『琉球新報』「秋 果實 レイシ」(写真)◇本県で晩夏から初秋にかけて即ち秋果實を選ぶならば第一に紅茘を取らなければならない紅茘は本県では龍眼と並び称せられている果實である紅茘は南国によく繁茂し熱帯植物に属するが本県よりは台湾、台湾よりは南洋と次第に南に進むに従って實も大きくなる然し本県は或る一部に限って植えられておるのみでそれも庭園に植えられたのみで産物として移出されるほどないのは遺憾である。

ツルレイシ(蔓茘枝、学名:Momordica charantia var. pavel)は、未熟な果実を野菜として利用するウリ科の植物である。また、その果実のこと。一般的にはニガウリ、ゴーヤーなどと呼ばれる。沖縄本島ではニガウリのことを「ゴーヤー」と呼ぶのが一般的で、沖縄料理ブームの影響もあり、全国的にも「ゴーヤー」または「ゴーヤ」を使用することが多くなっている。「ゴーヤ」という呼称が普及していった経緯は諸説ある。九州・南西諸島各地に地方名があり、沖縄県では沖縄本島(首里・那覇方言や今帰仁方言など)で「ゴーヤー」、宮古島(宮古方言)で「ゴーラ]」、八重山(八重山方言)で「ゴーヤ」、熊本県をはじめとする九州の大部分では「ニガゴリ」又は「ニガゴーリ」、鹿児島県奄美大島では「トーグリ」、長崎県諫早地方、鹿児島県本土では「ニガゴイ」などと呼ばれている。諫早地方では「ニガウイ」の名称も併用される。→ウィキペディア

 1991年7月 周達生『東アジアの食文化探検』三省堂□イトウリ・ニガゴイー沖縄では、中国南方諸省の人びとが好むヘチマを「ナーベーラー」といい、苦瓜を「ゴーヤー」といい、種々の野菜料理を作っている。鹿児島もそうである。ヘチマは、鹿児島では「イトウリ」と称するが、これは漢語の「糸瓜スークウア」をそのまま日本語で読んだものにちがいない。その若い果実を食用にする。ヘチマの名物料理「イトウリのしらじら」は、輪切りにしたヘチマを油で炒め、味噌で味つけしたものだ。中国では、味噌は使わないが、やはり炒め物にしたり、スープ種に」する。ニガウリは、ツルレイシとも呼ばれるが、鹿児島では「ニガゴイ」と称し、炒めて食べたり、おかかで食べたりして、独特のやや苦い味が好まれているのである。

 外間守善『沖縄の食文化』(2010年3月・新星出版)に「苦瓜(ゴーヤー) ゴーヤーもナーベーラーも中国から渡来したらしい。中国の人々は苦瓜を暑気払いの食べ物としているそうである。南部生まれの周恩来は苦瓜を食べたそうだが、北部生まれの毛沢東は苦瓜を食べなかった、という話を聞いたことがある。ゴーヤーは日本でも、沖縄から鹿児島に渡り、全国に広がっていった。今は東京周辺でも栽培されている。」とある。同書の参考文献に尚承/高良菊『おいしい沖縄料理』(1995年7月・柴田書店)があり、最初に「ゴーヤーチャンプルー」が紹介されている。

 2003年4月 中山美鈴・藤清光・坂本守章『まるごとあじわうゴーヤーの本「にがい」がうまいー』農文協□江戸時代の筑前藩の儒学者で「養生訓」の著者として広く知られる貝原益軒が編記した「筑前國續風土記」の土産考に、「苦瓜」が取り上げられています。「つるあり。實の色は綿の如く、形は瓜の如し。茘枝に似たり。小児食す。」とあり、この書物に着手された元禄年間、1700年頃にはすでに九州には土着していたことがわかります。(略)1773年から1804年に編集された大規模な農業の百科全書「成形図説」は薩摩藩主の島津重豪の時代で、これにはにがうりがへちまとともに描かれています。(略)1855年頃に制作された「遠西舶上画譜」には、「れいし」として黄色く熟れてずんぐりとした下膨れの形で描かれています。この頃も、まだ果実を野菜として食べるより、熟れて、種子をとることが中心だったのがわかります。

 渡嘉敷通寛『御膳本草』に「かふやあハ 苦瓜也 気味苦甘平毒なし邪熱を除け労乏を解し心を清し目を明らかにする也夏の月毎月食てよし」。1961年6月に同書を復刻した當間清弘は「沖縄で『かふやあ』はガフヤアと云い、蔓茘枝のことである。苦瓜と通常云っている。気味、苦、甘、平、毒はない。邪熱を除き、労乏を解き、心を清め、目を明にする。夏の月は毎日食ってよい」と説いている。